「軍票」という偽札

「軍票とは、戦地に於いて日本軍が現地の資源・食品等の徴発を円滑に進めるために発行した 「疑似紙幣」で、一見紙幣の形をしているものの、その本質は徴発票ないしは領収書といったほうがより本質に近い」
(香港軍票と戦後補償)

経済力も貧弱で天然資源も乏しい日本が海外で侵略戦争をするのは元より無理な話。 海外に派兵した軍を維持するだけの充分な物資の供給が可能な国力などない。 そこで、日本軍は本国からの物資の供給をあてにするよりも占領地での徴発(ぶっちゃけて言えば強盗)を重要視したのである。 強奪を正当化するための、「金銭で買い取った」「両替してもらった」という口実を作る手段が軍票だったのである。 上海に上陸してからほとんど無補給で南京を陥落できたのも、物資の現地調達(ようするに強盗)の賜物である (その基本方針が南京周辺での虐殺・略奪をより凄惨なものとした)。
日本軍が大量に軍票を発行したことは、日本軍の本質を如実に表している。


「輜重輪卒(輸送兵)が兵隊ならば、ちょうちょ、トンボも鳥のうち・・・・」

こうした歌があるほど、日本軍の中では輸送部門が軽視されていた。 必要物資を本国から補充せず、現地調達を基本方針としていたのである。
その現地調達を行うために軍票が大量印刷され、 理不尽なレートによる強制的な両替が行われた。




*軍票は正確には軍用手票といい、元々は現地徴発の領収書として発生したものである。
ハーグ条約(1907年)第52条には、占領地に於ける徴発についての、下のような規定がある。

・必要なく行ってはならない
・現品を供給させる場合には、住民に対して即金を支払わなければならない
・それが出来ない場合には領収書を発行して速やかに支払いを履行すること


ここでの「領収書」が軍票にあたるのである。これに従えば、日本は軍票の換金義務があることになる。
つーか、軍票の裏面には「この票は額面の日本通貨と兌換する」と書かれているのであるが・・・・
蛇足だが、同条約には

・戦争時であり、占領地であったとしても、現地の法律を尊重する(第43条)
・住民の私権を尊重し、没収を禁止する(第46条)
・住民から財産の略奪を厳禁する(第28条)


などの規定がある。日本軍はここに挙げた6項目全てに違反していたわけだ。大したもんだ!
また、軍票を流通させた手段についても犯罪性を感じずにはいられない。
香港にて、1941年の12月末の軍票運用開始時には、軍票の交換レートは軍票1円=2香港ドルだったが、 翌年7月からは軍票1円=4香港ドルに変更された。 さらに1943年7月からは、香港ドルの流通を一切禁止し、 軍票への全面交換を義務づけた。 また「軍票の流通を拒んだり、香港ドルを隠し持っている者は厳罰に処す」と発令している。 日本軍政下の香港での軍票流通政策については、以下のような証言がある。

香港では、香港ドルを無理矢理軍票に両替させられた。香港ドルを隠しもっているのが見つかると連行されたりその場で殴り殺されたりした。 最初2ドルで1円というレート公示だったが、もたもたしてたら4ドルで1円になった。4ドルで1円なんて実際滅茶苦茶なレートだった。 1ドルで米20kg買えたが、1945年では300円で1kg買えるかどうかだった。
(「香港軍票と戦後補償」高木健一・小林秀夫他 明石書店)

若くして天理外語で広東語を学び、その語学力を買われて日本軍政下の香港で占領軍報道部芸能班長を努めていた和久田幸助さんは、1980年代半ばの香港で、タクシーに乗ると運転手に次のように話かけられてきた。 タクシーの運転手がくるっと私の方を振り向くと、物でも投げつけるように
『私の一家が、どんなに日本人から苦しめられたか、話してあげようか』
そう言って堰を切ったように喋り続けた。

『日本軍が香港を占領したとき、私は17歳だったけど、もう親父の仕事を一人前に手伝ってたんだ。日本軍は占領するとまもなく、香港ドルを二対一のレートで軍票に替えろと公示したけれど、 私たちは、迷っていて、なかなか替える気にならなかったんだ。そのうちに、レートが四対一ということになったので、これ以上迷っているとどんなレートになるかわからないし、 仕方なく全財産を軍票に替えたんだ。
それから日本軍が香港を占領していた四年ちかく、親父も私も一生懸命働いて、軍票を3万円貯めたんだ。ところが日本が戦争に負けると、今度は軍票を香港ドルに替えなければならないことになった。 そのレートが、なんと、軍票1万円に対してたったの7ドルだったんだ。親父は猛烈に怒ったね。そんあ道理があるもんか。4年近くも汗水たらして貯めた全財産の3万円が、21ドルにしかならないんなら、そんなもの、替えない方がいい。 この軍票3万円は、私たちが日本人のためにどんなバカげた目に遭わされたかって証拠にとっておこう。とっておいて孫子の代まで、この恨みを伝えてやろう。そういってとうとう香港ドルに替えなかったんだ。 今でも3万円の軍票は私の家にしまってあるんだが、親父の言葉どおり、私は軍票を子供たちに見せて、その謂われをよく話してやったし、孫ができれば、やはりそうするつもりだね』 運転手は一気にそう話し、
『家を焼かれたり、家族を殺されたりした内地の人にくらべりゃぁ、たかが金の損害だけど、親父や私の怒る気持ちも無理じゃないだろう?』 と私を射すくめるような目をして訊ねた。返答に窮した私は、ただうなずいてみせたが、彼はなお、こういうのだった。 『今、私の車に、時々日本人が乗るけど、もしエラそうな顔をしたら、その時はしぼれるだけ、しぼりとってやるんだ。せめてそんなことしてでも、 いくらか昔の腹いせをしてやりたいと思ってね』

(「日本占領下・香港で何をしたか――証言・昭和の断面」岩波ブックレット・・・・「香港軍票と戦後補償」より孫引き)

砂糖や油などの雑貨商をしていた男性が、靴の中に4ドル隠していたのを、憲兵に身体検査されて見つかり、 銃の台座でひどく殴られ、数日後に死んだ
(軍票清算裁判を起こした香港在住の李さん夫妻の証言・・・「香港軍票と戦後補償」)


日本軍は、こうして略奪した香港ドルで、中立国であったポルトガル領マカオで軍需物資を大量に買い付けていたという。物資を調達するには紙にお金の図柄を印刷すればいいという幼稚な発想で大量の軍票が発行されたので、占領地に猛烈な インフレが巻き起こった。
たとえば中国にて↓このような奇現象も発生した。
独立山砲兵第二連隊の平原一男第一大隊長(戦後に自衛隊陸将補)が湖北省洪橋付近にて軍慰安所を開設した際の模様

慰安所の開設にあたって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、 兵たちが受け取る毎月の棒給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。 そこで大隊本部の経理室で慰安婦たちが稼いだ軍票に相当する生活物資を彼女たちに与えるという制度にした。 経理室が彼女たちに与える生活物資の主力は、現地で徴発した食糧・衣類であったと記憶している。 兵のなかには徴発に出かけた際、個人的に中国の金品や紙幣を略奪し、 自分が遊んだ慰安婦に与える可能性もあると思われたので、 経理室の供給する物資は思い切って潤沢にするよう指示した
(「従軍慰安婦」吉見義明著、岩波新書) 

アホらしゅうて開いた口がふさがん。疑似紙幣(といって差し支えなかろう)をばらまいたせいでひどいインフレが起きたので、 今度は物品を略奪して自分たちの性欲処理のための資金にするとは!
従軍慰安婦は大金を稼いでいたという主張がやかましいが、 日本軍は慰安婦たちに紙にお金の図柄を印刷したものを配っていただけに過ぎないのが実情のようだ。 たしかに、大量にお金を印刷すればヴァーチャルお金持ちが誕生するわな(藁

また、無計画な軍票発行は当然猛烈なインフレを起こした。
これはフィリピンに従軍した陸軍報道班員の述懐

「軍票に対する不満は日増しに増大しているのに、軍はマニラ新聞の印刷所をはじめ、 軍管理のあらゆる印刷所を動員して軍票を製造していた。 昭和17年の秋から34ヶ月間に50億余の紙幣を印刷したので、通貨ははち切れんばかりの膨張を示した。 そのために物価はこの3年間に約100倍に騰貴した。そして物資の欠乏は驚くばかりである。 店屋の飾窓に品物はなく、必需品の欠乏は恐ろしい生活不安を呼んでいる。 ただ繁華街エスコルタの贅沢な洋品店だけは、米国製品の売れ残り品を飾っているが、 とうてい手のだせる値段ではない・・・・」
(「従軍慰安婦」吉見義明著、岩波新書)

国土が狭く、天然資源に乏しく、経済力も貧弱な日本が海外に覇を求める戦争をおこなおうとすれば、 このように必要物資を現地調達に頼らざるを得ないことは自明の理であった。 たとえば南京作戦の際にも、南京に至る行軍に於いて徴発と称して村々の物品を強奪し、 婦女に暴行した。日本軍は侵略戦争という罪の上に非戦闘員に対する略奪、虐殺、強姦という罪を重ねたのである。
元慰安婦の中には贅沢と言えるほどの暮らしぶりだったと自ら証言している者もいるようだが、 給金あるいは将兵からのチップは軍票で渡されたのである。 その裏には上記のような日本軍の本質が隠されていたのである。

以上のように、軍票発行はアジアの人々に大いなる苦しみを与え、財産を奪ったのであるが、 戦後それが補償されることがなかった。
戦争末期の香港は手のつけようのない激しいインフレに襲われ、経済は麻痺状態だった。 路上に餓死者の死体が転がり、米を買うのにも、 軍票をもっていても日本軍に雇用されているなどのコネがなければ困難だったという。 (その当時、内地からの軍票の供給が間に合わないため九龍の地下印刷工場では100円の高額紙幣を中心に軍票をフル生産していたという)
たとえば、1945年3月の香港総督部令により屠場規則が改定され、牛・馬の屠殺料金が一頭につき5円から100円に、 羊・豚の屠殺料金が一頭につき3円から70円に上昇している。 こんな状況で、イギリス政府が香港市民の納得するようなレートで軍票と香港ドルを換金できるであろうか? (終戦時に香港に残った軍票は約19億円。そのうち約7億円をイギリスが回収したという) 仮にイギリスがまともなレートで回収したとしても、 軍票の発行元である敗戦直後の日本に最終処分(笑)を押しつけることなど無理な話。つーかそれは免除になった。 日本政府は、1945年9月1日付けの「大東亜各地域通貨処理の見通し」では、 軍票も賠償請求項目に入る可能性を危惧していた。
しかし1945年9月6日、連合軍最高司令部は、 「法貨に関する覚書」を発表して「日本政府陸海軍の発行せる一切の軍票及び占領地の通貨は無効無価値にてかかる通貨の授受は一切の取引に於いて 禁止する」と発表した。
連合軍側が、「日本には軍票を換金する義務は無いよん!」と宣言してくれたのである。 これは連合国側の、敗戦国の戦後処理を軽減する方針の一環であったのだろう。
この連合軍通告を受けて9月15日、 大蔵省は「日本政府及び海軍の発行せる一切の取引に於いてこれが授受を禁止する」と発表した。 いわば、官の負債に対して官自ら宣言した「徳政令」。よーするに借金踏み倒し。
また、サンフランシスコ条約後の各国との協定も、賠償に名を借りた経済協力(つーか内需拡大)。
こうして戦後の日本は復興していったのである。


 参考資料:
「香港軍票と戦後補償」高木健一・小林秀夫他 明石書店
「日本軍政下のアジア」小林秀夫著、岩波新書
「従軍慰安婦」吉見義明著、岩波新書 
赤文字部分、及び枠内は上記資料より全面引用)

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