いつも、申し訳ありません。今日も、私が書き込みばかり。 本当は、しばらく閲覧のつもりでした。 今日、応顕寺のについて調べていくうちに様々なことが分かりました。 今日は、夜の勤行でお題目を送らせて頂きました。 私は大石寺ではありません。 御本尊は違い、ご迷惑かとも思いましたが、せめてもの私の心です。
この掲示板で感じたことは。ここの住人の方で、娘さんのことを書かれた方を拝見しました。また、夏休みに川で釣りを楽しむ書き込みも。 信仰に関係なく、皆、家族を持ち日々平凡に生活をしておられ、その書き込みには、皆、本当に平凡な幸福のために懸命であることを知りました。ごくごく普通の人です。 すいません。もう私の素性を明かしますが、私は創価です。 確かに、ここの住人は大石寺の教義を超えています。(逸脱しています。) 法華講の方々におかれましては、謗法の人扱いは致し方がないかとも思います。
応顕寺のユーチューブを拝見しましたが、その文言は創価の方と同じ怒りを感じました。 因みに創価にも創価の教義を超えているネット依存症のような方がおられますが、これぐらいのことでは除名しません。 地元組織の皆様方を、はじめ見守る方向性です。 ただ、ご指摘のとおり、情報網だけはもの凄いものがありますが。 しかし、逆に、創価の教義を超えているネット創価人を揶揄し批判している創価人もおかしいよ。と思っている一人です。現場の人間は大抵そうだと認識しています。団結が崩れるからです。排除や斬ることは、そこから集団としては弱くなります。当然ですよね。分断は悪です。(これは創価思想です) 僧侶が上、信徒が下。絶対的に聞き入れなければならない。で、なければ、とのいかにも、を創価人は嫌います。現場ではおおくの僧侶に古くいじめられ見下されてきたからです。 創価人は本人が創価を辞めない限りどのような方であろうとも、同志です。 人を斬る、排除するとは、あまり、良いことではありません。 創価は斬らなさすぎて煩雑であり、もう、クソミソ状態でもありますが。バカもきちがいも、ふつうの人間も、立派な人間も、特別に出来る教学の達人も実はいます。そういう方はネットには出入りしません。 様々な見解を持つ方を意にそぐはないから即座に斬ってしまうような狭さはありません。仏教における研究者も一人といわず実はいます。寛容です。しかし、そのクソミソから生まれる縁起はまさに摩訶不思議な現証を題目を皆であげっきっていくなかで生じてくるから不思議です。 創価教学は忙しい在家のために解釈されたものであり、激励です。もはや仏法を超えているとも思うのですが、まずは、この現実社会をどう乗り越えるかが課題なのです。そのような背景があって創価教学は、異端 に思えるのは無理ないかと存じます。 創価の話ばかりになりました。 ともあれ、ここの住人のお方がどのようにされるのかは知り得ませんが、前に前に進んで行って下されば嬉しいです。
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