袋入りのインスタントラーメンが25円の時代に、価格は100円。営業担当だった秋山晃久(てるひさ)さんは「スーパーや問屋は取り扱ってくれません」と訴えた。安藤は反論した。「惰性に流されるな。新しい販売ルートを開拓しろ」。秋山さんは売り込みのため、300軒以上に足を運んだ。百貨店や娯楽施設、警察など官庁……。それでも在庫はたまっていった。
悩んだ末に秋山さんは安藤に提案した。「銀座の歩行者天国で販売してみては」。71年11月、街頭販売を試みた。お湯さえあれば3分でいつでもどこでも食べられる。街頭販売を重ねるごとに人気は高まり、4時間で2万食を完売するようになった。今では世界80カ国以上で食べられる商品になっている。
成功ばかりではなかった。75年10月発売の「カップライス」はカップヌードルの製法をごはんに応用し、発売直後は好調だったが1カ月で人気がなくなった。新鋭設備導入に投じたのは、当時の年間利益にあたる30億円。安藤は決断した。「撤退だ。捲土重来(けんどちょうらい)を期す」
経営を継いだ宏基さんは、日本人の主食、ごはんを使った商品開発を自らの使命とした。安藤が死去して3年半後の2010年8月、電子レンジで作るカップヌードル味の「カップヌードルごはん」を近畿地区で先行発売した。
予想を超す売れ行きで4日後、販売休止に。設備を増強し、昨年7月から全国販売している。ブランドマネジャーの武田宣利(のぶとし)さんは「『カップヌードル味のごはん』がコンセプトの全てでした」と話す。カップヌードルが好きな消費者なら食べてくれるはず。狙いは的中した。
安藤はこの成功をどう思っているのだろうか。「半分は俺の成功だな」。父ならそう言うはず。宏基さんは苦笑いして言った。
(山田邦博)
◆闇市で中華そばに行列…原点
安藤百福さんとラーメンのルーツを探ろうと、25年ほど前に中国各地を訪ねた時のことです。安藤さんは、列車の中でいつも、両手を左右に小さく何かを引き伸ばすしぐさを繰り返していたのです。
「何をしているのですか」と尋ねると、安藤さんは「めんを伸ばす動作だよ。どうしたらおいしいめんができるか考えているんだ」と答えました。チキンラーメン、カップヌードルと次々と発明することができた理由がわかったような気がしました。
ちょうど日本が高度成長時代の入り口にいた時、忙しく働く人たちにとって、短時間で食べられるチキンラーメンの登場は願ってもないことでした。たちまち人気者になります。発売された当時、ラーメンはまだ「中華そば」などと呼ばれることが多かったという記憶があります。チキンラーメンは「ラーメン」という言葉を世間に広めた商品でもあったと思います。
安藤さんがインスタントラーメンの開発を決心したのは、戦後の大阪・梅田の闇市で中華そばの屋台にできた大衆の長い行列を見たからだったそうです。安藤さんは絶えず「大衆」を意識していました。口癖は「安全で安くておいしい食品を作りたい」。まさに大衆に支持される食品です。
ラーメンが国民食と呼ばれるのも、大衆に愛される食品だからだと思います。
(更新日:2012年08月20日)
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