若くして天理外語で広東語を学び、その語学力を買われて日本軍政下の香港で占領軍報道部芸能班長を努めていた和久田幸助さんは、1980年代半ばの香港で、タクシーに乗ると運転手に次のように話かけられてきた。
タクシーの運転手がくるっと私の方を振り向くと、物でも投げつけるように
『私の一家が、どんなに日本人から苦しめられたか、話してあげようか』
そう言って堰を切ったように喋り続けた。
『日本軍が香港を占領したとき、私は17歳だったけど、もう親父の仕事を一人前に手伝ってたんだ。日本軍は占領するとまもなく、香港ドルを二対一のレートで軍票に替えろと公示したけれど、
私たちは、迷っていて、なかなか替える気にならなかったんだ。そのうちに、レートが四対一ということになったので、これ以上迷っているとどんなレートになるかわからないし、
仕方なく全財産を軍票に替えたんだ。
それから日本軍が香港を占領していた四年ちかく、親父も私も一生懸命働いて、軍票を3万円貯めたんだ。ところが日本が戦争に負けると、今度は軍票を香港ドルに替えなければならないことになった。
そのレートが、なんと、軍票1万円に対してたったの7ドルだったんだ。親父は猛烈に怒ったね。そんあ道理があるもんか。4年近くも汗水たらして貯めた全財産の3万円が、21ドルにしかならないんなら、そんなもの、替えない方がいい。
この軍票3万円は、私たちが日本人のためにどんなバカげた目に遭わされたかって証拠にとっておこう。とっておいて孫子の代まで、この恨みを伝えてやろう。そういってとうとう香港ドルに替えなかったんだ。
今でも3万円の軍票は私の家にしまってあるんだが、親父の言葉どおり、私は軍票を子供たちに見せて、その謂われをよく話してやったし、孫ができれば、やはりそうするつもりだね』
運転手は一気にそう話し、
『家を焼かれたり、家族を殺されたりした内地の人にくらべりゃぁ、たかが金の損害だけど、親父や私の怒る気持ちも無理じゃないだろう?』
と私を射すくめるような目をして訊ねた。返答に窮した私は、ただうなずいてみせたが、彼はなお、こういうのだった。
『今、私の車に、時々日本人が乗るけど、もしエラそうな顔をしたら、その時はしぼれるだけ、しぼりとってやるんだ。せめてそんなことしてでも、
いくらか昔の腹いせをしてやりたいと思ってね』
(「日本占領下・香港で何をしたか――証言・昭和の断面」岩波ブックレット・・・・「香港軍票と戦後補償」より孫引き)
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