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風塵山荘
この掲示板は仏教者の視点から時事を語る掲示板です。宗教・宗派を問わず、特に正系六門下の日蓮主義≠謔閧フ時事評論は歓迎します。また十数年の長きにわたり特定の人物を誹謗・中傷してきた冨士尻学研究≠ニ称する不倶戴天≠フ邪妄団とは情報交換を通してともに闘う掲示板である。

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応顕寺のことから、様々に調べてみました。 返信  引用 
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:08月27日(月) 00時57分
いつも、申し訳ありません。今日も、私が書き込みばかり。
本当は、しばらく閲覧のつもりでした。
今日、応顕寺のについて調べていくうちに様々なことが分かりました。
今日は、夜の勤行でお題目を送らせて頂きました。
私は大石寺ではありません。
御本尊は違い、ご迷惑かとも思いましたが、せめてもの私の心です。

この掲示板で感じたことは。ここの住人の方で、娘さんのことを書かれた方を拝見しました。また、夏休みに川で釣りを楽しむ書き込みも。
信仰に関係なく、皆、家族を持ち日々平凡に生活をしておられ、その書き込みには、皆、本当に平凡な幸福のために懸命であることを知りました。ごくごく普通の人です。
すいません。もう私の素性を明かしますが、私は創価です。
確かに、ここの住人は大石寺の教義を超えています。(逸脱しています。)
法華講の方々におかれましては、謗法の人扱いは致し方がないかとも思います。

応顕寺のユーチューブを拝見しましたが、その文言は創価の方と同じ怒りを感じました。
因みに創価にも創価の教義を超えているネット依存症のような方がおられますが、これぐらいのことでは除名しません。
地元組織の皆様方を、はじめ見守る方向性です。
ただ、ご指摘のとおり、情報網だけはもの凄いものがありますが。
しかし、逆に、創価の教義を超えているネット創価人を揶揄し批判している創価人もおかしいよ。と思っている一人です。現場の人間は大抵そうだと認識しています。団結が崩れるからです。排除や斬ることは、そこから集団としては弱くなります。当然ですよね。分断は悪です。(これは創価思想です)
僧侶が上、信徒が下。絶対的に聞き入れなければならない。で、なければ、とのいかにも、を創価人は嫌います。現場ではおおくの僧侶に古くいじめられ見下されてきたからです。
創価人は本人が創価を辞めない限りどのような方であろうとも、同志です。
人を斬る、排除するとは、あまり、良いことではありません。
創価は斬らなさすぎて煩雑であり、もう、クソミソ状態でもありますが。バカもきちがいも、ふつうの人間も、立派な人間も、特別に出来る教学の達人も実はいます。そういう方はネットには出入りしません。
様々な見解を持つ方を意にそぐはないから即座に斬ってしまうような狭さはありません。仏教における研究者も一人といわず実はいます。寛容です。しかし、そのクソミソから生まれる縁起はまさに摩訶不思議な現証を題目を皆であげっきっていくなかで生じてくるから不思議です。
創価教学は忙しい在家のために解釈されたものであり、激励です。もはや仏法を超えているとも思うのですが、まずは、この現実社会をどう乗り越えるかが課題なのです。そのような背景があって創価教学は、異端
に思えるのは無理ないかと存じます。
創価の話ばかりになりました。
ともあれ、ここの住人のお方がどのようにされるのかは知り得ませんが、前に前に進んで行って下されば嬉しいです。

法太郎さんへ。本門立正宗なる痴犬集団についての記事ですが。 返信  引用 
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:08月26日(日) 00時26分
降魔の剣を開きました。
「本門立正宗」と「日蓮正宗法華講」との法論を掲載され、PDFにダウンロードして読ませて頂いております。

法太郎さんの所見も、また、日蓮本仏論については、この法論での大草先生の論文と同じ御所見であると『本門立正宗なる痴犬集団について』の記事の文面から理解させて頂きました。
本仏か余仏かについては、これにて終了ですね。



「本門立正宗」と「日蓮正宗法華講」との法論から学んだこと。
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:08月26日(日) 04時06分
>この釈尊の本因初住は、宗祖本仏義に入るための最も初門となる義であるが、

天台のいう初住位とは法華文句巻九下、『初住に上る登る時、己に常寿を得たり』との釈ということが分かった。
常寿とは平たくは永遠に変わらぬ生命。
また同じく、法華文句巻九下には『仏、三世において等しく三身有り。諸経の中に於いてこれを伝えず』とも釈している。
あの宗派の方はこれが理解できていないのだ。やっと分かった。
常寿を初めて説いたのは、法華経如来寿量品一六に至ってからだ。
『我成仏してより己来、甚だ大いに久遠なり、寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず』すなわち、これぞ久遠元初。

総勘文抄『釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にておわせし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき。後に化他の為に世々番々に出世成道し、在々処々に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して仏になる様を衆生に見知らしめ四十余年に方便経を儲け衆生を誘引す。』すなわち、久遠元初自受用身。(ここでの対象は釈尊)
これは(ここでの本仏)釈尊の自内証の境界を本質とする概念で、本門の開顕によって、爾前迹門の十界因果を打破したもの。
『仏界も無始の九界に具し、九界も無始の仏界備わる』本門の十界因果(=本因本果)
そして、
本因本果・因果具時。事の一念三千。さらには、本因本果本国土三妙一体。と。
繋がった。
決定、やはり、法華経文底で行くことに決定。
しかし、本仏は釈迦か日蓮か。これは、あせらずに一先ず置くことにしよう。
そうなれば、本尊も今まで通り文字曼荼羅。決定。
久遠元初、久遠実成は、わずかな経験からでも、一回、自分の中にあるように実際、感じたこともあるし。







HN変えます 返信  引用 
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:08月25日(土) 13時50分
残暑お見舞い申し上げます。
皆様、この猛暑の中、お体大丈夫でしょうか。

早速ですが、このほど、HNをお尋ねします。改め、法隆寺釈迦三尊に改名させて頂きます。何卒、宜しくお願い申しあげます。

お尋ねしますさん、 返信  引用 
名前:松木法太郎    日付:08月24日(金) 23時43分

云く、
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釈迦の精神を述べたものとは根本的に違いますよね。阿含経経典群の中に、その当時の語りべが語りべに、またその語りべが語りべに伝えた、実物大の釈尊のことを少々、書かれていますが、大乗興隆と、それは、まったくそれとは別物ですよね。
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※前生譚ですな。釈迦がかって修行した時の名前がボサツ≠ナあったが、大乗では修行の階位となってしまいましたね。(笑)、


云く
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経に依って釈尊の性質?どういったらいいのか分かりませんが、変わるのは存じております。細かいことは分かりませんが。
大石寺でのそれは、五重の相対の上で大事なことですよね。
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※パーリー聖典の最古層にある経典類には摩訶不思議な表記がまま、見られます。犀の角の章句などがその代表的な経典ではないですかね。「蛇の章」には以下のような文々句々があります。


「あたかも森林の中で、縛られていない鹿が餌を求めて思うところに出かけるごとく、知者は独立自在の獲得を期して、犀の角のように独り歩め」

「同伴者たちの中にいると、休むとき、立つとき、行くとき、旅するとき、人から呼びかけられる。だれも欲しない独立自在の獲得を期して、犀の角のように独り歩め」

「同伴者たちの中にいると、遊戯と娯楽がある。また子どもたちへの情愛は広大である。愛しい者と別れることを厭いつつ、犀の角のように独り歩め」

「道理にはずれたものを見て不正にとらわれいる悪い仲間を避けよ。執心し怠惰な人にみずから近づくな。犀の負のように独り歩め。」

「多く学び、真理の教えを守り、立派で才智ある友と交われ。ためになることがらを知って疑惑を除き、犀の角のように独り歩め」

「独坐の思惟と禅定を捨てず、なにごともつねに理法通りに行い、もろもろの生存における過患をよく知って、犀の角のように独り歩め」

「慈しみ、平静心、あわれみ、解脱、そして喜びを時に応じてよく修め、世間のぜんたいに背かず、犀の角のように独り歩め」



※犀は犀≠ニいう命があって生命活動を行っているのであって角≠ェ犀の体を離れて存在しているわけではないが、なぜか、釈迦はこのような表現をしています。衆生は犀にはなれないが犀の角が常に先端にあって雄々しくすすむように、道の取得に邁進せよ、ということですかね。

名前は失念しましたが、浄土系の学者がかって仏教を「道の体系」と呼んだことがありました。終わりの無い修行こそ仏教の精神なのかもしれません。・・・・・本因妙ですな。(汗;、
 



いつも、お世話になります。
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:08月25日(土) 13時47分
いつもお世話になります。
未だ、お尋ねしますでは、宜しくないと思い、法隆寺釈迦三尊にHNを変えさせて頂きます。

>浄土系の学者がかって仏教を「道の体系」と呼んだことがありました。終わりの無い修行こそ仏教の精神なのかもしれません。・・・・・本因妙ですな。(汗;、

本当ですね

> ※パーリー聖典の最古層にある経典類には摩訶不思議な表記がまま、見られます。犀の角の章句などがその代表的な経典ではないですかね。

何故か、話が、上座部仏教にまでいってしまいました。(笑)
パーリー聖典ですか.....。余談になりますが、スリランカに知り合いがおりまして、その時に対話したことを思いだし、パーリー経典→上座部→スリランカ→ストゥーパ→仏舎利→釈迦→と一瞬にして巡りましたよ。(笑)
知り合いが、日本の仏教がこのスリランカにもあるといい、富士門流もあるとのことでしたよ。
しかし、どうも、考え方が...............。彼らは突き詰めていくと
お国柄、やはりスリランカは小乗思考が根強いことがよく分かりました。分かってそうで、理解できない。残念。
話は変わりますが、私、一時、原始仏典的な思考にはまったことがあるのですよ。苦悩の原因究明解明に思考をめぐらしいったらそうなりました。(苦笑)
この苦悩に満ちた現実を真正面から見つめていった時に、気付いたらそうなってました。
そうなったら、法華系の信心はしていたものの『常楽我浄』という言葉がバカの言葉に見えてきて、しょうがなかったです。
この世は『空・苦・無我・無常』と執着し、苦悩し、あたかも森の中を彷徨う状態に。気付いたら、灰身滅智の思考の方向に。あれが続けばヤバかったです。結局、御書に助けられたというお粗末な結果となりましたが。(笑)
特に行法の部分では、十章抄の中の『但これらは時時の行なるべし、真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、心に存すべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり・日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなへさすべし、名は必ず体にいたる徳あり、』にしがみつきました。(題目のみでいいのだと言い聞かせ)
しかし、やはり、この世は五濁悪世だと知れたことは功徳です。
世の中、大抵は、男は、提婆達多だし、女だったら十羅刹女、鬼子母神だし。

大乗は、たしか、部派仏教の中の大衆部派から大乗という流れでしたっけ?
私、大乗に関してはは、まず、第一発目は大乗仏教の『縁起』という言葉に感動しました。大乗のいう『空』にも、といっても、理論上ですが。中村元著の『空の論理』という著作との出会いによるものだったのです。空の論理と表記ですので、もちろん竜樹の哲学によるものですが、竜樹が、その思考上、大聖人と重なったことを覚えています。『大智度論』も、誰か、一般人が読めるように著作してくださる方いないかな。
また、大乗興隆期は商人が儲かっていたみたいですね。瑠璃とかいろいろ石系が採れてたみたいで、ギリシャに売っていたようです。
そりゃそうですよね。商売人が儲かって布施しないことには大乗は衰退しますよね。国に護られてないですから。とはいっても、結局、衰退しましたが。

「お尋ねします」さんへ、 返信  引用 
名前:松木法太郎    日付:08月23日(木) 21時10分

云く、
----------------------------------------------------------------
確信的な結論でもなさそうです。ただ、仏教も歴史を無視しては成り立たないと思うところがあります。古くの日本の仏教のあり方から、一国を背負う寺院等の造立のありかたとして、文字曼荼羅とは現実的ではないように思ったり。(お叱りになられるかもしれませんが、要するに、あまりに貧弱すぎます。)
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※そう、まさにソレ!!、要山などで造仏に慣れた目には、文字(種子)曼陀羅はまさに貧弱≠ノ見えると思います。(笑)、

曼陀羅の意義はなんとなく理解は出来るが、大寺院などの大がかりな須弥壇に曼陀羅一体のみが安置されている場合は、かなり貧弱な須弥壇の相貌となるのではないかと思う。

大石寺の客殿などは大曼陀羅の左右に宗開両祖の御影仏が安置されているから違和感はない。

戒壇の大御本尊が安置されている奉安堂も板曼陀羅の左右に宗祖の舎利と最初御影が安置された二塔≠ェあるので形式的な荘厳はなされております。


また、「仏教も歴史を無視しては成り立たない」とはまさにその通りであります。だから大乗非仏説≠ェしばしば問題となりますが、大乗家では釈迦の精神を述べたもの、自らをとなぐさめている状況であります。


日蓮宗祖の場合はぜんぜん問題とはならないようです。なにせ日蓮宗祖は法華経を説いた人を「法華経の教主釈尊」としているからです。これは天台が先駆であり、文句に四種の釈尊を論じられ、小乗の釈尊、別教の釈尊、権大乗の釈尊、実教の釈尊と説かれていますね。

大石寺では小乗、別教、権大乗、法華迹門、法華本門、法華文底の釈尊と六種の釈尊を建てます。



Re: 「お尋ねします」さんへ、
名前:お尋ねします。    日付:08月23日(木) 22時44分
こんばんは。
私、思えば、結構失礼なこと言ってますね。はたと思いました。
なのに、心が動じず、芯がおあり、おだやかですね。
そうなっていかなければ信心の意味がないですね。
私は、あと何十年かかるやら(笑)

『要山で慣れた目』はい、そのとおりです。
悪気はないのですよ。すいません。
畿内で生まれ、畿内で育ちました。お寺はそこかしこにあります。
宗派関係なく往来もでき、結構、自由な空間だけに結局、今も、その癖が残っていて、お邪魔させて頂いております。
今日の法太郎さんのお書き込みに東大寺、大宰府の観世音寺、下野薬師寺が日本の三大戒壇の記事の中の東大寺だけは何回も行ってます。
となると、当然、当初、受戒を授ける僧がいなかったために、大変な思いをされて来日して下さった鑑真さん、また、その弟子の如宝さんの唐招提寺にも何回もいってます。

> 大石寺の客殿などは大曼陀羅の左右に宗開両祖の御影仏が安置されているから違和感はない。
>
> 戒壇の大御本尊が安置されている奉安堂も板曼陀羅の左右に宗祖の舎利と最初御影が安置された二塔≠ェあるので形式的な荘厳はなされております。

承知致しました。

> また、「仏教も歴史を無視しては成り立たない」とはまさにその通りであります。だから大乗非仏説≠ェしばしば問題となりますが、大乗家では釈迦の精神を述べたもの、自らをとなぐさめている状況であります。

釈迦の精神を述べたものとは根本的に違いますよね。
阿含経経典群の中に、その当時の語りべが語りべに、またその語りべが語りべに伝えた、実物大の釈尊のことを少々、書かれていますが、
大乗興隆と、それは、まったくそれとは別物ですよね。


> 日蓮宗祖の場合はぜんぜん問題とはならないようです。なにせ日蓮宗祖は法華経を説いた人を「法華経の教主釈尊」としているからです。これは天台が先駆であり、文句に四種の釈尊を論じられ、小乗の釈尊、別教の釈尊、権大乗の釈尊、実教の釈尊と説かれていますね。
>
> 大石寺では小乗、別教、権大乗、法華迹門、法華本門、法華文底の釈尊と六種の釈尊を建てます。
>

経に依って釈尊の性質?どういったらいいのか分かりませんが、変わるのは存じております。細かいことは分かりませんが。
大石寺でのそれは、五重の相対の上で大事なことですよね。

お尋ねしますさんw 返信  引用 
名前:憚りながら波木井坊竜尊@日蓮宗葵講    日付:08月23日(木) 07時56分
当時は僧侶に資格を与える戒壇は3つしかなかった。
実は法華宗で戒壇をつくりたかったのだ。

僧侶資格が国家免状で無くなった今、戒壇論は意味なしですよ。w



Re: お尋ねしますさんw
名前:松木法太郎    日付:08月23日(木) 20時42分

そう、東大寺、大宰府の観世音寺、下野薬師寺が日本の三大戒壇だ。

が、平安末期に叡山に大乗戒壇が築かれている。

最澄の勘違いで「大乗戒」が戒壇となって実現したとも云われている。

日蓮宗祖は叡山を迹門戒壇と位置づけて自らの三大秘法を本門戒壇と決判した。

七百年余を経たが、実現は遠いのう。

お尋ねしますさんへ、 返信  引用 
名前:松木法太郎    日付:08月22日(水) 23時23分

ご所論は拝読いたしました。

造仏について正義と論じたいが日蓮宗祖の御妙判を拝すると矛盾する
指南があり、どうすべきかについては悩んでいるようには見受けられません。(笑)、

貴殿はご自信で確信的な結論を持っているが、どう論理を構築すれば
よいのか決め手に欠けている、もしくは方針に迷いがある、という
ところでしょうか。

ここで、ハッキリ云っておきたい。貴殿はネットのハンドルを使用して
いるので、論理が破綻しても実世界とは無関係であるので貴殿が恥知らず
として嘲笑の的となることはない。

創賊のロム男≠ネどみてみなさい、平気で前言をひるがえして大石寺は
要法寺の本寺でありまっす!、と云ってくるのですから。(爆笑)、

それにらべて貴殿は、なにか、私に反論をしたいが私の狂乱暴言を嫌っている
ようにみうけられます。(笑)、

貴殿が常識を失しないかぎり、私がバカアホミサイルを発射することは
ありませんよ。(^^/

まず、要点を絞って一題づつ、語りませんか?。

では、
 



法太郎さんへ
名前:お尋ねします。    日付:08月23日(木) 12時23分
こんにちわ。昨日は失礼なことをしてしまいました。
早速ですが

>それにらべて貴殿は、なにか、私に反論をしたいが私の狂乱暴言を嫌っている
ようにみうけられます。(笑)、

失礼なことになったしまったようです。申し訳ありません。
これまでの書き込みは反論ではありません。ここはご理解頂きたいのですが、人それぞれに思考というのは違います。(でもそれは、反論とですかね?)
ここ数日、法太郎さんの書き込みを見ては、著作などから、勉強させて頂いております。かなり大変な労力です。一時は頭ゴジャゴジャになりました。苦笑。そのような訳で、二・三日、自分が教学の基礎部分が飛んでいると気づき、もう一回、見直しとの思いもありました。
この掲示板でのやりとりは、考えさせられるものが沢山あり、知らなかったもの、知りえたものがありました。法太郎さんの書き込みからも知りえたものも沢山あります。
実は、今、昨日、法太郎さんからご返信があったことに気づきました。
昨日は、ここ数日にずっと考えていたものが先行し勢いあまったところがあり、気づきませんでした。申し訳なかったです。
遅くなりましたが、ご丁寧なご返事ありがとうございます。
特に、六老僧が分裂した頃の書き込みは大変為になりました。

>貴殿はご自信で確信的な結論を持っているが、どう論理を構築すれば
よいのか決め手に欠けている、もしくは方針に迷いがある、という
ところでしょうか。

確信的な結論でもなさそうです。ただ、仏教も歴史を無視しては成り立たないと思うところがあります。古くの日本の仏教のあり方から、一国を背負う寺院等の造立のありかたとして、文字曼荼羅とは現実的ではないように思ったり。(お叱りになられるかもしれませんが、要するに、あまりに貧弱すぎます。)
しかし、やはりそうではないのかとも。分かりません。
法太郎さんは、一尊四士派。私は、今のところは(私はコロコロ変わります)一塔両尊四士派、大曼荼羅具像化したものです。
仏本尊派と法本尊派。これは、もはや日蓮宗内の議論の領域ですね。

まず、要点を絞って一題づつ、語りませんか?
今思えば、これは私が悪かったです。昨日の書き込みは随分脱線したものでした。
今は、もう本仏か余仏か。との問題に駒が進んでおります。
また、今回、改めて、考えましたが、研究発表への書き込みには割り込みは失礼ですね。
法太郎さんの他者へのスタンスが大人のやりとりですね。


訂正します
名前:お尋ねします。    日付:08月23日(木) 12時29分
訂正します。

>法太郎さんは、一尊四士派

すいません。これは私がイメージを作り上げていたようです。
そのような書き込みはなかったです。

本門立正宗なる痴犬集団について、 返信  引用 
名前:松木法太郎    日付:08月22日(水) 23時11分

本年に入り、大石寺の理境坊法華講である妙観講が『本門立正宗』なる痴犬
集団と、日蓮宗祖の立ち位置について法論が為されたようである。

本門立正宗なる邪妄についてネット検索すると各地の教育委員会に宗教関連の
邪見を披瀝している極少集団と推察されました。日本仏教界において最も先鋭
的な大石寺門流と法論をすれば名を上げられるとでも思ったのですかね。(笑)、

『本門立正宗』という宗派が存在すること自体わたくしは知りませんでしたが、
ネットで検索すると九州の福岡に本部道場があり、中川某なる痴犬がなにやら
吠えているようですが、要旨としては第一回めの大草先生の反論で決着はつい
ていると思いました。お見事です。さすがに妙観講の教学部は実戦経験が豊富
で即応有事≠フ変幻万化に秀でていると感服つかまつた。

二度、三度、余度の痴犬の反論は論点のスリカエに汲々として、しかも自分が
何を論じているのか判っていないという支離滅裂ぶりで、創賊によく見受けら
れる現証≠ニまったく同次元の低劣なガキの論法≠ノ後半は失笑の連続で
ありました。

これらの気違ひ≠ノ対し、懇切丁寧に、しかも飽くことなく諄々と教えを垂
れられる大草先生に対しては脱帽して敬礼の念以外に何もありません。


しかし、私にはやはり、ひっかかる論理があるので、この問題について所感を
述べてみたい。

 

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