ソ連崩壊前後から軍や外交史料(以前はほとんどが機密解禁されなかった)を精査し、歴史的に見て択捉、国後、色丹、歯舞(群島)の四島を日本に返還すべきだとの論をまとめた学者がいたのである。ソ連科学アカデミー極東研究所が発行する学術誌『極東の諸問題』副編集長を務めたボリス・ニコライェヴィッチ・スラヴィンスキー(1935~2003)である。
スラヴィンスキーの著作はいくつか邦訳されているが、北方領土問題について、ソ連軍による占領経過の検討をしながら分かりやすく論じられているものに『千島占領 一九四五年夏』(加藤幸廣訳、共同通信社、1993年)がある。
スラヴィンスキーが議論の前提として第一に確認しているのは、「北方四島(択捉、国後、色丹、歯舞)は、一度もロシア領になったことはなく、日ロ両国間に争いはなかった」ということである。これは、我が国が主張している返還論の論拠でもあるが、ロシアでは過去からこの問題について、次のように全くかみ合わない議論が幅を利かせてきた。
「多くの歴史文書は、ロシアの移住民がサハリンと千島諸島の最初の発見者であって、18世紀~19世紀のあいだにそれを調査し、開拓した最初のものであったことを、反駁の余地なく証明している。しかし、日本は、極東におけるロシアの弱みにつけこんで、1855年の条約の締結に成功し、この条約にしたがって、サハリンは共同所有と宣言され、千島諸島は分割された」(『第二次世界大戦史 第10巻』ソ連共産党中央委員会附属マルクス・レーニン主義研究所編、川内唯彦訳、弘文堂、1964年)
「1855年の条約」とは、下田で締結された日露通好条約である。その第2条で両国の国境を得撫(ウルップ)島と択捉島の間に置くとした。以来、それより南西の「北方四島」は日本固有の領土として確認されてきたのだ。
しかし、旧ソ連の学者(それに今日のロシアにおける多くの論者たち)は、「ヨーロッパ方面で英、仏、伊、それにトルコからの圧力を受け、クリミヤ戦争(1853~56)に直面しているロシアの弱みにつけこんで、日本は南千島(北方四島)の領有権を一方的に主張した」という見解を披歴し、旧ソ連が北方領土を太平洋戦争終結前後に占領し、自国領に編入したことを正当化しているのだ。
スラヴィンスキーは、こうしたロシアでの大方の議論を「事実に反している」と批判する。1855年の条約締結交渉にあたったロシア全権、プチャーチンあての皇帝ニコライ1世による訓令が、日本との交渉以前に「国境を得撫島と択捉島の間に置く」ことに同意するとされていたからだ。これは、日露関係研究者であるロシア科学アカデミー東洋学研究所所長であるコンスタンチン・サルキソフ(1942~、現山梨学院大学大学院教授)らが発見した歴史的文書だ。
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