<< 2011年08月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031

さらば、虚妄の「従軍慰安婦」問題(1)

2011/08/28 20:42

 

 月刊正論平成238月号に寄稿した拙論「さらば、虚妄の「従軍慰安婦」問題」を2回に分けて掲載する。

 

さらば、虚妄の「従軍慰安婦」問題(1)

 

西岡力

 

仕掛け人女性の逮捕

 

「梁順任遺族会会長が詐欺で摘発されたぞ」

19918月キーセンとして人身売買されたおばあさんを女子挺身隊として連行されたと誤報して日韓関係をめちゃくちゃにした朝日新聞の植村隆記者の義理のお母さんですよね」

 4月末、ソウルで黒田勝弘産経新聞ソウル支局長と交わした会話だ。黒田支局長は59日付け産経新聞に以下の記事を書いた。

〈「対日補償要求」で3万人だます 韓国の団体幹部ら摘発

 ソウル市警察当局はこのほど、日本統治時代の戦時動員被害者に対し、日本政府などから補償金を受け取ってやるといって弁護士費用などの名目で会費15億ウォン(約1億2千万円)をだまし取っていた団体幹部ら39人を、詐欺の疑いで摘発したと発表した。被害者は3万人に上る。

 摘発されたのは「太平洋戦争犠牲者遺族会」「民間請求権訴訟団」など対日要求や反日集会・デモを展開してきた団体。古くからの活動家で日本でも知られる梁順任・遺族会会長(67)にも容疑が向けられており、対日補償要求運動にブレーキがかかりそうだ。

 発表によると、梁会長らは遺族会や訴訟団など各種団体を組織して会員を募集。そのさい「動員犠牲者でなくても当時を生きた者なら誰でも補償を受け取れる」などとウソを言った例もあり、会員を集めると手当を支払っていたという。

 警察発表では、梁会長らはソウルでの日韓親善サッカーの試合のスタンドに約500人の会員を動員し、日本政府に謝罪と補償を要求する横断幕を掲げる“偽装活動”をしてきたとしている。(傍点引用者、以下同)〉

 傍線部分「古くからの活動家で日本でも知られる梁順任・遺族会会長にも容疑が向けられており」は、事情を知る私のような専門家はすぐにぴんと来る記述だが、ほとんどの読者は背景や意味が分からなかっただろう。私は19922月に梁順任・遺族会会長に会っている。まずその時のいきさつから紹介しよう。

 19921月、当時の宮沢喜一首相が訪韓し盧泰愚大統領と会談した。なんとその会談で宮沢首相は従軍慰安婦問題8回謝罪した。翌年7月の河野談話にいたるまで慰安婦問題は日韓両国の最大の外交懸案となった。実は、慰安婦問題がその時急浮上したのには、仕掛け人たちがいた。梁順任氏とその娘婿である植村隆朝日新聞記者がまさにその仕掛け人の一部だった。

 話しは198911月に戻る。大分県在住の主婦で、在日朝鮮人運動家との特殊な関係を持ち強度の反日思想に凝り固まった青柳敦子氏が訪韓し、元軍人・軍属の死傷者と家族、元慰安婦らを募集した。日本政府から賠償金を取る裁判の原告になってほしいというのだ。それに応じたのが、太平洋戦争犠牲者遺族会の当時常任理事だった梁順任氏だった。

 翌19903月、ソウルで梁順任氏らが「対日公式陳謝賠償請求裁判説明会」を開き、青柳氏はそこで、裁判費用として400万円準備しているから書類に判をついてほしいなどと説明した。説明会終了後に、集まった約千人が日本大使館にデモをかけた。今も続いているいわゆる戦後補償を求める大使館前デモは日本人の呼びかけで、こうして始まった。

 その後、梁順任氏らは青柳氏から離れ、高木健一弁護士を頼るようになる。19918月、高木弁護士らは「戦後補償国際フォーラム」を東京で開催したが、そこに梁順任氏ら53人の遺族会メンバーが参加し、日本国内を日本人支援者とデモ行進するなどの活動を行なった。日本のマスコミが戦後補償問題を大きく扱うようになったのは、この頃からだ。

EndFragment StartFragment

 

何度読んでも悪質な朝日報道

 

 同じ91810日、朝日新聞が「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」という見出しの「特ダネ記事」を掲載した。梁順任氏らの動きにはそのときまで元慰安婦は参加していなかったのだが、はじめて、元慰安婦が出てきたという記事だった。

 同年12月、元慰安婦金学順氏ら3人や梁順任氏らを原告とする戦後補償裁判が始まった。訪日した原告が日本各地で講演やデモなどを行ない、朝日新聞をはじめとするマスコミが大きく取り上げた。そのような中で921月宮沢総理が訪韓し、先述したように八回も謝罪した。

 この騒ぎを見ながら何かおかしいと感じていた私は、ある月刊誌に載った元慰安婦のインタビューを入手し大変驚いた。実名で名乗り出た金学順氏は貧困のため40円でキーセンとして売られたと告白していた。仮名で原告となったあと二人の元慰安婦も、公権力による連行により慰安婦にさせられたとは主張しておらず、貧困のため人身売買にあったとしか思えなかった。

 ところが、日本の全マスコミは公権力による強制連行の犠牲者であることを前提に、「挺身隊として連行された元慰安婦」と書いていた。例えば、朝日新聞は従軍慰安婦の説明として〈一九三〇年代、中国で日本軍兵士による強姦事件が多発したため、反日感情を抑えるのと性病を防ぐために慰安所を設けた。元軍人や軍医などの証言によると、開設当初から約八割が朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した〉(92111日)と、毎日新聞も〈第二次世界大戦当時、朝鮮半島を中心として、約十万〜二十万人の十代から四十歳未満までの女性が『挺身隊』の名で集められた〉(同年35日)と書いている。

 挺身隊とは国家動員法に基づき工場労働者などに女性を動員するために作られた公的制度である。慰安婦動員が挺身隊制度によりなされたのであれば公権力の介入は明白だが、元慰安婦はそのようなことを主張していなかった。

 ただし、あとで虚偽を言っていたことが証明された吉田清治という日本人がひとりだけ、1943年軍に挺身隊員を集めろと命令され、済州島で憲兵隊とともに慰安婦狩りを行ったと「告白する」手記を書いていた(『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』三一書房)。そこで私は事実をきちんと明らかにする必要があるという趣旨の論考を本誌19923月号に寄稿して注意を喚起した。

 その直後、月刊「文藝春秋」編集部から慰安婦問題について事実関係を本格的に取材してレポートを書いてほしいとの依頼を受けた。加害者である日本人が慰安婦の強制連行に疑義を挟むなどしてはならないという空気が当時の日本言論界を支配していた。同誌編集長S氏は私に「西岡さんと私が世間から極悪な人非人と呼ばれる覚悟をして真実を追究しましょう」と語った。それくらい悲壮な決意が必要な雰囲気だった。

 調べるうちに次から次へと事実のわい曲、誤報が見つかった。その中で、梁順任氏の娘がこの問題を積極的に書いている朝日新聞の植村隆記者と結婚しているという情報を知り、先に紹介した91810日の元慰安婦が名乗り出たという「特ダネ」記事をなぜ植村氏が書けたのかが分かった。

 そして強い怒りを覚えたのは、植村記者の記事の4日後、名乗り出た元慰安婦金学順さんがソウルで開いた記者会見の韓国紙記事を入手したときだった。植村記者は義理の母親らが行う裁判を有利に進めるため、朝日新聞の紙面を使って、意図的に事実をわい曲する大誤報を行ったことが明らかになったからだ。

 これまで何回も書いて来たが、やはりここでも植村記者の記事と韓国紙の記事を引用しておく。

〈日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取りを始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた。(略)

 女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にさせられた。二、三百人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。〉

 植村記者はこの記事の中で、〈「女子挺身隊」の名で戦場に連行され(た)…「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人〉〈十七歳の時、だまされて慰安婦にさせられた。二、三百人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。〉と書いている。一方で、キーセンに売られたという重大な事実は書かれていない。

 しかし、814日の記者会見では金学順という実名を明かしながら自身の履歴について隠さず説明していた。左派系のハンギョレ新聞はその内容を以下のように報じた。

〈生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌にあるキーセンの検番に売られていった3年間の検番生活を終えた金さんが最初の就職だと思って、検番の養父に連れられて行った所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった。〉(ハンギョレ新聞91815日)

保守系の朝鮮日報も

〈「1940年春、中日戦争が最も激しかった中国中部地方の鉄壁陣という所にわけも分からなくて売られて行きました。中国人が戦争のために捨てて行った民家を慰安所として整備していたのです。」金氏が到着した場所ではミヤコ、サダコと呼ばれる1721才の韓国女性3人が日本軍を相手にすでに売春行為をしていた。〉(朝鮮日報91816日)と伝えた。

 ハンギョレ新聞は明確に「14歳の時に平壌にあるキーセンの検番に売られていった」と書いている。朝鮮日報は「売られて行きました」という表現でその点を示唆している。

 植村記者は裁判提訴後の同年1225日に金学順さんについて長文の記事を書いた。そこでもキーセンとして売られ、買った韓国人養父に慰安所まで連れて行かれたという事実を書かなかった。

カテゴリ: 世界から    フォルダ: 日韓関係

トラックバック(0)

 
このブログエントリのトラックバック用URL:

http://tnishioka.iza.ne.jp/blog/trackback/2421002

トラックバック(0)