(本)ためらいのリアル医療倫理

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2012/08/26


技術評論社にて打ち合わせをしている際、「これ読もうと思ってAmazonで注文したんですよ、」と言ったらその場で献本してくださったという、とてもありがたい一冊。予想通り面白い内容でした。


命の価値は等価ではない

・僕は倫理の問題を、特に医療の倫理の問題を、イエス・ノーで答えないような形で取り組んでみたいなあと思っています。なぜなら「イエス・ノー」型、イエスかノーの二者択一的な毎台は、医療というフィールドには向いていないと思うからです。

・「成功率10%のCPR(注:心肺蘇生)は行われるべきか」は医療の世界にうまくフィットする語り口ではないと僕は思っています。(中略)「成功率10%のCPRを行わないとしたら、それはどういう条件下においてか」。このような問いであれば、イエスとかノーでは答えられません。どのような条件か、その「程度」を慮らなければならないからです。もし患者が95歳だったら?85歳だったら?65歳だったら?家族があと20分で病院にやってくるとしたら?

・重層的な問いの前では、両者は真逆の方向を向く必要がありません。場合によっては同じ方向を向く事だって可能です。そうすれば、イエス、ノーという単純な答え、思考停止に陥りにくくなります。

・人の命は大事である。これは事実ですが、その「大事の度合い」「大事の程度」は人それぞれ、シチュエーションそれぞれ、そしてコンテクストそれぞれなのです。このことを理解できず「大事の度合い」が全ての人において同じであると考えてしまうと、とんでもない失敗をします。

・経済学者の池田信夫氏は震災時にペットの犬なんて助けなくてもよいという意見を表明していました。犬をかわいがるのなら、ネコの命も牛の命も同じであり、犬をかわいがって牛を殺すのは自民族中心主義に過ぎないというのです。彼の意見は正しいけれども、間違っています。

・僕はだから、白状しなければなりません。少なくとも、僕は全ての患者を等しく平等に扱う事ができません。僕にとっては、情的に、時間的に、そして空間的に近接する患者の方が、遠くにいる患者よりもはるかに重要なのです。これが倫理的に是か非か。それは僕には良く分かりません。もしかしたら、悪いことなのかもしれません。しかし、このような距離に依存した勘定の減水がないと人間社会は非常につらいものになってしまうのではないでしょうか。その人の人生もとてもつらいものになってしまうでしょう。距離が離れていくと義侠心や罪悪感が「程よく」薄れてくれるからこそ、僕ら医療者は、そして僕ら人間は正気を保っていられるのです。

・受精卵から胎児、出産、新生児までの「価値」は変じていきます。その変じ方はひとそれぞれです。僕には、まだ人工妊娠中絶が正しいか否か、あるいはどの週数ならば正当化されるのか、その正確な答えを知りません。たぶん、そんな答えはどこにもないのでしょう。(中略)大事なのは、相手の言い分を聞くことで、こちらの正当性を主張することではないと、僕は思うのです。多くのプロ・ライフ、プロ・チョイスの人たちは、「自分たちは正しくて、相手が間違っている」という強固な信念の故に、「どちらも間違っている」のです。

・脳死は人の死か。それは、僕らの社会が「脳死は人の死だよ」と納得がいった段階で、そうなるのでしょう。もっと言うならば、そのような納得がいく人たちは脳死を受け入れ、臓器を提供すればよいのだと思います。そういう概念に納得いかない人は、これまで道理、心臓死でいけばよい。個々による死の定義の受け入れに違いがあってもよいと僕は思いますが、いかがでしょう。

・HIV感染があるのに、感染の事実を配偶者に伝えられない患者がいます。いや、ほとんどの患者は「妻にだけは」知られたくないと言います。しかし、彼らは「妻にだけは」知らせなければなりません。そのジレンマに僕らは非常に緊張感を伴う外来セッションを行います。(中略)このようなとき、患者に「奥さんに感染のリスクを告げないのは倫理的に間違っています」とか「性交渉は○%の感染のリスクがあります」みたいな事実を伝えることは、ほとんどの場合問題を解決しません。そんなことは、患者だって百も承知なのです。分かっているのだけれども、配偶者も愛してもいるのだけれども、その愛ゆえに、言わねばならねど言えない苦痛に苦しむのです。それを、そのような苦痛を完全にシェアできない僕らが、患者の気持ちがわからない僕らが、「あんたは間違っているよ」とフィールドの外から石を投げるような行為だけは、僕らはしてはいけないと思っているのです。

・命は等価ではない。少なくとも、人の意識の中ではそうではない。こう理解すると、クジラ問題から人工妊娠中絶、終末期医療に至までのいろいろな医療倫理に関する問題をうまく議論できるきっかけになるのではないかと考えたのです。クジラの命をペットや人命と等価に捉える人もいれば、食料として捉える人もいる。そういう認識から対話が始まるのだと思います。「俺の認識が絶対正しい」という立場からは何の対話も生まれません。罵り合いしかできません。


「そのような納得がいく人たちは脳死を受け入れ、臓器を提供すればよいのだと思います。そういう概念に納得いかない人は、これまで道理、心臓死でいけばよい。個々による死の定義の受け入れに違いがあってもよいと僕は思いますが、いかがでしょう。」という一文の気分には非常に共感します。

あくまで個人の自由の範疇で、誰に迷惑を掛けるわけでもないのに、「『あんたは間違っているよ』とフィールドの外から石を投げるような行為」をする人はネット上でも頻繁に見かけます。「つぶやき」の免罪符があるツイッターでは特に。

自分の正義を他人に押し付ける人は、すなわち弱者ということなのでしょう。価値観は併存可能で、多様であるはずなのに、数少ない拠り所であるそれを否定されたと思い込み、彼らは苛立つのだと思います。


法と倫理の境目にある問いを探求することは非常に面白いですし、今を生きる上でも必要な事だと思います。マイケル・サンデルの正義本が気に入った方には特におすすめの一冊です。