世界の中の日本

「北方四島を日本に返すべし」と唱えるロシア人学者

国境と国益(第12回)

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 1875年には、日露間に「千島樺太交換条約」が締結され、樺太(サハリン)全体をロシア領とする代わりに、南部千島(北方四島)以外の北部、中部千島も日本領とされた。これで全千島が日本領となった。ここまでの日露間の領土を巡るやりとりは、平和的な相互理解に基づいて行われている。

 スラヴィンスキーは、これら日露関係の原点と言うべき事実を問題解決の前提に置くべきだとしている。

 この論拠に立てば、「全千島諸島を返還すべし」という主張もできなくはない。だが、日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で「千島諸島の放棄」を承認してしまっている。それでも、1875年にサハリンと交換された「千島諸島」は、すでに1855年に日本領と認められていた南千島(北方四島)が含まれていなかったので、この部分については日本側の返還請求に根拠があるとするのが、スラヴィンスキーの議論である。明快だ。

「北海道占領」の大国主義的思惑の中で生じた北方四島占領

 スラヴィンスキーは前掲著作で、南サハリンおよび、北方四島を含む全千島を占領するに至るソ連軍の行動と、スターリンが率いるソ連指導部の思惑を、詳細にわたる軍事記録文書を含めた歴史的資料で追跡し、その行動の本質的内容を明らかにしている。かいつまんで列記すると、次の通りである。

(1)日本は1945年8月14日に、ポツダム宣言に基づく無条件降伏受け入れを表明した。ポツダム宣言は、「領土不拡大原則」を連合国間で確認した1943年のカイロ宣言の条項を前提にしたものである。それにもかかわらず、米英ソによるヤルタ会談の秘密協議では、「全クリール(千島)列島をソ連に引き渡す」と確認され、さらに対日参戦時にスターリンが米国に対し「北海道の留萌と釧路を結ぶ線の北側をソ連が占領する」と提案した。

(2)米国のトルーマン大統領は、スターリンによる「北海道の北半分占領」提案を拒否し、千島諸島についてもそれをソ連軍が占領するかどうかについて、曖昧にする態度を取るようになった。

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