2011/10/23
「サンカ(山窩)とゴシェン その4」
ヤズルカヤ
ポアズカレ(Bogazkale)は、トルコの首都アンカラの東150kmにあり(アナトリアの大母神キュペレの崇拝の地)アナトリア高原のほぼ中央部である。ポアズカレが紀元前16 - 14世紀の古代ヒッタイト帝国の首都、ハットウシャと確認されたのは、1906年のことであり、以来90年余り発掘はゆっくり続けられている。大神殿跡、突撃門や上の街神殿群跡、獅子門などが発掘されている。
ヒッタイト(英:Hittites)は、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話しアナトリア半島に王国を築いた民族。
(フリー百科事典:ウィキペディア (Wikipedia)」より引用)
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創世記のヘテ人
「「神聖不可侵」の八咫鏡(やたの かがみ)」と御名(み名)
(やた‐の‐かがみ【八咫鏡】
「(巨大な鏡の意) 三種の神器の一。記紀神話で天照大神が天の岩戸に隠れた 時,石凝姥命イシコリドメノミコトが作ったという鏡。天照大神が瓊瓊杵尊ニニギノミコトに授けたといわれる。伊勢神宮の内宮に天照大神の御魂代として奉斎され,その模造の神鏡は宮中の賢所カシコドコロに奉安される。まふつのかがみ。やたかがみ。神代紀上「中つ枝には―を懸トリカけ」
「広辞苑」第五版。岩波書店,1998年。)
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(ヤズルカヤの話ではありませんが)龍はいずれも無意識・混沌を示す円環的時間 (進歩のない歴史) の隠喩であり,ギリシアではみずからの尾をかむ龍ウロボロスで表された。(荒俣 宏・平凡社世界大百科事典より)
ヤズルカヤ
ここにある遺跡は紀元前1500年前にさかのぼるものもあるが、有名なレリーフや神殿跡は紀元前13世紀以降のものと考えられている。ヤズルカヤの遺跡のメインはヒッタイトの神々などが描かれているレリーフ。
レリーフがある2つの谷のうち大きいほうへは神殿跡の左後方から入ることができる。左側には神々が、右側には女神の像が並んでいて、女神は円錐状の被り物をかぶっており、長いドレスをまとっている。神々の側では12の戦いの神や月の神クスフが特に目を引く。神々と女神は谷の奥で出会い、ここでは山々にまたがったヘブトが豹の上に立っている女神ヘブトと向かい合っている。ヘブトの後方には彼らの息子シャッルマも豹の上に立っており、そばにはほかの女神たちが描かれている。女神側のレリーフのなかにはトゥドハリヤ4世(紀元前1250年―1220年)が王旗と太陽を握っているレリーフが谷の入口近くに描かれている。トゥドハリヤ4世はこの神殿を建てた王と考えられている。この大きい谷は初春に行われていた新年のお祝いに使われていたと考えられている。
もうひとつの小さい谷の入口には2つのスフィンクスが描かれているが、風化していて見分けるのが困難。また12の人物像があるが、これは大きい谷に描かれている12の戦いの神々に似ているが、保存状態はこちらのほうがよい。向かい側には「剣の神」のレリーフがある。人間の胴体が刀として描かれている一方、柄の部分は頭となっている風変わりなレリーフである。これはヒッタイトの下界の王ネアルガルを表現している。その隣にはトゥドハリヤ4世を抱えているシャッルマのレリーフがある。この場所はヒッタイト王の葬儀の際使われていたと考えられている。
(http://www.torukomania.com/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3/%E3%83%9C%E3%82%A2%E3%82%BA%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B7%E3%83%A5 より引用)
蛮族戦闘団体と文明 その2参照
ヒッタイト文明:シュメール文明の子かも?(宗教は非シュメール的),シュメール社会の教会のすぐ外側のカッパドキアで紀元前1500年以前,世界国家:紀元前15世紀頃にはその地域一帯の支配的文明になっていた;紀元前1352年以後,紀元前1278年に平和にいたる間,エジプトと数回交戦;紀元前1200−1190年の民族移動の波に圧倒される。詩 ホメロス叙事詩 宗教 オリュンポス諸神崇拝 蛮族:東北:ガスガ族 西北:フリュギア族 西南:アカイア族
管理人のパラノイアによるとヒッタイトの正体はバーディシャーにあり.......
トルコはかつてオスマントルコと呼ばれた。
オスマンリ:かれらの最大の挑戦は,遊牧社会を異質的な環境へ移動させ,そこで動物でなしに,異種の人間社会を支配するという,新しい問題ととりくまなければならないことであった。その離れ業はオトマン奴隷家族であった。つまり,バーディシャー(解説:オスマン帝国はパーディシャーを元首号とし、しばしば皇帝とされますが、ガージャール朝ではバーディシャーは地方領主の号)の人間家畜を管理する人間番犬を選び訓練することであった。かれらは出来るだけ人間性を捨てて動物性を身につけたり,単線的な本能的行動にもっぱら心を向けるという,驚くべきことをやってのけた。
羊,山羊を飼育する畜産民は,子羊が生まれると,一年以内に雄は種付け用を少し残し,後は殺して食べる。ごくわずかの雄を去勢して群れの先導役にさせる。それを人間支配の技術に転用するのが去勢の意味。シオン長老の議定書(プロトコール)第18議定書より。これこそがバーディシャー由来の人間家畜の管理術。
『キリスト教は,シリア社会に属していた人々を先祖とする民俗からきたものである。シリア世界の一半を形づくっていたイランは,ミトラ教を提供した。イシス崇拝は,エジプト世界の征服された北半分から来たものである。アナトリアの大母神キュペレの崇拝は,多分,当時,宗教を除く他のすべての社会的活動の面において,死滅してからすでに久しい時を経ていた,ヒッタイト(Hittite)社会からもたらされたものとみなされる』
等身大のHittite Priest-King.紀元前1600年頃の北シリアの聖職者か王を指すのだろう。
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馬はエジプトから輸入し,イスラエル人はおそらく戦車の使い方をヒッタイト人より学んだと思われる。ダヴィデ統治の時代,最も信頼できる戦士はUriahとAhimelechであったが両名ともヒッタイト人であった。「その後アブサロム(ABSALOM)は戦車と馬,ならびに50人の護衛兵を自分のために調えた。」(サミュエル記U第15章1節)
聖書ものがたり・サミュエル記参照
ここにある遺跡は紀元前1500年前にさかのぼるものもあるが、有名なレリーフや神殿跡は紀元前13世紀以降のものと考えられている。ヤズルカヤの遺跡のメインはヒッタイトの神々などが描かれているレリーフ。
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シャッルマとトゥドハリヤ四世
レリーフがある2つの谷のうち大きいほうへは神殿跡の左後方から入ることができる。左側には神々が、右側には女神の像が並んでいて、女神は円錐状の被り物をかぶっており、長いドレスをまとっている。神々の側では12の戦いの神や月の神クスフが特に目を引く。神々と女神は谷の奥で出会い、ここでは山々にまたがったヘブトが豹の上に立っている女神ヘブトと向かい合っている。ヘブトの後方には彼らの息子シャッルマも豹の上に立っており、そばにはほかの女神たちが描かれている。女神側のレリーフのなかにはトゥドハリヤ4世(紀元前1250年―1220年)が王旗と太陽を握っているレリーフが谷の入口近くに描かれている。トゥドハリヤ4世はこの神殿を建てた王と考えられている。この大きい谷は初春に行われていた新年のお祝いに使われていたと考えられている。
もうひとつの小さい谷の入口には2つのスフィンクスが描かれているが、風化していて見分けるのが困難。また12の人物像があるが、これは大きい谷に描かれている12の戦いの神々に似ているが、保存状態はこちらのほうがよい。向かい側には「剣の神」のレリーフがある。人間の胴体が刀として描かれている一方、柄の部分は頭となっている風変わりなレリーフである。これはヒッタイトの下界の王ネアルガルを表現している。その隣にはトゥドハリヤ4世を抱えているシャッルマのレリーフがある。この場所はヒッタイト王の葬儀の際使われていたと考えられている。
ヤズルカヤ岩神殿のレリーフは、この場面を現していると水上氏は推測する。
この解釈が正しいのならば、私達の神話にヒッタイトの神話が入り込んでいる証拠となるだろう。
太陽神が女神であるとする神話は世界にも余り類がないように思うが、ヒッタイトも日本も太陽神は女神なのである。紀元前1300年頃のヒッタイト王の太陽神に対する祈祷文には太陽が海から昇るとある。
白人の学者がこの祈祷文と自分達の説の辻褄を合わせ尚且つ、ヒッタイトがアーリア人の帝国であると証明する為に、コーカサス山脈を越えてメソポタミアやトルコへ向かったとする苦しい説明を展開していることは見苦しくさえある。
太陽信仰は何もヒッタイトや日本の専売特許ではないが、白人が主張するようにアーリア人、しかもドイツ人がヒッタイトであるとすれば、彼らの何処に朝日を礼拝し、元旦に初日の出を拝む人がいるのか、太陽を女神とする慣わしは存在するのか?そんな事実は一切ない。
やはりヨーロッパ系の白人種は、ヒッタイト帝国の主役には成り得ないのだ。
烏帽子の存在や神話に加え、ここに面白いエピソードがある。
名古屋地方出身の学者が、アッカドの遺跡を調査する際に訪れた地でアジア人に風貌の似た人々に出会った。しかし言葉が通じず、つい漏らした名古屋弁のボヤキが驚くことに通じたというのだ。
そこからこの研究者はシュメール人の子孫は、日本人とアラブ人だという発想を得たのだという。この人物は奇遇にもサンカ(定住せず漂泊して暮らしている人々)の子孫で、そのサンカはスサノオを穴抜けの神として信仰しているという。
これは恐らく、洞穴などの穴式住居から抜け出した遠い祖先の記憶が反映されたものであろう。この学者はスサノオ信仰については知らないとされているが、それでも名古屋地方のサンカは『八』と呼ばれていたという(八鏡文字?)。恐らくはハッティ(管理人注:紀元前2500年-紀元前2000年頃にアナトリア半島に居住していた民族で、ヒッタイトの先住民。「原ハッティ」「ハッティ人」などと呼ばれる。)のことであろう。だいたい出てきましたね結論が........サンカ(山窩)=ヒッタイトの先住民=創世記ヘテ人が祖先。
ハッティの神話
八鏡文字(カタカムナ)とサンカ(山窩)文字と古代ヒッタイトでの文字が一致すれば謎はとけるであろう。
八咫鏡(やたのかがみ)の裏面にはヘブライ語(へブル語)が
ヒッタイトという名称がよく知られるが、これは、英語読みで原音はハッティ。現在の小アジア・シリア地方の古代帝国で、紀元前1500年前後の数世紀に繁栄していた。鉄を生産し、武器や戦車に用いた。エジプトの記録ではヘタ、創世記にはヘテ人と記された民族で、インド・ヨーロッパ語族に属する。(管理人注:ヨシュア記一章四節、士師記一章二十六節、列王紀上十章二十九節、列王紀下七章六節その他聖書の各所に記されてある)
創世記36章1〜43参照
紀元前1286〜85年にはパレスチナ地方のカデシュで、エジプトのラーメス2世の軍と交戦。互いの記録でそれぞれ自軍が勝ったとしている記録が残っている。また、アンカラから数十キロ離れたボアズケイの古代廃虚から多数の粘土版が発見され、ここがハッティ帝国の首都ハットウシャシュと判明した。
神話はシュメール、バビロニア等の影響を受けている。ギルガメシュ叙事詩のハッティ語訳も存在する。また、系統不明のフルリ起源のもの、ヘレネス神話と類似するものも見られる。
テスブやウルリクムミなどはフルリ民族の神がハッティの中にとりいれられたものだという。フルリ民族は紀元前2300年頃、カスピ海南方の山岳地域から南や西に移動し、ミタンニ、ハッティなどで重要な成員になっていたようだ。
カタカムナってな〜に?
カタカムナ辞典
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封印された神代文字参照
このサンカには女尊男卑の思想がある。
そして女尊男卑の思想は太陽神が女神である民族にとっては、自然なことなのであろう。
日本では妻のことを『山の神』などと表現することがあるが,(管理人注;山の女神=大地の化身であるアナトリアの地母神キュベレから来ているかも)これは怒らせたら怖い存在のことであり尊ばざるを得ない。こんな所にも女尊男卑の伝統が見え隠れする。
その昔、大原女と呼ばれた人々には、極端な女尊男卑の習慣がみられたと伝わる。
それは外観の良い男だけを床にはべらし、後の男は土間で寝かせ、働きの悪い男は売り飛ばした。そして声を掛ける時は猫でも呼ぶように舌で「チョ、チョ」と音を出して呼んだというのだ。だとすれば、この人々はペルシャ系であったのかも知れない。(女尊男卑=カカーデンカは聖書の男尊女卑とは正反対で愉快ではあ〜りませんか)
さてヒッタイト帝国から見て、太陽が昇る海はペルシャ湾しかない。彼らは良質な鉄鉱の鉱床を求めて各地に散ったのだろう。そしてトルコの首都アンカラから150キロ程度はなれた場所に良質な鉄鉱を発見したのだ。
そこに居たのは原ハッティ人であったが、彼らはヒッタイトと契約しその労働力を供給したのであろう。それは契約により成されたことであり、決して力による支配下での強制などではなかった。
それが神々の契約、つまりスサノオとアマテラスの誓約の神話に反映され、今に至っているのかも知れない。
その神話を携えた人々が既に日本に居り、そこへ同系列の秦氏が遅れて渡来して来たのであれば、今日の私達が外国人に対して抱く感情とは異なった想いで受け入れられたとしても不思議ではないのである。
そして、後の秦氏の隆盛を考えると、秦氏とはイスラエル化されたヒッタイトとでも呼ぶべき存在であったのかも知れない。
神話のスサノオは荒ぶる神として恐れられ嫌われ、姉のアマテラスさえも彼に対して武装して身構えるという事態を呼んでいる。
スサノオが忌み嫌われるのは農耕社会から見たスサノオの働きに対する評価であり、その本来の仕事はタタラ製鉄に於いて重要な風の神なのである。
これを農耕という一面的な見地から捉えたならば、農耕に天候は重要な要素であり天候の神を祭るのは当然であると、成るであろうが、これだとスサノオが別名牛頭天王といわれ牛を象徴とすることに対する説明が付かない。
もっとも私見では農耕に於ける労働力としての牛の存在を考えると、根拠の無いものだとも言えないかも知れない。
しかしスサノオは荒ぶる神であり、天候を穏やかにする神ではない。
現在でも製鉄関係の人々の信仰を集める神社では、祭礼の時に天候が荒れるほど良いとされているという。
ともあれスサノオは本来、農耕よりも製鉄に関係する神であり、タタラに風を送る『フイゴ』は牛の皮を用いて作られた。タタラ製鉄に欠かせない風は、農耕とは相反する要素でもある。しかも強く吹けばより喜ばれる風の神であり、フイゴに用いた牛皮からその象徴を牛とするのである。
私達が古代国家の形成を考える時、同一の民族あるいは幾つかの民族の集合の中で農耕民と支配層とに自然に別れて社会の階層が形成されると考え勝ちであるが、実はそうでもないようだ。
本当のところ支配層と農耕を行う人々とでは、民族が異なっていたらしいのだ。
ヒッタイトは鍛冶師を頂点に製鉄技術を使い、武器と農具を生産する支配階級と、農耕民とに分かれていたらしい。
これと同様に、その当時の多くの国々でも同じ様であったのだろう。
その頃のヒッタイトの支配層が信仰するのは勿論、スサノオである。スサノオのスサとは古代ペルシャに在った地名で、スサノオとは『スサの男』という意味の名前であるらしい。
我々の先祖の中でスサから来たペルシャ人が、スサノオ信仰をもたらしたのであろう。
しかし農耕が盛んになり、作物の豊凶に人々の関心がシフトするに従い荒ぶる風の神は次第に疎まれていく。
記紀神話でも誓約をしたのは良いが、スサノオは悪戯を繰り返す。
神聖な場所に粗相をしたり、建物の屋根を剥がしたり、田の畦(あぜ)を壊したりと高天原で縦横に暴れまわる。
最初は何かと擁護していたアマテラスも、スサノオの悪戯で死者まで出るに及んで、怒り心頭に達して岩屋にこもってしまう。
元来のスサノオは荒ぶる神であり、強風を吹かせることを期待されている神である。
従って大人しくして居たのでは仕事に成らないから、暴れるのは当たり前なのである。
とにかく、スサノオの悪さが元でアマテラスは岩屋に入り、世界は暗黒に閉ざされてしまった。後は一連の神話のごとく、手力男命(たじからおのみこと)に岩戸をこじ開けられ、アマテラスが引き出されて世界に光が戻ったというストーリーへと続くのである。
この神話のストーリーの背景には、製鉄を頂点とした価値観が徐々に農耕重視の価値観へとシフトしていく様子が伺えると感じるのは私だけであろうか。
もう随分と前になるが、某自称コンタクティーという人と会う機会があった。その時に私の住所を尋ねられたので答えたら、そこは聖徳太子の荘園の在った場所で、どうしてそれを地域振興に役立てないのか不思議だと言われた。
それはさておき、昔の人のバイタリティーには驚かされることばかりだ。
戦国時代の武将は何百キロも徒や馬で平気で移動して戦を行っていたし、私の住む市の山奥には平安時代ころに都から旅して来たとされる『猿丸太夫』なる人物の墓がある。
そこは越中の古史では、日本海から越中岩瀬(えっちゅう・いわせ)の港への目印として使用された夫婦山(めおとやま)の麓である。
とにかく歴史を振り返れば、現代人の私でも驚くほどの遥かな距離を古代人たちは自在に移動している。
古代日本には大海原や広大な大陸を踏破し、東洋の端の島国へと辿り付いた民族が幾つもひしめき、互いに覇を競っていたのである。
彼らは各々の伝統と文化、習慣、信仰を携え、異民族と出会う度にそれを取り込んだり排除したりしながら、日本という島の中で次第に融合していったのだろう。
その中にはヒッタイト帝国を築いた民族がおり、イスラエル王国やユダ王国の流れを汲む人々がおり、南洋系や北方系の人々が居たのであろう。
現在のアメリカのように人種の坩堝(るつぼ)の様な状況を呈していたのかも知れない。
その多くの人種の中でもヒッタイト系の人々が最初に支配権を握っていたのかも知れないが、その覇権は転々と各部族の間で移動したのだろう。
聖徳太子と呼ばれる人物も、恐らくはその中の一人であったろうと思われる。
つまり伝承を見る限りは、蘇我氏と結託して旧勢力であった物部氏を急襲して滅ぼしてしまう。そして、その時に物部氏に伝わっていたであろう多くの史書を焼き捨てたのだ。
そして恐らく彼はユダヤ系の人物であり、それ故に出生のエピソードをキリストと似たものにしたのかも知れない。水上氏の予測では聖徳太子とは仏教をイデオロギーとするユダ族の人物であり、蘇我氏(そがのうじ)とはペルシャ系のサカ族(釈迦の出身部族か?)であろうとしている。今日に伝えられ様な聖人では決してなかったであろうこの聖徳太子と呼ばれている人物は、政治権力の象徴として実在の誰かを様々なエピソードで飾りたてたものであろう。
研究者の木村鷹太郎氏はキリストの名、イムマニエルを『神とともにある』と聖書学者が解釈しているのは間違いであるという。その真実の意味は厩戸(うまやど)であるという。
つまり『厩戸皇子』の別名を持つ聖徳太子と同様の意味であるという。
貧しい女性が旅の途中の厩で出産するというのは、それ程に不自然ではないかも知れないが、仮にも皇子と呼ばれる子供を産んだ女性が厩などで出産するはずもなく、どう解釈しても作為的なエピソードとしか思えない。
では何故に馬小屋なのか、恐らくイスラエルでは馬は権力や富の象徴として捉えられていたのだろう。
イムマニエルも聖徳太子も、その出生のエピソードは作為的に創作されたと予想されるが、そのベースは同じ古代文明に求められるのかも知れない。
ペルシャ古代王朝の降盛
受験用の歴史はこれが限界
本ブログの読者はすでに上で述べられているモーゼの十戒がどこからのパクリであるかは周知のことでしょう。受験でこれが出た場合エジプトの「死者の書」からのパクリなどと書いたら合格は出来ないということ。
前述の木村氏はペルシャの王朝に『オムヤマド』があり、それもまた同様の伝説に関連していると言っている。浅草の厩橋を地元では『おんまやばし』と呼んでいることから、正しくは『うまやど』ではなく『おんまやど』と呼ばねば成らないのかも知れない。
その聖徳太子がまず行ったことはヒッタイト神話のヤズルカヤ遺跡の風神と太陽女神の誓約のシーンを日本の伝説に持ち込むことだった。
物部氏を滅ぼし、その史書を隠滅し新たな歴史を書き綴る元を作った。その行動は特に聖徳太子に限らず、ユダヤには昔から歴史を改ざんするプロ集団が存在し普通に行われていたことらしい。
古事記も例外なく新たに創り出された神話や歴史なのであり、それはヒッタイトの伝承やユダヤ、ペルシャなどの神話を元に捏造されたものであろう。
では、その伝承や神話は何処から、どのようにして西暦700年代の日本人が知り得たのであろう。少なくとも交易などで得られる文物ばかりではなく、人的交流も行われており、日本に定住した渡来人も多数いたのであろう。
古代の日本で神話や歴史の主体となったのは、その渡来人であったのだ。
興味深いことに神話の国譲りのシーンは、伝説でなく実際の出来事であると主張する人々が日本に実在するという。それは出雲王朝の子孫と名乗る一族で、改ざんを恐れて文字では記録せずに口伝でその史実を伝えているらしい。
富氏の人々は、遥かな国譲りの時代の出来事を昨日の事のように怒りに肩を震わせて語るというのである。出雲はエドム人の築いた国であったと言われるが、その子孫と名乗る一族は富氏を名乗っているから、部族の名はトミだったのかも知れない。
エドム人は聖書に書かれているごとく長子の権利と父の祝福を奪われたが、日本では王権を奪われたのである。しかし富氏をエドム人とするのは、不自然な気もする。
エドム人であれば他の名を名乗るだろう。他にもダン族は壇・団・段・團などと名乗っていることを見れば、やはり富氏の部族はトミであったと考えるのが自然だ。
エドム人としたのは、聖書に合わせたのであり、勝者の意図的な改ざんであろう。
聖書でエドムに敵対して憎しみを持っているのはユダ族であり、日本でもユダ族はそれを再現してみせたのであろう。
エドム人はここに住んでいた。
聖書ものがたり・民数記参照
民数記21:29,士師記3章・モアブ王の殺害参照
熊襲征服のときに、女装したヤマトタケルは、女だと思って油断した熊襲カワカミタケルをナイフで刺して殺害した。
このくだりと、旧約聖書の士師紀3章・民数紀21章29 ケモシュのモアブ王殺害は、とても似ているのだ。モアブ人は,ケモシという神を信じた民だった。
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写真はここから
牧師さんがよく聖壇で口にすることば・(ウリヤの妻の)パテシェバも悪かったんだとは?なんじゃらほい。
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写真はペトラ(Petra=ギリシャ語で岩)の山。この南約50マイル先に死海がある。聖書的なペトラの呼び名はSelaという。左側に見える赤いレンガのような(Sandstone)寺院はエサウ(注;エドム人の祖でヤコブの兄)の子孫であるエドミテ人によって建てられた(エドムはその継ぐべき地となり敵対するセイル(注:Arabian Mountain of Seir)は継ぐべき地となり.....民数記24〜18)。「彼はカイン人を見渡して,この託宣を述べた。お前の住む所は確かであり お前は巣(ケン)を岩の上に置く。しかし,アシュルがお前をとりこにするとき,カインは必ず,焼き滅ぼされる。(民数記第24章21〜22節)
ダヴィデはアラムを討って帰る途中,塩の谷でエドム人一万八千人を討ち殺し,名声を得た。(サムエル記第8章13節)
モーゼの十戒(YouTube映画)
モーゼでブログ内検索をすると52件出てきます。
古代のイデオロギー
歴史は偶然に繰り返したように見えるが、本当は意図的に繰り返されたのかも知れない。
古代の天皇家(ユダ族)が、日本にいたエドム族から奪ったものは王権の他にも有るという。それは勾玉(まがたま)であるというのだが、三種の神器の一つである勾玉とは本来は出雲の王族だけが身に付けることを許されたものであると前述の富氏は主張する。
アイデルバーグによれば、勾玉の形はヘブライ文字の信仰を意味するという。
八尺瓊勾玉
三種の神器とは何か?
『八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は八咫鏡・天叢雲剣と共に三種の神器(みくさのかむだから・さんしゅのじんぎ)の1つ。八坂瓊曲玉とも書く。
大きな勾玉とも、長い緒に繋いだ勾玉ともされ、また昭和天皇の大喪の礼時に八尺瓊勾玉が入った箱を持った従者は「子供の頭くらいの丸い物が入っている様に感じた」と証言している。
「さか」は尺の字が宛てられているが上代の長さの単位の咫(あた 円周で径約0.8尺)のことである。ただし、ここでいう「八尺」は文字通りの「8尺」(漢代1尺約23·9センチ計算で約1.8メートル)ではなく、通常よりも大きいまたは長いという意味である。また、「弥栄」(いやさか)が転じたものとする説もある。
「瓊」は赤色の玉のことであり、古くは瑪瑙(メノウ)のことである。璽と呼ぶこともあり、やはり三種の神器のひとつである剣とあわせて「剣璽」と称される。その存在について、「日(陽)」を表す八咫鏡に対して「月(陰)」を表しているのではないかという説がある。
現在は、御所の中の天皇の寝室の横に剣璽の間があり、そこに剣とともに安置されているとされる。
日本神話では、岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り、八咫鏡とともに太玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられた。後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊(ニ二ギのこと)に授けられたとする。』
さて、アイデルバーグによると日本武尊(ヤマトタケル)の物語は、エホデが衣に隠した剣でエモシの首領を殺した物語と同じであるという。それがヤマトタケルの場合は少女に変装して熊襲(クマソ)の首領を殺す。
またヤマトタケルの活躍した伊吹の山はヤボク山、死んだノボの荒野をネボの荒野とみなしている。この神話時代の英雄の物語ですらも、ユダヤと関連しているとの指摘は日ユの異常なまでの緊密性をうかがわせるに十分だ。
しかしアイデルバーグは、これ以外にも文字という視点からもより深い日ユの共通点をも指摘している。
それは日本人が発明したひらかなとカタカナという二種類の文字についての指摘で、ひらかなはヘブライ文字の草書とカタカナは楷書とよく似ているという。
カタカナはひらがなと異なり、日本の歴史上で余り使われていない印象だが古くからカタカナを主に使う人々が商業都市『堺』に存在していた事実を発見した人物がいる。
それはごく自然なことで、帳簿付けには楷書が必要となる。
これを発見したのは八切止夫氏で、氏によると堺はエビス島と呼ばれ住んでいたのは日本人ではなく、エブス人であったという。
大阪からはエジプト式の船が発掘されているし、大阪を代表する神の名前も彼らが何者であるかを示している。
大阪人の神『エベス様』は、彼らの民族の名前そのものだ。
しかし、本国エルサレムのエベス人が謎めいた存在であり、現在は明白でなくなっている理由はその存在をユダヤ人が徹底的に隠したかららしい。
古史古伝には漢字伝来以前にも日本に文字があったと伝えるものがある。神代文字がそれであるが、現在では一切を偽書として片付けられてしまっている。
しかし、古史古伝の主張が本当ならば、ヘブライ文字であるひらかなとカタカナが日本の歴史に及ぼした影響は非常に大きいと言わざるを得ない。
その神代文字のひとつにアビル文字があるが、アビルとは古代エジプト人がイブリと呼んでいた人々ではないのか、そのイブリこそがヘブライの語源なのであり、そうだとすればアビル文字こそヘブライ文字なのではないか。
阿比留(アビル)文字とは?
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これはサンカ文字
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これはアビル文字。一致する文字は果たしてあるだろうか?
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これは桃木文字。アビル文字と共通す文字は確かにある。願わくば出エジプト記のはるか以前のゴシェンの地でセム語を話していた民族がサンカのルーツであることを確認するためにはセム語の資料がほしいところだ。
アビル文字一覧
神代文字総覧
また、イスラエル人がヘブライ文字と呼ぶものはエブス文字である。
聖書に登場するのはヘブライ人なのであり、そのことでイスラエル人はヘブライ人に深い劣等感を抱いたのではないかと、水上氏は推察する。
エジプト脱出後にユダヤ人をヘブライ人と呼んだのは異邦人であり、ユダヤ人は自分たちをヘブライ人であるとは言っていない様だ。
この事実から恐らくはユダヤ人にはエジプトでの体験が無く、聖書の編纂者にとって極めて面白くない隠蔽すべき事実であったろう。
かつてイスラエル十二部族をイスラエル王国とユダ王国とに分裂させた要因と同様の原因が、十四世紀の日本に動乱をもたらした。場所と時を変え、再びこの対立が発生したのだ。
その動乱の記録『太平記』には、ユダヤ教の兜巾(ときん=山伏や天狗が頭に着けている)を身に付けた天狗が動乱の始まりを予見する。
それは王権の実質的な性質についてのイデオロギーの違いによる争いであった。
後醍醐天皇の肖像(管理人注:96代後醍醐天皇の肖像は…清浄光寺所蔵)には、ユダ族のシンボルであるライオンが描かれている(管理人注:アナトリアのキュベレ信仰か)。後醍醐は幕府から実質的な権力を奪おうと画策したが、結局は上手く行かなかった。
後醍醐を権力闘争に駆り立てたものは、遠祖から伝えられているダビデ王の如くに政治と軍隊の両面での実権支配であったろう。政治は幕府に、軍隊は幕府と地方豪族に握られている状況を後醍醐は苦々しく思っていたに違いない。
天皇制とは本来エジプトのファラオをモデルとしているのであり、古のダビデ王のように総ての実権が天皇に無くてはならなかったのだ。
しかし勝利を収めたのは本来のヘブライ型天皇制であった。
この様に考えてみれば、ヘブライ人に対するイスラエル人の強い嫉妬や攻撃性の根っこが何処にあるのか想像がつく。
すべての元凶は聖書なのであり、歪んだ信仰の結果なのである。それ故に長い時を経て、大いなる大陸と海原を隔てても尚、イスラエル人(特にユダ族)のヘブライ系民族への攻撃が続くのである。
そしてそれが日本の歴史を歪め、真実を闇へと屠り新たに出鱈目な歴史を綴ったユダ族の数々の所業となってあらわれたのだ。
十四世紀、後醍醐の試みもまたその一つであったし、古くは出雲の国譲り、記紀のみを正史とし、他を排除したことも同様の意味があるのだろう。
伊勢の国はイセツヒコとイセツヒメという兄妹の神が、平和に統治していたが突然に天日鷲命が現れて強制的に国譲りを迫る。兄妹はその夜に風を呼び、大波に乗って光に包まれながら東へ旅立ったという。彼らは信濃の国へ行ったと伝説は語る。
水上氏はイセツヒコとイセツヒメが象徴的に単純化されているとすれば、国譲りを迫った天日鷲命の名もまた、そうであろうと予測する。
氏はこの神の名から、有翼日輪という水平に翼を伸ばした日輪の紋章が連想されるとしている。
有翼日輪は古代エジプトの王権の象徴であり、ツタンカーメンの玉座の背板にも刻まれている。天文学者は日食の時の赤道型コロナが原型と予測しているが、同じ紋章はヒッタイトやペルシャの美術にも見られるのだという。
有翼日輪の謎
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ホルス神の有翼日輪の天井画(ホルスまたはホロスは父オシリス母イシスの子どもで弟はセト)
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イシスとホロス(ホルス) マリアとイエス
でもですね.......本当は元々教祖ゾロアスターはペルシア北東部の牧畜部族で また有翼日輪は最高神アフラ・マヅダーの象徴です。
ミトラ教とゾロアスター
『ミトラ教のルーツは、古代ペルシア人(アーリア民族)のミトラ信仰にある。ミトラ神は契約神・戦神・太陽神などの多彩な顔を持ち、古くからイラン・インド両民衆の間に絶大な人気を誇ってきたのであった。
紀元前7世紀頃に実施されたゾロアスターの宗教改革によって、一時期、ミトラ信仰の熱は下火になったが、ゾロアスターが世を去ると、彼の後継者たちは民衆のミトラ人気に抗えず、すぐさまミトラ神をゾロアスター教に取り込んだ。』
4世紀のローマ帝国の皇帝で、キリスト教への優遇を止めミトラ教を優遇したユリアヌスは「背教者ユリアヌス」とも呼ばれる。
この連想は強引に過ぎると想えるが、これは長い伊勢神宮の歴史では普通に度々に起こっていたことである。その時代ごとの支配者たちは常に最新の秘儀を持ち込んだが、その一方で古い秘儀を破壊することも出来なかった。
その結果として一見して伊勢神宮には不似合いな習慣や、文物が現代に伝えられることになったのであろう。
吉野裕子氏の研究では一時期、中国占星術の影響で北極星が『太一』(たいいつ)として祭られていた時期もあったという。
二十年に一度の皇大神宮の御遷宮では、様々な御装束が用意される。
中でも千年くらい前の記録に残る装束は男性用であったとされ、ここから天照大神は男性ではないのかとの議論が持ち上がった。
今となっては不明であるが、それはもしかしたら太一の衣装であったかも知れないとの予測もできる。
遠い神代のベールの向こうで、入れ替わり立ち代わり時代の覇者がやって来て思い思いのイデオロギーで伊勢神宮を席巻した。しかし、その覇者たる者たちも遥かな古より連綿と続く神宮の威厳には叶わず、その歴史の重みを完全に払拭するには到らなかったのであろう。
天皇家が避ける伊勢神宮
それでは下鴨神社はどうか?
それが結果として天照と北極星を習合するような、強引な形式となったのだろう。
それにしてもシュメール、ヒッタイト、ペルシャ、エジプトと古代に潸然と輝きを放った総ての文明の痕跡を現代に残す日本とは、日本人とは何者であろうか。
それは単に日ユ同祖論を凌駕して、人類史の大海原へと私達の眼を向けさせずにはおかない大きなロマンとして、また深い謎となって私の眼前に屹立する結果となった。
過日友人のFが大本教の唱えた日本は世界の雛形だとする論について、具体的に日本の何処が世界のどの場所に対応するかの資料を持参してくれた。
一読しただけではピンと来ないが、こと細かく世界との対応が記されている。
それは日本が地形だけでなく、気候までも世界のミニチュア版として捉え得ることを示している。
最終的な結論は決して見えないが、ユダヤはイスラエル人を含む多民族が渾然一体となって形成されていた。そこには、それ以前のシュメールやヒッタイトといった古代帝国が多民族で形成されたのと同様に、様々な民族がひしめいていたに違いない。
日本が世界の雛形であれば、気候、地形ばかりでなく人種的にも様々な民族の集合体であったとしても不思議ではない。
現在の日本人の無限ともいえる顔の特徴は、そんな人種の坩堝(るつぼ)から産み出されたものであろう。人がそうであれば、人間生活に必要だった宗教もまた世界の各地から持ち寄られたことだろう。
古代世界でも現代と同様に他の事柄と異なり、各々の民族が己の信仰だけは護ろうとしたのかも知れない。それは各々の民族にとって、祖先と繫がる最も重要な儀式として、精神的な糧となり民族のイデオロギーを保つ重要なアイテムであったろう。
太古、日本へ渡って来たユダヤ人もまた、そうしようとしたに違いない。
しかし日本には既に大きな文明の基盤を持った人々が先住しており、ユダヤ人は苦労の末にその中でも一大勢力として中央に座ることに成功したのだろう。
だが前述のように彼らユダヤの狡猾な戦略と戦術を用いても、多くの先住民が根付かせた伝統と歴史の重みを完全には払拭できなかったのだ。
それが現代に伝わる祭や習慣の中に多くのユダヤ的なものを見出しながら、同時にユダヤ的とは言い難い事柄が存在する理由であろう。
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現在のイスラエル(ユダ族)とヘブライ人には平和がない。
過去ログ:ユダヤの聖地はアラビア半島?
ユダヤ人にとっての約束の地とは、本当は中東ではなかったのかも知れない。
彼らは東洋の島国に真実の約束の地を見出し、そこで努力し成功を勝ち取り真実のエルサレムを築きあげてきたのだ。
私達の歴史とは古代の渡来人による主導権争いであり、最終的に最もユダヤ系渡来人がより多くの勝利を重ねた結果が、今日の状況なのである。
日ユの不思議な共通点は、記紀神話以前の古き時代から徐々に変質しながらも、醸し出されたものであり決して日ユの専売特許ではない。
それを生活や慣習の中に近代までより強く残したのがユダヤと日本であり、その基盤はより古い文明のカケラであったのだろう。
またそれが、世界の雛形とも呼ばれる日本列島で自然な形で保管されているのは、決して偶然では在り得ない。
聖書的な事柄がイスラエル世界では、強引な手法で残されている様に感じさせるのとは対照的である。やはりそこには、私達には想像の付かない何かのパワーが作用しているのかも知れない。
曲がりなりにも世界的な先進国として発展し、経済力でも軍事力でも一流の国を築いている日本人、しかし自分達の真実の歴史を知らず、自分達が何者であるかさえ知らない。
それが今日の日本人の頼りなさ、優柔不断さに繫がっているのかも知れないと感じる。
だがそれも裏を返せば、無類の柔軟性ともいえる。良い意味で、日本人は世界の民族の中で最も中道を歩む資質を持っているのである。
混迷の極みともいえる現代で、日本人の果たすべき役割は重い。
この時代に備えて、何者かが東洋の端に文明のエッセンスを集め、密かに保管してきたのかも知れない。もしかしたら、その何者かは『真実の神』であるのだろうか。(この連載は「日本とユダヤの不思議な関係」より許可を得て編集・要約・加筆・写真挿入・解説しています)
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投稿者:tatsujin
拍手から
サンカ(山窩)とゴシェン その4
2011/10/24 0:44
これからの日本人の役割の大きさと使命について、考えさせられます。
異民族同士で、共存共栄出来るシステムは、例えそれが、民族同士の利己的闘争を基調とした自然発生的であってもしても日本的なものなのかも知れません。和の思想は、聖徳太子が異民族を滅ぼす過程で生まれたものかも知れません。そして、聖徳太子一族が滅ぼされた後も、その思想は、絶えることがなかった。灯火として現代に息づいている様に感じます。