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村上諒陛さん(早稲田大学 商学部4年生)

 

[Profile]

1990年東京都生まれ。早稲田実業学校中等部から高等部を経て、早稲田大学商学部に進学。大学1年次に受講した「大隈塾」という授業が刺激になり、2年 次には大隈塾プロジェクト(有志の団体)で副代表を務めたほか、経営学のゼミで「ビジネスシステム」「組織間学習」などを研究。2011年5月、ロレアル 社が主催するブランドマーケティングコンテスト「ロレアル ブランドストーム」に出場し優勝。日本代表として、6月にパリで開催された世界大会にも出場した。

 

学べる環境に身を置いたことで「勉強することの楽しさ」に気づいた。

 

中学・高校ではほとんど勉強をせず、怠惰に過ごしていたので、大学に入学したらしっかり勉強しようと決めていました。もともと、起業家に憧れていた んです。ちょうど僕が高校1年生のころにライブドア元社長の堀江貴史さんや村上ファンドが騒がれていて、お金の持つ力や経営そのものに興味を持ったこと、 あとは自営で不動産業を営んでいる祖父の影響もありました。金融にも少し関心があったため、商学部に進んで経営を勉強しようと思ったんです。

 

1年生で履修した授業に「大隈塾」というのがありました。これは全学部生がとれる授業で、政界や経済界の著名人など、いろいろな分野の 方々が講師として招かれ、その話が聞けるというもの。この授業がとても刺激になりました。講義内容はもちろんですが、一緒に授業を受ける先輩や同級生がす ごく勉強熱心で、自分の知らないことをたくさん知っているんです。彼らと一緒にいるだけでものすごく勉強になるし、わからないことがあれば何でも聞ける環 境がうれしくて、「勉強することは楽しいんだ」ということに気づきました。

2年生になってからは少人数制の大隈塾のゼミを受講し、その中で学祭でシンポジウムを行う有志団体を結成し、副代表を任されました。同学 年や年下だけでなく、たくさんの先輩方を取りまとめる大役です。僕はもともと、自分が正しいと思ったことは空気を読まずにズバズバと言ってしまうタイプ。 しかし、いろいろな年代の人をまとめるにあたって、ただ主張するだけでなく、必要であれば自分は一歩引き、相手の意見を聞き入れながらもうまく誘導してい くようなコミュニケーションが大事なんだと気づいた。思わぬかたちで人間関係について学ぶことができましたが、これは僕の中では大転換となりましたね。

 

学部のゼミ選びでも、しっかりと勉強できるところを選びました。経営学の中でも、「ビジネスシステム」という、ビジネスの仕組みの差別化 について学ぶゼミに入ったんです。「これじゃなきゃいけない!」というテーマだったわけではありませんでしたが、先輩に話を聞いても、「ガッツリ勉強でき るゼミ」ということでした。しんどいことばかりですが、希望通りのしっかりと学べる環境なのでとても楽しいですね。

起業に対する気持ちが変わったのは、3年生の春に元ボストンコンサルティンググループ日本代表の内田和成さんの授業を受けたことがきっか けです。それまでは、起業以外では経営にかかわる道はないと思っていました。しかし、「戦略コンサルタント」という仕事があることを知ったんです。その講 義では、実際に活躍されているコンサルタントの方々がゲストでお話しされたりもしたのですが、彼らがとてもかっこよく見えました。しかもちょうどそのこ ろ、「自分は起業して何がしたいのだろうか?」と悩んでいたこともあり、道が開けたような気持ちになったんです。

 

よく考えてみれば、僕は0から1を作り出すことよりも、すでにある1をどうやって大きくするかを考える方が得意だと気づきました。授業や ゼミでも、いろいろ分析してみたり、一歩引いて全体がどういうふうになっているのかを客観的に見たりすることに楽しみを見いだしていたんです。コンサル ティングの仕事は自分に合っているんじゃないかと思いましたし、「絶対にコレだ!」というものがないまま起業しても成功できないだろうと思いました。夏に 参加した外資系コンサルティング会社のインターンシップでは、わずか5日間だったのですが、自分がすごく成長できたように感じ、コンサルティング会社で働 きたいと気持ちが固まりました。

 

世界大会に出て感じた「海外との差」と「頑張ることの大切さ」

 

「ロレアル ブランドストーム」というビジネスコンテストに出ようと思ったのは、インターンシップで一緒だった仲間に誘われたのがきっかけです。学生だけが参加できる ロレアル社主催のコンテストで、その年のテーマは「L'Oreal Professionnel Homme」というブランドを使って、男性向けに新製品・新サービスを作るという内容でした。

 

僕たちのグループは、男性特有のニーズとして「髭(ひげ)」に着目し、塗るだけで髭が剃れて、かつ髭が生えにくくなるクリームを企画。明 確なニーズがある企画だと審査員の方々に高く評価していただき、書類審査を勝ち抜いた8チームの中から優勝することができました。そして何と、日本代表と してパリで行われる世界大会に進むことができたんです。実は僕は海外に行ったことがなくて、「優勝すればパリに行ける」というのも応募した理由の一つだっ たのですが(笑)、その夢が叶ってしまいました。

 

世界大会では、残念ながら僕たちは入賞することはできませんでした。しかし、日本代表としてそのような舞台に立ち、世界中の人たちと交流 できたことは何よりの財産です。特に感じたのが「アジアの勢い」。アジアのチームはハングリー精神が半端ではなく、会った瞬間に後ろから元気のオーラを発 しているような印象を受けました。その勢いは結果にも表れていて、優勝がシンガポール、2位がインド、3位がインドネシアと、入賞したのは急速に経済成長 している国ばかり。「21世紀はアジアの世紀」と言われることに納得しただけでなく、国の元気と学生の活力というのはリンクするものなんだと痛感しました。

 

もちろん入賞できなかったことは悔しかったのですが、それ以上に、「自分の置かれている環境」と「彼らがいるであろう環境」がまったく違 うんじゃないかということがショックでした。僕なりに日本で一生懸命努力していて、周りの仲間たちも皆すごく頑張っているのに、それを簡単に打ち砕かれて しまったように感じて、しばらくは何もやる気が起こりませんでした。

 

でもやっぱり、頑張らなきゃいけない。そう思えたのは、世界を見たことで「世界で活躍できる人間になりたい」という気持ちが強くなったか らです。そのために、まずは学生として目の前のことを必死に頑張ろうと思っています。自分の専攻をしっかり学び、たくさんの論文を読む。背伸びをせずに、 地に足をつけて普通のことをちゃんとやろう。そうやって何か一つを究めることができれば、それが自分の言語になり、解釈の幅が広がるはず。その結果、もの すごく小さな分野でもいいので得意分野を見つけたいと思っています。卒業後はコンサルティング会社で働きますが、そこでも社会人として目の前の仕事に一生 懸命に取り組み、一つずつでいいのでステップを踏みながら成長していきたいです。将来は、「日本人のあいつ、すごいよな」と言われるような人間になりたい ですね。

 

(就職ジャーナルより)

 


石田言行さん(中央大学 商学部4年生)

 

[Profile]

1989年東京都調布市生まれ。中学時代に携帯電話を使った簡単なネットビジネスに挑戦したことがきっかけで、インターネットを使ったビジネスに興味を持 ち、将来は起業しようと考えるように。一方で、12歳から始めたバドミントンにも熱心に打ち込む。高校3年時に「大学に入ったら起業をする」と腹に決め、 商学部に進学。大学1年の11月、ビジネスを通じた途上国支援、社会問題の解決への貢献を目指したNPO法人「うのあんいっち」を友人3人と立ち上げる。 2010年には旅行会社と組んでカンボジア、インド、バングラデシュへのツアーを企画し、合計75人を集客。NPO法人での活動を休止した後、インターン シップなどでの経験をもとに2011年3月に起業。“オリジナル旅行の企画・共有・実現のためのプラットフォーム”を運営する、株式会社 trippieceを設立。代表取締役に就任する。

 

 

「同志」と呼べる仲間との出会いが、起業を後押しした

 

僕が起業を考えたきっかけは、父と祖父の影響です。日本を代表するバドミントンプレイヤーだった2人を見ながら、「男なら、自分の親を追い抜きた い」と思いました。しかし、12歳からバドミントンを始めた僕が、5歳のころから猛特訓を続けた2人を追いぬくことは難しい。ならば、興味のあったビジネ スの世界で何かを成し遂げて、彼らに勝つんだと。歴史上の出来事などを題材とした「世界の歴史」という漫画が好きだったことから、“世界を変える”生き方 に憧れていたので、起業という働き方を選ぶことで、彼らとは違った「何か」を成し遂げられるのではないかと思いました。

 

「うのあんいっち」というNPO法人を立ち上げたのは、大学1年の11月です。もともとのアイデアは友人が持っていたものだったんです。 当時、自分の中にあった「グローバル」「ゼロから生み出す」「インターネット」という3つの起業のためのキーワードと、その友人から聞いた「世界の子ども たちが撮影した写真を社会に発信する」というアイデアがピタっとはまり、「これは何か面白いことになりそうだ!」と飛びつきました。

この時に一緒に立ち上げた3人の友人との出会いが、僕に大きな影響を与えたと思います。彼らと一緒に話し合うことが、とにかく楽しかった んです。僕はどちらかというと、情熱的に走ってしまう性格なんですが、僕が熱く語ったアイデアをメンバーに伝え、まとめる力に長けている友人がいたり、プ ログラミングができ、インターネットにとにかく詳しかったりと。4人がうまく歯車のようにかみ合い、実現したのが「うのあんいっち」でした。

実は、高校時代はとにかく不完全燃焼で、あまり仲間に恵まれなかったと感じることが多かったんです。バドミントンをやっている同世代の仲 間も少なくて、ダブルスを組む相手が見つからなかったりもしました。理由はそれだけではありませんが、その結果バドミントンをやめてしまったことも、これ までの人生で一番後悔していることです。

 

だから、大学で“同志”と呼べる仲間に出会えたことが、とにかくうれしかったんです。バドミントンへの後悔から、「好きなことは続けない といけない」という意識もより強くなっていました。「こんなに素晴らしい仲間がいて、起業したい気持ちがあるのなら、絶対に挑戦しないといけない」と。そ のエネルギーが、僕を後押ししてくれたように思います。

株式会社trippieceの設立は、2011年3月31日。大学3年生の最後の日に、念願の起業です。「うのあんいっち」での活動を通 じて得た仲間とのつながりや世界とのかかわり、インターネット会社での短期インターンシップで学んだ事業立案の面白さ、NPOでの長期インターンシップで 気づいた、ソーシャルビジネスの弱点とそこに対する自分なりのアプローチ手法。この3つを軸に事業計画を立て、ようやく形にすることができました。

起業の目的は、オリジナル旅行の企画・共有・実現を通じて、同じ趣味を持った仲間同士が世界を超えてつながる場を提供すること。ユーザー が「行きたい」旅行を企画し、TwitterやFacebookを通じて発信。その内容に興味を持った人が集まり、体験を実現させるというものです。 「trippiece」がプラットフォームとなることで、僕自身の信念である「世界を身近に、小さくする」という思いを実現させたいと考えています。収益 モデルとしては、"行きたい人"であるユーザーと"来て欲しい人"である旅行代理店の双方からマッチングフィー(成果報酬)をいただく予定。社員はまだ2 人ですが、2011年末にはシリコンバレーへの進出を計画しているんです。

NPO法人設立、起業…、振り返れば、いつも「仲間の存在」が僕を後押ししてくれていました。僕自身、決して頭がいい方ではないけれど、あらゆる仲間と出会ってきたことで、人間として少しずつブラッシュアップされていったのかな、と感じています。

 

だからこそ、前に進むときは僕だけがただ邁進するのではなく、メンバー全員で進むんだという気持ちを忘れないようにしています。そのため には、経営者として、ただお金を生み出すだけではなく、単純に皆が面白いと感じることに取り組めるような戦略を立てていきたいと思っています。

 

やっぱり、好きなことを発信していると、好きな仲間が集まってくるんです。今は、環境や関係は自分自身でつくっていくものだということがよくわかります。それがとにかく気持ちいいですね。僕がひたすら前に進む理由は、ここにあるのかもしれません。

 

 

卒業までには、会社としての成果を出したい!

 

今は、自分の会社を大きくすることだけしか考えていませんね。まずは来年の2012年3月まで全力投球して、「企画数」「参加者数」という2つの指 標で成果を出したいと思っています。結果次第で、その先も攻めるべきなのか、もしくは方向転換の必要があるのかを、経営者として判断するつもりです。

 

その先のことは正直なところよくわかりませんが、漠然と考えている将来の夢は、40歳までに無人島を買って、そこでのんびりと生活すること。魚釣りをして、自分で料理を作って食べて、自然に囲まれてゆっくり過ごしたい。ネットとは無縁の生活を送りたいんです。

 

というのも、40歳を過ぎたら引退して、次の世代に投資する側に回りたいと思っているからです。自分が上の世代の方からしていただいたよ うに、自分ができるだけのものを次の世代に残してあげたい。そんな理想の生活のためには、資金も人脈も、今からつくっておかないといけませんよね。

 

実は、少しだけですが就職活動もしたんです。一応、内定も頂きました。でも、スーツを着て頭を下げるのは、自分のスタイルではないことがよくわかりました。自分で納得がいかないのなら、続けるのは難しいのかなって。

 

面接では、自分の将来像や、そのために今まで何をしてきたかについては、自信を持って説明できましたし、何を聞かれてもたじろぐことはあ りませんでした。就職活動をしたおかげで、起業して自分の信念を貫きたいという想いが、とても強いものなんだと気づくことができ、いい経験になったと思っ ています。

 

(就職ジャーナルより)

 


岡洋平さん(ハーバード大学 2年生)

 

[Profile]

1991年東京都杉並区生まれ。1歳から10歳まで、父親の仕事の関係でアメリカ・ニュージャージー州で過ごす。帰国後は、中学・高校とさまざまな活動に 携わり、特に高校時代に参加した模擬国連(国連会議のシミュレーションを行う教育・サークル活動)では、日本大会への出場や、日本代表として世界大会にも 出場するなど活躍する。また、2008年の洞爺湖サミット開催の際に行われたユニセフが主催の「ジュニア8サミット(J8)」にも、日本代表として参加。 中学3年時に、ハーバード大学に進学した同じ学校の先輩の存在を知り、海外大学に興味を持つ。高校2年の夏にハーバード大学のサマースクールに参加したこ とを機に、アメリカの大学への進学を決意。2010年9月、ハーバード大学へ入学。

 

勉強への意識が高い学生に囲まれ、日々自分を奮起させる

 

生まれは東京ですが、1歳から小学校5年生までをアメリカのニュージャージー州で過ごしました。向こうはあらゆる人種の人がいるのが自然で、実は僕 もしばらくは自分のことをアメリカ人だと思っていたんです(笑)。だから、10歳で日本に帰ってきて、ほとんどが日本人という環境の違いに少し戸惑いもあ りました。日本の学校に通う中で、少しずつ日本人としてのアイデンティティーを確立させていったという感じはありますね。

 

アメリカの大学に進みたいと思ったのは中学3年生のときです。中高一貫校で、当時高校3年生の先輩がハーバード大学に進学したことがきっ かけ。ちょうど学校で実施された海外大学説明会に参加して、こういう選択肢もあるんだなと興味を持っていたところでした。高校2年の夏にハーバード大学の サマースクールに参加したのを機に、「自分もこういう生活をしてみたい」と海外大学への進学を決断しました。

そもそも向こうには偏差値というものがありませんから、まずは自分がどのレベルか、どんな学校を選べばいいのかもわからなかったんです。 どんな学部の教育に力を入れているのか、スポーツとの両立はどうなのか、どんな先生・講師がいるのか、街や田舎など立地環境、大学院とのコネクション、校 風など、さまざまな角度から学校を比較検討。その中で、僕は何を勉強したいのかが漠然としか決まっていなかったので、幅広い分野に力を入れている大学とい うことで、ハーバード大学を選びました。

 

あとは、「入学時に学部を決めなくていい」ということも大きかったですね。僕は理系だったのですが、日本の大学で理系の道に進んでしまえ ば、その専門分野以外は選べなくなるような気がしていたんです。外交官の仕事にも憧れていて、国際協力や政治についても勉強してみたいと思っていたので、 もっとフレキシブルに自分の進む道を選べればいいなと思っていました。

 

また、もちろん日本のようにテストの点数も大事ですが、課外活動や高校時代に取り組んだことを評価してくれるところも自分に合っていると 感じていました。僕はいろいろなことに興味があり、部活ではテニスをやり、小さいころから習っているバイオリンでは高校3年生のときにコンクールに出場。 生徒会活動にも取り組む一方で、高校1年の秋から模擬国連の活動も行っていました。

 

特に、模擬国連やJ8の活動では、本当にいろいろな経験をしました。日本代表としてニューヨークでの大会に参加して、先進8カ国や途上国 から参加した海外の学生たちと交流したり。本物の国連と同じ議題、地球温暖化や、AIDSなどの世界保健、地雷除去などについて話すことは、とても刺激的 で、政治に関心を持つきっかけになりましたね。そういった経験を、大学に高く評価してもらうことができました。

 

入学は2010年の9月です。入学して一番感じたのは、4年間かけて「考える力を磨く」ことに重点を置いている大学の方針。問題に遭遇し たときにどう対処するのか、どういう価値観を持つかということを学ぶ機会が多いんです。学部も決まっていませんから、自分で興味がある分野を選んで、授業 の単位を組み立てていきます。いろいろな授業を受けながら自分に合うかどうかを見て、その中から興味のある分野を専攻にしていくという流れです。

 

専門的にやりたい分野が見つかれば、大学院に進んで本格的に勉強するという人が多いので、学部にいるうちは、興味のあることをとりあえず いろいろやるというスタンス。最初は僕も「外交官」という目標があったのですが、いろいろな分野に挑戦するうちに、自分でも何がしたいのかよくわからなく なっているんです(笑)。それくらい、魅力的で面白い授業が多くて。新しいことに挑戦すればするだけ、迷ってしまいます。

 

大学には、いろいろな人がいます。学業だけでなく、スポーツ、課外活動、ボランティアなどオールラウンドでこなしたり、5、6カ国語を話 せる人もいますし、音楽やプログラミングなど、何か一つの分野を世界レベルで極めている人も普通にいるんです。周りがあまりにすごすぎて、「自分は、間違 えてハーバードに入ってしまったんじゃないか」とコンプレックスを持つ人も少なくありません。

 

学生に共通しているのは、みんなとにかくよく勉強するということ。どんなにパーティーが好きで遊んでいる人でも、しっかり勉強だけはして いる。そんな環境に身を置いていると、「僕ももっと勉強しなくちゃ」という気持ちになるんです。大学側もいろいろな個性の人を集めようとしているようです から、刺激的な人が多く、毎日がとても面白いですね。

 

 

「海外」という選択肢を持つことで、可能性はもっと広がる!

 

当面の目標は、2年生の秋学期終了までに自分の専攻を決めること。そのためには、もっといろいろな分野を勉強して、興味を持てることが何なのかを見 つけていきたいと思っています。今のところは政治に興味があるのですが、大学で初めて学んだコンピューターサイエンスの分野も面白いので、本当に迷ってい ますね。

 

将来を決めていくという点では、インターンシップなどにもチャレンジしていきたいです。ハーバード大学の入学が9月だったのでその前に、 参加したジュニア8サミットを主催していたユニセフでインターンシップをさせてもらいましたし、5月には一時帰国をして医療系出版会社でデータ分析のイン ターンシップをしていました。インターンシップに参加して、計画的にプロジェクトを進めること、プレゼンなどを通じて自分が思っていることをわかりやすく 他人に伝える難しさなどを感じました。また、学生視点ではなく、お客さまの視点から物事を考えられるようになったのは大きいですね。今後は外資系の金融会 社のインターンシップに参加してみたいと思っています。今のところはあまり関心がないのですが、外資系金融に興味を持っている仲間が多いので、そういう世 界を知っておくのも必要なことかなと思っているところです。

 

あとは、やっぱりもっと日本を知りたいですね。自分が知っているのは東京だけなので。日本を一周して、いろいろなものを見て回りたいで す。日本を支える農家の方に話を聞いてみたり。そういう活動に対しては、大学も協力的で支援をしてくれるので、機会をつくって挑戦してみたいと思っています。

 

僕は、必ずしも海外の大学に進むことが一番だとは考えていません。人それぞれに合う、合わないがありますし、僕にはたまたま合っていたん だと思います。よく、大学の友人に「日本には素晴らしい教育システムがあるんだから、そこで学べばいいじゃないか」と言われることがあります。しかし、生 活基準も高く教育システムも整っていることから、海外という選択肢を持つ前に満足してしまう雰囲気があると思うんです。だから、その中で「海外」という知 らない世界に挑戦する人がいてもいいんじゃないかなと。少なくとも、最初からその選択肢を除外するのはもったいないし、可能性が広がることですから、もっ と多くの人に知ってもらいたいと思っているんです。

 

(就職ジャーナルより)

 


中村文香さん(東京大学大学院 医療系研究科)

 

[Profile]

1988年岐阜県多治見市生まれ。小学1年から3年までをオーストラリアで過ごす。帰国後は都内の学校に通いながら、高校生のころから東京女子医大病院で ボランティア活動にも参加。高校3年生の2月、卒業を待たずして南オーストラリア州立フリンダース大学に入学。現地ではさまざまな国の人との寮生活を送る ほか、10カ国以上を一人で旅するなど積極的な異文化交流を重ねる。2年時の冬休みを利用してミャンマーでの医療ボランティアに参加し、大きなカルチャー ショックを受ける。3年時には交換留学生としてデンマークの病院にて実習経験を積むほか、オーストラリアの看護師国家資格を取得。大学を3年間で卒業し、 2010年、21歳で東京大学大学院に入学する。学業のかたわら日本国内のベンチャー企業のインターンシップに参加し、iPhoneアプリの制作や、受託 アプリの企画に携わる。現在はWHO(世界保健機関)のプロジェクトの一環であるWorld Mental Health Survey Japanの解析や、東北地方太平洋沖地震の復興支援プロジェクトの調査活動にも取り組む。2011年2月、日本の看護師国家資格を取得。

 

 

ミャンマーでのボランティアで知った現実。人のために何ができる?

 

3歳の時に手術を受けたのがきっかけで、幼いころから医療というものは身近に感じていました。そこから自然に、「人の役に立てる仕事」として看護の 道を志すように。一方で、得意な英語を生かした仕事も選択肢にあったので、それなら看護と英語を組み合わせて何かできないかと考え、最終的に行き着いたの が「海外の大学の看護学部に行く」という結論でした。

 

新しい自分自身を発見したいと選んだオーストラリアの地。毎日忙しかったですね。日々の授業やたくさんの宿題、週2回は大学内にある病院 施設で実習もありました。日本の看護学校ではあり得ないのですが、学生なのに2人の患者さんを実際に担当させてもらい、しかも2年生になってからは注射を 打つ経験もさせてもらったんです。

 

3年生のころには4人の患者さんを担当し、すべての面倒は私が見るように。毎日8時間の実習ですから、完全に仕事をしている感覚です。大 学病院という小さな世界ですが、患者さんを通じて社会とつながっている意識は強かったですね。私を担当する本物の看護師さんがいるため、自分がすべての責 任を取るわけではありません。でも目の前に患者さんがいて、患者さんは私を看護師さんと呼んで頼ってくれるという自負がありましたから、やりがいは大き かったです。

 

そんな大学時代の大きな転機の一つが、2年生の冬休みに参加した、ミャンマーでの医療ボランティア。大学生活にも慣れ、卒業後のイメージ が少し描けるようになってきた時に、「人の役に立ちたい」という気持ちの中にある「人」というのが、実は明確ではなかったことに気づきました。困っている 人は世界中にいるはずだから、もっとできることがあるはずだって。

 

ミャンマーは、それまでの自分の想像をはるかに超えていました。お金がなくて病院に行けず、それはもうひどい状態になってから診察に来る 患者さんがたくさんいるのです。タダで診てくれるからと、全財産を交通費に費やして遠方からやって来る患者さんもいましたし、汚れた水でしか水浴びができ ないため、何度も同じ感染症にかかって通院する人も。医療を提供する環境としても、手術中に停電になるので懐中電灯で照らしながら手術を行ったり、人手が 足りないので患者さんの家族にほかの患者さんの看護のサポートまでお願いしたりと、日本やオーストラリアの整った環境では考えられないことばかりでした。

 

2週間の滞在を終えて自分の部屋に戻ってからは、「自分には何ができるんだろう」と自問する日々でしたね。国際保健に興味を持つようにな り、「大学院に進もう」と考えるようになったのもこのころ。ボランティアの経験から、人のために何かを行うには、国の政策は避けて通れないことを痛感した のがきっかけです。

 

例えば、医療現場までの交通手段が整っていれば、もっと早く病院に行くことができたかもしれません。それ以前に、日ごろの食事や水道など のインフラが整っていること、医療施設が整備されていること、人が治療を受けられるだけのお金を持っていること、そういう一つひとつがいかに大事かという ことです。先進国では当たり前のことが、ミャンマーでは当たり前ではない。そのせいで亡くなる命がたくさんあるんだということを、切実な問題として考える ようになりました。

 

また、「お金」の問題について考えさせられたこともとても大きかったです。医療においては、資金繰りは何よりの課題。正直な話、「安いか らこっちの道具を使う」「お金がないから手術は無理」といった話がよくあるんです。それはミャンマーに限ったことではありません。日本では、お金に困って いる人を身近で見る機会はほとんどありませんでしたが、ミャンマーにはお金がない人がたくさんいましたし、マレーシア人の友達は、貧しい家族のために仕送 りをしながら苦労してオーストラリアの学校に通っていました。お金を「持つ人」と「持たない人」がいる。「お金というものは重要で、目を背けてはいけない ものなんだ」と、きれいごとではなく考えるようになりました。

 

そうやって、いろいろなことが見えてくると、世の中は医療だけで回っているわけではないこと、ビジネスや経済といった生活を取り巻くもの の一部として医療があるということを受け入れられるようになりました。さらに、医療以外の世界についてあまりにも知らなさすぎるというジレンマが大きく なっていったんです。確かに医療は絶対に必要なものだけど、それしか知らない自分でいいのだろうかという、自分自身に対する危機感ですね。

 

正直なところ、日本の教育を受けていただけでは、ここまでのことは考えなかったと思います。まだ20歳そこそこでしたが、異なる文化を背景に持つ人々と触れ合って、自分の目で見て感じる中で、気づくことができたように思います。

 

だから、卒業後は日本に戻り、大学院で学びながらベンチャー企業のインターンシップに参加しました。お金に対してシビアな世界に身を置い てみよう、ベンチャーでビジネスを一から学んでみようと。未知の世界だったiPhoneアプリの開発などにかかわる中で、人が生きている中にはあらゆる フェーズがあって、いろんな楽しみがあるんだと、一気に視野が広がったんです。医療とは違う、別の世界を知ったことは大きな発見でした。

 

 

「医療」「グローバル」「ビジネス」の3つの軸で世界とつながりたい

 

私にとってのブレない軸は、「どんな仕事でも人の役に立ちたい」ということです。看護の道を選んでオーストラリアに留学を決めた時と気持ちは同じで すね。ただ、いろいろな経験を経た今、当時と違っているのは「人の役に立つ仕事は医療以外にもいっぱいあるんだ」という視点で考えられること。あのころは 視野が狭かったなあと思いますね。

 

今は、医療といっても「患者」「病院全体」「国の政策」など、いろいろな視点から考えることができます。やっぱり今後も、幅広い分野に対して広い視野を持ち続けたいですね。

就職先として選んだのは、戦略系のコンサルティング会社。コンサルティングの仕事であれば、いろいろな業界を幅広く見られるのではないかと期待しています。

 

その先に考えていることは、今の私の軸となっている「医療」「グローバル」「ビジネス」という3つを組み合わせて、世界なり日本なりとつ ながっていられたらいいな、ということです。これからの高齢化社会には医療は絶対に必要ですし、今後は海外の看護師に頼らないと人手が足りなくなる時代が 来るでしょう。そして、そこには必ずビジネスが絡んできますよね。

 

こうやっていろんなことを考えながら、何に対しても楽しめるのが“私”だと思います。一方で、いつかはどこか一つの場所に落ち着くことが できたらいいなという気持ちもあるんです。でも、もっといろいろなことが知りたい―。そんな葛藤の中にいますね(笑)。とりあえず今は、30歳になった時 に、どこかに行き着けたらいいかなって、そんなふうに考えています。やりたいことがあった時に、それに全力で向かっていける自分でいたいですね。

 

(就職ジャーナルより)

 


船登惟希さん(東京大学大学院 理学系2年生)

 

[Profile]

1987年新潟県生まれ。高校までは、文武両道の進学校で勉強とバスケットボールに打ち込む。レントゲン技師だった親の影響で、小さいころから漠然と医者 を目指すも、東京大学理科Ⅱ類に進学後は化学専攻に進む。一方で教育分野、特に教育とエンタテインメントを融合した「エデュテイメント」に興味があり、自 ら企画した「楽しみながら学べる参考書」が「出版甲子園」で入賞。2011年、『宇宙一わかりやすい高校化学 理論化学編』『大学受験らくらくブック生物Ⅰ』『大学受験らくらくブック化学Ⅰ』(学研)の3冊の学習参考書を出版した。現在、新たに6冊の参考書を執筆 中。また、東北地方太平洋沖地震の震災復興支援団体「Youth for 3.11」の代表として、企画立案や内部マネジメントなどを中心に運営全体に携わっている。

 

 

大学に進学し、見失った自分の「判断軸」

 

小さいころから、勉強することが好きでした。テストでいい点数をとったり、順位を上げることがとにかく面白かったんです。勉強ができるから楽しく て、楽しいから頑張る。そんな「正のサイクル」ができていたんですね。テストの1カ月前から予定をがっちり組んで勉強するのは当然ですが、普段から一日6 時間くらいは机に向かっていました。

 

なぜそこまでできたのかと言えば、勉強が自分のアイデンティティにつながっていたからです。僕は自我が強い人間で、今でもそうですが「存 在意義」を常に強く求めています。僕にとって勉強とは「一番になれるもの」で、この分野なら誰にも負けないと言えるものでした。しかも、勉強ができていれ ば親も学校も何も言いませんから、すごく狭い価値観の中で、でも、それでいいと思って生きてたんです。

 

しかし、その価値観は大学入学をきっかけに大きく揺さぶられました。東京大学には僕よりも勉強ができる人がたくさんいて、これまでの僕の 評価軸だけでは勝ち目がなかった。とても不安になり、自分の存在価値を見失いそうになりました。さらにその後、大きな2つの転機がありました。1つは大学 2年の夏に専攻選びを失敗したこと。もう1つは、3年生になって就活がうまく進められなかったことです。

 

親の影響もあって、漠然とですが将来は医者になりたいと思っていました。しかし、最終的には化学を学ぶ道を選んだ。将来は一医者として患 者さんを助けるよりも、基礎研究を通して根本的に世の中を変えたいと思っていたからです。化学というものには何となく可能性がありそうだと思いました。と ころが、最初の専攻の授業で、「これは自分には合わない。失敗した」と思ったんです。ホントにやりたいと心の底から思ったのではなく、頭だけで考えてし まっていた。「自分は何に没頭できるのか?」という基準で選ばず、頭で考えて選んだことが原因だったんです。

 

さらに、就活を始めた時にも大きな壁にぶつかりました。エントリーシートを書こうと思った時に、自分自身の強みや、本当にやりたいこと が、何一つ頭に浮かばなかったんです。だから当然、何も書けませんよね。愕然としました。面接を受ける以前の問題で、「まずは自分のやりたいことを探さな ければ」と早々に就活を切り上げたんです。

この2つの転機は、今振り返ってみれば「自分の中の判断軸」について考えさせられる場面でした。高校までは敷かれたレールに乗って、目の 前のことをただ頑張っていれば何も問題はなかった。しかし、大学にレールは敷かれていなかった。そこで何を判断軸にして前に進めばいいのか、その選択に直 面していたんです。医者ではない道を選んだ自分の人生を納得できるものにするためには、どうしたらいいのか。それがまったくわからず、とても焦りました。

その後は、とにかく自分が興味を持てることを探そうと、ひたすら本を読みあさりました。そうして出合ったのが「教育」という分野。ちょう ど社会起業家という生き方が注目されていた時期で、とある本を通じて「Teach for America」という団体のことを知りました。教育環境が整っていない地域に教師を派遣し、教育問題を解決しながら学生の成長も実現する、アメリカの非 営利組織です。その考え方に惹かれながら、自分は教育という分野に興味があったんだと気づくことができました。

僕はそれまで、「宇宙の法則」「化学の法則」といった、根本的で必然性のあるものにしか興味がありませんでした。人間というものは、たま たま人間というかたちで生命ができただけで必然性はない。もしかしたらほかの形態の生物でもよかったかもしれない。だから僕は、冗談ではなく「人間」とい うものにまったく興味が持てなかったんです。「人間の中の必然性」というものに目を向けようとしていなかった。しかし、「人間を抜きにして世界は考えられ ない」という当たり前のことに気づいたときに、価値観が変わりました。そして、「世界を変えるには人を変えないといけず、人を変えるためには教育を変えな くてはいけない」というロジックに行き着いたんです。最新のテクノロジーや、便利な物に囲まれていることよりも、抽象的ですが、「いい教育を受けることこ そが、人の人生を楽しく豊かにする」と考えるようになったんです。

 

さらに、自分が何かを「学びたい!」とか「面白い!」と思ったときのことを振り返ってみると、それは楽しみながら勉強できるコンテンツに 触れているときでした。僕の好きな本の一つに『トムキンスの冒険』という小説があるのですが、これは「楽しく読んでいるうちに相対性理論や量子力学につい て学べてしまうスゴい本」なんです。こういう、前提知識がなくても楽しみながら学べるものがもっとあったらいいのにと思うようになりました。そして自分で 調べるうちに、「エデュテイメント(edutainment)」という概念があることを知ったんです。

 

education+entertainmentで edutainment。まさに「楽しみながら学ぶ」という、僕の理想としているものでした。しかし、日本には例が少なかった。そこで、「ないのであれ ば、自分でつくってみよう」と思ったんです。そして、大学4年の夏に「出版甲子園」という大会に出て、楽しみながら学べる参考書の企画を考えて応募したと ころ、出版社の方に興味を持っていただき、出版のチャンスを与えていただきました。自分が強く興味を持っていることを、大会という場で認めてもらえたこと は大きな自信になりましたね。今までになかった、「楽しみながら学ぶ」という新しい価値を、本として形にできたこと、そしてそれによって世の中に貢献でき たことにワクワクし、これが自分がやりたかったことなんだと実感しました。

 

 

団体を始めてから、「人と一緒につくりあげること」の楽しさを知った

 

現在は、学業や本の執筆と並行して、3人の友人と一緒に立ち上げた「Youth for 3.11」という震災復興支援団体を運営しています。「何かしなくては」との思いで、震災を機に立ち上げました。ボランティアをしたい学生と被災地をつな ぐプラットフォームを作ったんです。長期的な支援につなげやすい学生の特性を最大限に引き出すため、学生にハードルの低いボランティアプログラムを提供 し、学生が現地に行く際のボトルネックとなる要因を取り除きました。これが僕らの作り出した新たな仕組みです。学生の持つ“若さ”という強みを被災地に届 けることは、復興活動のためにはとても価値のあるものだと思うんです。

 

僕は代表として主に、活動方針を考えたり、団体運営のための仕組みをつくっています。実は、人の上に立って、人を巻き込んだり、動かすよ うな活動をするのはこれが初めてなんです。今までは「自分一人でやった方が早いし、うまくいく」という考えでずっと生きてきましたが、そんなことはありま せんでした。もちろん、うまく頼めなかったり、思い通りの結果を出してもらえずにもどかしい気持ちになることもあります。そんなときには、接し方を変えて みたり、やる気が出る方法を考えてみたり。そういったアプローチができるようになったことが、僕の中では成長で、人と一緒に何かをつくっていくことが、こ んなに刺激的だと気づけたことが何よりの財産だと思います。周りからも、「変わったよね、良い意味で」って言ってもらえるようになりました(笑)。

 

提携先のボランティア団体や被災地の方々、参加した学生からも感謝の言葉をたくさん頂いています。自分たちの活動を通じて人々の輪が広が り、幸せにつながっていることを実感するたびに「社会に貢献できているなあ」とうれしい気持ちになるんです。現在は5400人を超える学生に登録しても らっています。卒業後も、僕らがつくりあげた「新しい仕組み」が、別の災害や社会問題に対しても適用していけるよう、継続的な活動をしていきたいと考えて います。

 

(就職ジャーナルより)

 


長竹慶祥さん(慶応義塾大学 SFC 3年生)

 

1991年インドネシア生まれ。中学1年時の文化祭でたまたま見たジャグリングのステージに魅せられたのをきっかけに、自らもジャグリングを始める。 2007年、アメリカ・ノースカロライナ州で開催されたジャグリング世界大会ジュニア部門で、初出場にして優勝。ステージ、イベントでのパフォーマンスの ほか、テレビなどの各種メディアでも活躍中。

 

 

ジャグリングが気づかせてくれた「客観視点」

 

小さいころからとにかく飽き性で、いろんなものに手を出してはすぐにやめての繰り返しでした。両親も僕が飽きっぽいのを知っていましたから、ジャグ リングを始めた時は「どうせすぐにやめるだろう」と思ったそうです。でも、やめなかった。中1で初めて出合うまでジャグリングなんて知らなかったのに、今 でも夢中で続けています。モノひとつでお客さんを盛り上げられるのが何よりジャグリングの面白さで、そして「上達が目に見えやすいところ」も僕に合ってい ました。ジャグリングは練習するうちに気がついたらうまくできるようになるものではありません。見栄えの話を抜きにすれば、「できる」か「できない」の二 元論なんです。だから、できなかった技を習得した時はものすごく達成感がありますね。

 

僕が得意なディアボロ(写真)は、本気を出せばビルの10階くらいの高さにまで飛ばすことができます。技もいろいろありますが、初心者で も1時間程練習すれば多少はできるようになる。でも逆に言えば1時間練習しなければできないんです。そういう生意気なところにくすぐられて、「ちくしょ う!」と言いながらひたすら練習してきました。一番練習していたころは、登校前や放課後はもちろん、授業の合い間のちょっとの休み時間でさえも練習していましたね。

 

大会に出ようと思ったのは、各地のジャグリングサークルに出入りするようになったのがきっかけです。そこで出会った同年代のジャグラーた ちが大会に出ていたので、大会自体は比較的身近な存在でした。といっても、実は高校2年生で初めて世界大会に出るまで、学園祭以外のステージに立ったこと はなかったんです。でも、出ると決めたらどの道ものすごく努力するわけですから、目指すなら「日本一」よりも「世界一」だなと思って(笑)、世界大会に挑 戦することにしたんです。もちろん、優勝するための演技を一生懸命作ったのですが、それで結果が出るかどうかはわからなかったので、チャンピオンとして名 前を呼ばれた時は、涙が止まりませんでしたね。

 

世界一になって変わったことは、いい意味でも悪い意味でも、“ジャグラー”として見られるようになったことです。日々の振る舞いや、服装 や髪型など、外見から人に与える印象というものにも気を配るようになりました。今までジャグリングに触れたことがない人にとっては、僕がジャグリングのイ メージを形作る人になるわけです。「僕はほかのジャグラー全員の代表としてステージに立つことになる」。それに恥じないようにと思うようになりました。

 

イベントなどでのパフォーマンスの依頼もくるようになり、そのころから「お客さんにどう見られるのか」はもちろん、「どうすれば喜んでも らえるのか」を強く考えるようになりました。ある日パフォーマンスをした時に、目の前のお客さんの好奇心からくる笑顔を目の当たりにし、「ジャグリングを するよりも、ジャグリングを使って人に喜んでもらうことが好きなのかもしれない」と思いました。ジャグリングが「目的」から「手段」に変わった瞬間です。

 

そして気づいたのは、お客さんが見ているのは、細かいテクニックよりも、「パフォーマー自身」だということ。ジャグラーとしては、「この 技、難しいのにあんまり受けないなあ」なんて思うこともよくあるんです。でも、お客さんは技の難易度なんてわかりませんし、それよりも、抽象的になります が、「パフォーマー自身の魅力」というか、心動かされる「振る舞い」みたいなものが、喜んでもらうためには大事だと思うようになってきたんです。

僕は、プロジャグラーの定義を「自分が今行っているジャグリングが全ジャグラーの代表である、という意識を持ってショーをする人」という ふうに考えています。人前でパフォーマンスをするという行為はとてもぜいたくなことです。わざわざ貴重な時間を割いて見てもらうわけですから、それ相応 の、「この時間を過ごしてよかった」と思えるような価値を提供しないといけません。そのためにいろいろとシカケを考えて、喜んでもらいたいと工夫をこらす わけです。よく、「自信家だ」なんて言われるんですが、とんでもない。すごく人目が気になるし、いまだに緊張しない時はありません。だけど、最後の最後で 「自信を持ってやらなければ、見てくれる人に対して失礼だ」という気持ちが勝つんです。

 

もしジャグリングに出合っていなかったら、僕は本当に面白くない人間になっていたと思います。人の心をどうやったら動かせるかを考えた り、人と接するときにどんな目線の使い方で、どんな相づちの仕方で、どんな言葉を使うかなんてことを考えるようになったのはすべて、ジャグリングがきっか けです。そして、自分自身を客観的な視点を持って見られるようになったのもジャグリングのおかげ。ジャグリングが与えてくれた一番大きな“気づき”なんで す。

 

 

自分の中にある「変わらない価値観」を見つけたい

 

今年は就活をせずに来年一年間休学し、アメリカやカナダでストリートパフォーマーをしながら旅をしたいと思っています。大会では周りは全員ジャグ ラーですが、果たしてそうじゃない人たちに、自分のショーがどれくらい通用するのか試してみたいという気持ちがあるんです。そしてこの旅をきっかけに世界 中に友達を増やしていけたら、さらに楽しい人生になるんじゃないかなぁと。

 

人が変わる要素には、「人づきあい」「時間配分」「場所」の3つがあるそうです。アメリカに行けば、このすべてが変わるでしょう。だから きっと、僕の価値観はかなり変わるはずです。一年で帰国するつもりですが、それも気が変わるかもしれませんね。ただ、最も興味があるのは、「それでも変わ らない価値観」の方なんです。価値観が大きく変わるような経験をしても変わらないものなら、この先も絶対に変わらないものだと思うから。今の僕の中では、 「人を楽しませる引き出しを増やす」ということが人生の目的で、おそらくそれは変わらないものだと考えています。いずれにしても、あらためて人生を見つめ 直す機会にしたいです。

 

これまで、勉強もそれなりにしっかりやってきたし、一方でジャグリングのようなあまり人がやらないことを続けてきた経験があります。将来 は、この2つを生かしたキャリアプランを作っていきたいです。具体的にイメージはまだできていませんが、きっとそれは、ジャグリング一本で食べていくこと ではないと思っています。もちろん、ジャグラーとしての技術や見せ方の自負はありますし、コツコツやってきたことをないがしろにしてしまうようなことに対 してもったいないと思う気持ちもある。ただ、自分のすべての経験を生かせる仕事は、もっといろいろあるんじゃないかと考えています。

 

これからも、自分は常に面白い人間でいたいと思います。面白いといっても、funnyよりはinterestingの方が近いかな。僕が 面白いと感じる人は、知識の幅が広くなおかつ造詣が深い人。そして、相手の気持ちを引き出すのが上手で、そこに自分の言葉をうまく乗せられる人です。海外 を旅することで、自分もそんなふうにたくさんの引き出しを持てるようになれればと思っています。引き出しの多い、「タンスのような人」になるのが、今のと ころの目標ですね。

 

(就職ジャーナルより)

 


寺岡重人さん(関西学院大学 経済学部 4年生)

 

[Profile]

1989年兵庫県生まれ。5歳の時から剣道を始め、高校時にはフィンランドで講師を勤めるほどの腕前を持つ。経済学者の父親に影響を受け、関西学院大学経 済学部に進学。学生ベンチャー創世塾というゼミに参加して学生団体の立ち上げを経験したほか、高校生・大学生向けのキャリア講座の運営を行うNPO法人 「KOBE GROOVE CRADLE」の立ち上げにも参加。2009年より副理事長。また、2010年11月に開催された、“持続可能で平和な世界を目指す”ことを目的とした学 生イベント「WorldShift Osaka」にスタッフとして参加したのをきっかけに、2011年12月に開催予定の「WorldShift KOBE」では代表として準備にあたっている。2011年6月に出版された『WorldShift未来を変えるための33のアイデア』では書籍の画像編集 や文章編集などにかかわるほか、フリーランスのデザイナーとしても数々のクリエイションを手がける。

 

 

「無駄な経験なんてない」という気づきが、積極的な活動の原動力に

 

現在、僕が行っている大きな活動は3つ。1つがNPO法人「KOBE GROOVE CRADLE」の副理事長として、大学生、高校生向けのキャリア講座の企画運営を行うこと。2つ目が、2011年12月3日、4日に開催予定の 「WorldShift KOBE」の代表としての活動。そして3つ目が、フリーランスのデザイナーとしての制作活動です。どれも、大学に入ってから携わるようになったものばか り。すべての始まりは、入学早々にとある講師の方に誘っていただいたことがきっかけなんです。

 

言葉は悪いですが、「お祭りに参加すれば単位がもらえる授業がある」というその方の言葉にだまされて(笑)、兵庫県宝塚市の商業ビルの販 売促進を通じて、地域活性を実学で学ぼうという彼の授業に参加しました。地域住民のためのさまざまなイベントを企画したり、地域のお手伝いをするような活 動を、100人ほどの生徒と一体になって取り組んだんです。その後、彼が「KOBE GROOVE CRADLE」というNPO法人を立ち上げることになり、お世話になった彼への恩返しのつもりでスタッフとして参加しました。そのNPOは、“人づくりの ための学校をつくる”ことが目的。設立当初は僕はいちスタッフでしたが、大学2年からは副理事長として、運営全般を任されるようになりました。

 

NPOでの具体的な活動内容は、大学生向けキャリア講座の開講です。大学は高校までと違い、自分でカリキュラムをつくらないといけません よね。しかし、サークルやバイトに気を取られたりして、曖昧な選択をしがちです。もし、早いうちから自分の好きなことが明確になっていれば、授業の選択の 仕方も変わるはずだし、目標に向けた道筋の立て方も違ってくるはず。「大学生活を充実させるためにも、やりたいことや好きなことをわかっておこう」という のが、僕らが考える「キャリアをつくる」ということなんです。そのために、自己分析をしたり、自分の価値観や立ち位置を見極めながら、描ける未来を考えて もらいます。

 

当初は大学生だけが対象でした。そのうちに、「高校生向けにも実施できるのではないか」という話になり、母校に企画書を持ち込んだんで す。すぐに興味を持ってもらえて、単位認定される授業として通年での講座を持つことになりました。さらに、その実績が認められて、ほかのいくつかの高校で も、同様の授業を持つことになったんです。多くの学生に触れてわかったのは、実は高校生の多くは、キャリアにまつわる情報との出合いが少ないということ。 講座をやる意義があるんだと痛感しました。

 

2つ目の活動、「WorldShift」にかかわるようになったきっかけは、僕が高校生とのネットワークを持っていたことによります。 2009年4月に、“持続可能で平和な世界へシフトするためのプラットフォームをつくる”ことを目的に、WorldShift Network Japanという社団法人が立ち上がり、日本でのWorldShiftのムーブメントが始まり、2010年11月にWorldShift Osakaというイベントを開催しました。そこでWorldShift Osakaの代表から、「高校生にこのイベントに来てほしいので集めてほしい」と頼まれたんです。これはチャンスだと思いました。NPOでの活動には満足 していましたが、 “自分が成長している感”が薄くなっている気がしていて、次のステップを模索しているところでした。新しい気持ちで、「教育の仕事をしている寺岡重人」と いう周囲からの印象、壁をぶち破れるかもと思ったんです。

学生ボランティアを募るために、あちこちの高校で全校集会を開いてもらったり、WorldShiftが開催するワークショップの企画を手 伝ったりする以外に、イベントで流す映像の制作などのデザインの仕事も任されました。このとき、本格的にデザインに携わったことが、自分が本当にやりたい ことの発見につながったんです。NPOの活動は、確かに刺激的で楽しいですが、「先輩への恩返し」で始めたことであり、たまたまキャリアを考える時間を提 供することが、僕ができることの一つだっただけ。この時から、僕の第3の活動となるデザイン制作を真剣にやろうという気持ちが強くなりました。今はまだ、 お小遣い稼ぎ程度ですが、友人のために名刺やポスターをつくったり、イベント用に映像をつくったりと、独学で勉強しながら楽しくやっています。

 

こうして、大学1年から今まで、多くのことにかかわりながら、たくさんのことをやってきましたが、大きな転機になった出来事があります。 それは、大学1年の春休みのこと。ちょうど地域活性のワークをしていたときです。

 

春休みに入って参加者が激減し、最終的に先輩と2人きりで、年末から春に かけてのイベント企画を考え、運営することになりました。それまで100人でやっていたことをたった2人でやるわけですから、「何で僕がやってるんだろ う」という気持ちにもなりますよね。激務すぎて、バイトに行く時間がないのでお金もないし、買い物やデートなんてとんでもない。ただ搾取されている気分に なって、極限状態になってしまいました。

 

4月を迎えた時に、これではまずいと思いました。それで、ふと自分の人生を振り返ろうと、「資料」をつくったんです。といっても、A4判 の紙に小さいころからの写真を並べて、「生まれる」とか、「○○に参加した」という出来事と、「こんなことを感じた」というモチベーションのグラフを付け てみたもの。そうすると、気持ちが下がっていてもいずれは上がるし、上がっていてもいずれは下がるという大きな流れが見えてつながりました。その瞬間、し んどい気持ちが吹き飛びました。つらいことにも何か学びがあって、必ず次につながる。無駄な経験なんてないんだという意識になったことで、すべてのことが 楽しめるようになりました。それ以来、僕がなんでも楽しんでやるのを見て、周りの仲間も楽しみながらついてきてくれるようになった気がします。

 

 

学生のうちにたくさんの仲間をつくり、感動体験を共有したい

 

WorldShiftでの経験を通じて、「どうやったら世界を良くすることができるか」を考えるようになりました。中でも、WorldShiftの ロゴをデザインした並河進さんという方との出会いが、僕の将来の方向性を決定づけたんです。彼は広告会社で「社会を良くするためのデザイン」を仕事にして いるのですが、ちょうどモノづくりに興味を持っていた僕は、デザインというクリエイティブを通じて社会貢献ができるということに大きな魅力を感じました。 そして彼の仕事について話を聞くうちに、広告というものが、良くも悪くも今の世界では大きな影響力を持っていることに気づきました。「こんなふうに生きる とかっこいい」「次はこれが流行る」といった、国境を越えた価値観や生き方を提供するによって、人々を取り巻く世界を変えることができます。「良いもの」 をつくっていけば、世界を良くすることにつながるのではないか、そんな “世界を変えるためのコミュニケーション”として、広告を勉強したいと思うようになりました。

 

そして僕のこれまでを振り返ると、「言葉」というものが大きなウエイトを占めていました。どういう言葉を選べば伝わるか、それを常に考え てきたように思います。だから、広告の中でも「言葉」を使った仕事が自分に合うんじゃないか。具体的にはコピーライターを目指したいと思い、広告会社への 就職を決めました。たった一つの言葉で人々の心の中に入り込んでいけるなんて、素敵な仕事ですよね。多くの人を振り向かせるような「面白いもの」をつくる ためには、常に面白いことを考えていないとダメ。だから今は、たくさん本を読んだり、映画を観たり、イベントを考えたりして、多くのことを吸収していると ころです。

 

「世界のために」という視点は大きなものですが、これまでを振り返れば、やはり「誰かのために」という思いが常にモチベーションになって いる気がします。常に、その“誰か”がたくさんいて、僕を支えてくれている。キャリア講座にしてもイベントにしても、わざわざ来てくれる人がいるから成り 立ちます。「その時間を使ってデートすればいいのに」なんて思ってしまいますが、そんな彼らがいるからこそ、僕は頑張れるわけです。僕にとっても、そう やって頑張る時間があるおかげで、僕が僕らしくいられるんだと思います。

 

社会人になったことがないのでわかりませんが、きっと社会人になれば、「○○の寺岡です」といったふうに、何かしらの利害関係のうえで人 と会うことになると思うんです。それで仲間になれれば何も問題はありませんが、学生の時に出会っておくこととは大きな差があるように思います。学生時代の うちにたくさんの人に会っておき、同じ釜の飯を食べたりしながら、一緒に感動体験をする。そうやってたくさんの仲間をつくっておくことが、学生時代にやる べきことなのかなって考えています。そういう意味では僕は本当に恵まれていますし、素敵な仲間に出会えて、幸せです。

 

(就職ジャーナル)

 


毛利友哉さん(慶応義塾大学 SFC 3年生)

 

[Profile]

1989年神奈川県生まれ。大学受験失敗後、浪人時代にある社会起業家と出会ったことがきっかけで、社会起業家という生き方に強い憧れを抱く。大学で社会 起業やビジネスを学びたいと慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)を目指す。入試2カ月前の模試で偏差値37.5という数字を出すが、SFCで学ぶと いう一心で勉強に集中した結果、最後の模試では偏差値70を超え見事合格。大学入学後すぐに、自身の経験に基づいた現在の会社のビジネスアイデアを構想す る。大学1年の9月からは、ビジネスサークルを立ち上げ、代表として40人のメンバーで飲食店経営等を経験するなど、ビジネスの勉強を行う。大学2年秋に は起業を決意。「ドリームゲート Angels Gate」で100社を超えるベンチャーの中から個人で選出されるなど、5つのコンテストで受賞。数十名の経営者などのメンターの支援を受ける中で、10 名の仲間と共に、2011年7月1日に株式会社i-See!を設立。ソーシャルリアルECサイト「Relma」(リルマ)という、リアルショッピングと ECサイトをつなぎ、モノで人と人とをつなぐ、注目のサービスを開始する。

 

 

この事業であれば、きっと社会をもっとよくすることができる

 

大学浪人が決まってから、「自分は何がしたいのだろう」ということをよく考えるようになりました。そんなときに知ったのが、日本ポリグルという会社 の小田兼利会長です。同社は、汚水を飲料水に変える凝縮剤を作って世界の国々を支援している会社なのですが、彼がテレビで「自分の仕事は、ビジネスという 形でお金も頂けて、社会をもっと良くすることができ、世界中の人に感謝と尊敬もされる仕事なんだ」とおっしゃっていたことに、ものすごく感銘を受けた覚え があります。

 

それまでも、「人の役に立ちたい」という想いはありました。僕は舞台をやっていたことがあったのですが、その終演後にいつもいろいろな方 から、涙を流しながら強く手を握って「心から感動したよ。本当にありがとう」というお言葉をかけていただいていました。その言葉は何よりもうれしく、自分 を突き動かすすべての原点となっていたんです。その原点が、小田会長との出会いや自らの振り返りの中で、「“ビジネス”というフィールドであれば、自分の 目の前の1000人の方々に留まらず、世界中の数十億の人々と、あの時の体験を共有することができるかもしれない」という考えにつながり、社会起業家とし て世界中の一人でも多くの人と感動や喜びを共有したいという決意につながりました。そこから、まったく一から進路を考え直したんです。

 

社会起業家は、「社会的問題をビジネスの手法を通じて解決する人」とよく定義されます。でも、それなら世の中の企業に属するすべての構成 員が社会起業家のはず。それに強い違和感を感じ、自分なりに考え、出した答えが「自分の目の前にあるこの事業ならば、社会をもっと良くすることができると いう高い志を持ち、実現に向け試行錯誤を繰り返しながらも実践し続けられる人」こそが、社会起業家なのではないかということでした。こんなふうに考えるよ うになったのも小田会長との出会いがあったからだと、本当に感謝しています。

 

大学入学後に、非常に印象に残った経験があります。大学1年の秋にカンボジアに行き、その際に飛び込みで現地の孤児院を訪問した時のこと です。恥ずかしい話なのですが、現地に行くまでは、自分の中で「貧しい国の人たちに自分が何かしてあげられる事はないか」という気持ちがありました。そん な想いもあり、孤児院を訪問した際には、100人の子どもたちのために服を現地で買っていったのです。しかし、いざ配ろうと思った時に、「今から、裕福な 日本人が僕たちに何かものをくれるよ」という絶対的な雰囲気に、その場全体が包まれていることに気づきました。もちろん、喜んでくれたことはうれしかった んです。ただ、こうやって、誰かが物を与え続けることが、「手を差し伸べていれば、頑張らなくても、物がもらえる」という精神にさせる。誤解を恐れずに言 えば、一種の物乞いにさせてしまう側面があるのではないかということに気づき、猛省しました。その経験から、こちらが何か提供するならば、相手からは1円 でもお金を払ってもらう、少しの労働力でも提供してもらうなどの、何かしらのコミットをしてもらわなければ、物の本当の価値は理解されない。かつ、何より 持続的な関係を構築できないということを、肌で感じたんです。一方的な寄付による非持続的な支援でなく、お互いがハッピーになれる方法、楽しみ楽しませな がら社会をよくする方法を考えないといけない。実は、現在の会社名も、i Save the earth enjoying oneself !の頭文字を取ったもので、そこに由来があります。今まで、どういった形態で自分の夢を実現するのかと考えていた僕に、ビジネスという形態で、踏み出すこ とを決意させてくれた、とても貴重な経験でした。

今、僕たちの会社がやっている事業のビジネスモデルは、そもそもSFCに入学した直後に突然ひらめいたものなんです。僕は、中学の時から ファッションの専門学校に足を運ぶほど、ファッションやショッピングが大好きで、時間があればいつも原宿に買い物に行くような子でした。ただ、お気に入り の一品を購入するまでに、いろんなお店を何時間も見て歩いたり、違うお店の商品と比較するために何度も同じ店を行き来するため、もっと効率よく比較検討で きればいいのにと思っていて。だからといって、簡単だからとネットで服を買うかといえば、手に取って選べる安心感がないので僕は買うことはありませんでし た。

 

そういう、リアルな買い物の“安心感”と、いつでも簡単に買い物ができるECサイトの“利便性”をつなぐものはないのかなと、ふと思った んです。一人のユーザーとして、そんなものがあったらとっても便利だし、ぜひ使いたいなと思いました。そこから、商品タグに付与されたあるバーコードを、 携帯電話を利用して読み取るだけで、自分が一度手にとって安心した商品がネット上のRelmaの買い物かごに自動的にストックされる。そして後から、自分 のお気に入りの商品だけが入った買い物かごを比較検討しながら、ネットで「後買い」できる仕組みを思いついたんです。この方法によってショッピングはもっ と楽で便利なものになる。しかも、これは服だけに限らず、すべての小売店に存在する商品を後買いできる仕組みであり、かつ世界中で通用するビジネスだと 思ったんです。

この事業であれば、社会起業家としての自分の大きな夢を実現できるかもしれない。そう強く思い、行動に移しました。僕は誰かに話すことで 自分の考えを整理していくタイプなので、周りにいる友達や先輩、教授、あとは原宿で買い物客数百人にもアンケートをして、可能性を探っていきました。しか しながら、大学1年の秋に応募したビジネスコンテストでは、書類選考で落とされてしまって。でも何かを変えられるかもしれないという根拠のない自信もあっ たし、何よりそんな理由であきらめるわけにはいかない。足りないのは自分自身で、もっとさまざまな知識をつけなくてはいけないと考えるようになりました。

 

それから、本をひたすら読んで知識を深めたり、何百人もの諸先輩方にお会いしお話をおうかがいしました。セミナーや講演、合宿型コンテス トに積極的に参加してみたり、さまざまな国の現地企業やカンファレンスに足を運んでみたり、40名規模のサークルを立ち上げ、代表として期間限定の飲食店 経営等に挑戦してみたり。とにかく、毎日が勉強でした。

 

そんな中で大学2年生の秋、あらためて自分が構想していた事業を一度本格的に形に落として考えるようになりました。そして今まで夢中に なって毎日昼夜問わずこの事業のことだけを考えてきていた自分自身に、はっと気づきました。この事業であれば世界中の人をハッピーにすることができるかも しれないと自負していましたし、何よりこんなにエキサイティングで楽しくて、「遊び」と「仕事」の境界線がなく夢中になれるものはきっとほかにはない。な らば、「いつかの起業」と先送りにせず、就職の道も選ばず、自分ですぐにでも起業するべきだと心が決まりました。

 

決心した後は、すぐさまさまざまな活動を開始。大学2年秋に、個人で応募した「Angels Gate(前日本銀行総裁の福井俊彦氏をはじめとした大企業経営者二十数名による若手起業家支援プログラム)」では100社以上の中から選出され、ほかに もいくつかのコンテストでも幸運にも受賞できました。同コンテストでメンターになっていただいた大手保険会社社長の方を含め、数十名程の経営者などの方々 にメンター、アドバイザーとして事業のご協力、応援をしていただけたほか、幸いなことに、6社ほどからの出資の打診もいただけました。仲間にも大変恵ま れ、何もできない自分を、本当に心強く支えてくれる10名程のメンバーで、現在活動を進めているところです。

 

この上なく尊敬する支援者の方々や仲間たちの存在には、本当に言葉にならないほど感謝していますし、自分もそれに報いるために、ただただ精一杯、結果で示せるよう頑張っていきたいと思っています。

 

 

失敗も成功もすべて共有することが、すべての人への誠意と感謝

 

株式会社i-See!の設立は、2011年7月1日。僕が大学1年で考えたアイデアは、ソーシャルリアルECサイト「Relma」というサービスと なって本格的に動き出しました。「後買い」の事業だけでなく、自分の気になっている商品を友人と共有でき、モノを通じた人と人とのコミュニケーションを生 みだす、ソーシャルコマース(ソーシャルショッピング)事業もRelma上でスタートします。Relmaにおける後買い事業とソーシャルコマース事業で、 「ショッピングをもっと楽に、もっと楽しく」することがミッションです。

 

僕は、「Relma」というサービスは、自分にとって「磁石」のようなものだと思っています。僕が「Relma」に情熱を注げば注ぐほ ど、また、時間をかければかけるほど、磁力がどんどん強くなるイメージで、Relmaを通して実にさまざまな人やモノやコトと出会うことができました。例 えば、仲間にしても、支援してくださる方々にしても、まだ頂戴はできていませんが「ありがとう」のお言葉も、たくさんの失敗も、自分とそのものの間に、 Relmaという磁石がなければ決して出会えることはありません。この磁石はその人に応じて何でも良くて、それは野球かもしれないし、料理かもしれない し、勉強かもしれない。ただ、自分が精一杯情熱を注ぐ対象である「何か」と出合えたことが、自分にとってはとても幸せで、そういった意味で、Relmaに は、とても感謝をしているんです。

今まで支援、応援してくださった方々には、その強い感謝の想いから、僕はいつも「必ず何か恩返しできるように頑張ります」と言っていまし た。しかし、そんな僕に対して皆さんが同じことをおっしゃってくださるんです。

 

「私にではなく、次の世代、特にこれから起業しようと思っている若者たち に、将来返してあげてね」と。お世話になった方々にそのまま返してしまっては、支援の輪は双方向の関係の中だけで途切れてしまいます。しかし、次の世代に つなげていくことで、支援の輪は永遠に続いていく。とても素敵な考え方ですよね。だから、これまでに返しきれないほど注いでいただいた愛を、成功しても失 敗しても、僕なりに後の世代には還元すると決めているんです。これからもただただ精進していくこと、そこで少しでも自分が学べたことがあればすべてシェア すること。それこそが、すべての人に対する自分ができる最大の誠意と感謝だと思っています。

 

僕は、何かを始めるときには、3つの段階があるんじゃないかなと思っています。1つ目は「思いつくこと」。2つ目は、それを「始めてみる こと」。そして3つ目は、それを「やり続けること」。やり続けるからこそ、持続的に相互に豊かな関係性を作ることができると思っています。そして、それを やめてしまった途端、その素晴らしい関係性は途切れ、迷惑すらかけてしまうことになってしまいます。

 

一度始めたら、やり続ける。持続的な関係性を作れるように努力する。届けたい人、一人ひとりが笑う顔を想像しながら、「高い志」を持って、何度転んでも事業に取り組む。社会をもっと良くすることができると信じ、一生をかけてでも、楽しみながら、自分はそれをやり続けます。

 

(就職ジャーナル)

 


中村知裕さん(早稲田大学 政治経済学部 2年生)

 

1991年東京都生まれ。生まれてすぐに、父親の仕事の関係でシンガポールに。6年間で英語、中国語、日本語を習得した後、日本に戻る。高校1年の時に父 親が単身赴任していたイギリスに遊びに行き、現地で自分の英語がまったく通じないことにショックを受ける。さらに3年後、猛勉強した末に再度イギリスを訪 れるも、やっぱり言葉が通じないことに絶望感を抱く。同様に帰国してからの語学力低下に悩みを抱える帰国子女が多いことを知る。 また、日本人の英語力が上がれば、日本人の海外への発言力が高まり、日本の活性化につながるのではないか、と考えるように。そこで、日本人の英語力向上の ために事業を立ち上げようと決意。2011年4月、学習塾、家庭教師、翻訳の3つのサービスを柱にしたバイリンガル・アカデミーを立ち上げる。

 

 

みんなが英語を話せれば、日本はもっと活性化するはず!

 

生まれてすぐ、父親の仕事の関係でシンガポールに引っ越しました。家族とは日本語で話していましたが、基本的には英語中心の生活。通っていた幼稚園 では、中国語も使っていました。シンガポールはいろいろな人種がいる国ですから、たくさんの言葉を知っていないとコミュニケーションがとれません。強制的 に話す機会があったため、気がついたら言葉を覚えていたという感じでした。

 

6歳で日本に戻ってからは、日本語がわからなくて苦労しました。僕にとっての日本語は、「主語と述語と…」なんて考えながら使う、言って みれば外国語のような感覚。よく覚えているのは、友達が「先生、トイレ」と言った時に、僕が大爆笑したというエピソードです。「先生はトイレじゃないだろ う」と言ったら、ものすごく怒られました。僕としては、「先生、私はトイレに行きたいです」って何で言わないのかなと思ったんです。そんなふうに、みんな が何気なく使う日本語がなかなか理解できませんでした。

 

英語には絶対的な自信があったものの、さすがに日本語の生活に慣れてくるうちに、日常生活ではほとんど使わなくなりました。それでも小学 生のころは英語塾に通い、中学に入ってからも授業で使う単語は知っているものばかり。先生が言っていることはほとんど理解できたので、授業という意味では まったく苦労はしませんでしたね。

 

そんな状況が一転したのが、高校1年で行ったイギリスへの旅行。現地の人が、何を言っているのかが理解できず、僕の英語もまったく通じな かったんです。ショックだったのが、日本にもある大手のハンバーガーショップでの注文すらできなかったこと。本当に泣きそうになりました。今まで僕は何を 勉強していたんだろうって。

だから、「もっと勉強して、いい成績を取ろう」と考えました。学校の授業も必死に受けましたし、大学受験の際には、これまで以上に難しい 文法や単語なども覚えました。ところが、大学1年で再びイギリスに行った時に、何も状況が変わっていなかったんです。今度は本当にショックでした。しか も、現地で英会話を教わったのですが、いざ話してみると、そもそも僕が使っている言葉は日常会話では使わないものばかりだと言われたんです。例えば、「遊 ぼうよ」と言う際、ほとんどの日本人は、習った通りに「Let’s play」と言うと思います。でも、海外では「Hang out」が当たり前。そんなこと、学校では習わなかった。どれだけ僕が頑張って単語を覚えても、それは実用的な英語ではないから通じないんだと知って、絶 望的な気持ちになりました。

 

帰国子女の友人たちにこの経験を話してみると、授業で習う英語と英会話は別だと、皆が口をそろえて言うのです。また、日本に帰国してから 英語力が落ちたことを悩んでいる人が多いことがわかりました。「自分だけじゃないんだ」とホッとしたのと同時に、これは改善すべき問題ではないかと思いま した。また、ちょうど同じころ、テレビでイギリス人が日本人の英語について話しているのを聞いたんです。「日本人は話せば結構面白いことを言うのに、そも そも話すのが苦手」「仕事を一生懸命やるけれど、英語がしゃべれないので事務作業をやりたがる人が多い」という内容。それ以来、「日本中の人がもっと英語 をしゃべれるようになったらいいのにな」という気持ちが大きくなったんです。

 

そうなれば、もっと日本が活性化するんじゃないか。日本人同士でしか共有できていない面白いアイデアを、世界中の人に知ってもらうことが できるんじゃないか。そして、例えば日本語がわからなくて困っている外国人を助ける人が増えたら、日本はもっといい国になるんじゃないか。そんなふうに考 えていたら、すごく楽しくなりました。

 

そのことを友人に話したところ、起業を勧められたんです。「サークルではなく、ビジネスとして責任を持ってサービスを提供してみては」と言われた時に、「そんな考えがあったか」と、新たな発見をした気分になりましたね。そして面白そうだと思いました。

 

実は僕は、活発な人間ではありません。どちらかというと内向的で、常に物事を批判的に見て、冷めた態度を取りがちです。人前に出るのは嫌 いだし、何かをやるとしても副部長くらいのポジションでサポートするタイプ。起業についても、目立ちたがり屋が勢いでやること、くらいのイメージだったん です。そんな自分の性格が嫌で、変えたいと思っていました。だから、起業のチャンスが目の前に現れた時に、「この性格を変えるチャンスかもしれない」と 思った。学生だから失敗しても何とかなるという気持ちもありましたし、刺激的な経験が、いずれ社会に出るときに何かしら役立つのではないかとも思いました。

 

もう一つ、起業に対して前向きになれた大きな理由があります。それは、僕が将来は政治家になりたいと思っていたことです。今の僕が何不自 由なく教育を受けられて、大学にも通えるのは、この国のシステムのおかげ。もっといい日本にして、僕らの子孫が暮らしやすい環境をつくりたいという気持ち がありました。起業という方法で世の中に課題を突きつけることは、僕のこの夢につながるのではないかと思ったんです。

 

 

起業したことで今後の人生の選択肢が広がった

 

起業するにあたり、帰国子女やインターナショナルスクールで学んだ友人を集めて、日本人が英語をしゃべれない理由について話し合いました。帰国子女 たちが英語を使う機会を増やすという課題と併せて、「英会話スクールを作る」という事業の方向性はわりとすぐに定まりましたね。学習塾と家庭教師、翻訳と いう3つの柱で事業を展開。そして、いずれは学校を作るという目標を立て、逆算して事業計画を立てました。

 

バイリンガル・アカデミーの設立は2011年4月20日。4歳の子どもから中高生を中心に生徒が約10人、講師として約30人の帰国子女 が集まりました。塾も家庭教師も、基本的に1対1の授業を実施。無理矢理でも英語を使う機会を作り、わからなければ日本語でアドバイスします。

 

始めてみて、「実は同じことを課題に感じていた」と共感してくれる仲間が意外と多いことに気づき、あらためて「やって良かった」と思いま した。ただ、なかなか広まらないもどかしさも感じています。そういう意味で「社会って広いなあ」と痛感。起業することで、「社会」というものが何なのかわ かると思ったのですが、余計にわからなくなりました。すべてが手探りの状態、不安がないと言えば嘘になります。

 

ただ、この事業は続ける価値があると確信しています。もしかしたら僕がやり続けなくてもいいのかもしれません。同じ課題感を持つ誰かに譲 る方法もあるでしょう。違う会社で働いた後に、バイリンガル・アカデミーに戻ってくる方法もあるかもしれない。もちろん、僕の手で大きくするんだという気 持ちもあります。ただ、たとえ僕が抜けたとしても、衰退することはないと思っていますし、同じ志を持っている仲間がトップに立つと思います。とにかく、卒 業後についてはまだ決められていません。

 

一つ言えるのは、起業を経験したことで、自分自身の今後の人生を考えるうえでの選択肢が増えたということ。例えば、小さい組織で責任を与 えられながらやりがいを大切に働く醍醐味を知ったことで、企業名や仕事の派手さだけにとらわれない、仕事選びの視点が持てるようになりました。また、やり たいことに挑戦した結果がダメでも、もう一度挑戦すればいいという考えになった。「僕が自由に選べるんだ」と気づけたのは、とても大きかったと思います。

 

授業を受けている時も、ただレポートを書くのに必要な勉強をするのではなく、例えば本をたくさん読んでみて、レポート以外のことにも役立 てられないかという姿勢で勉強するようになりました。「何かに生かせるかもしれない精神」で取り組むことで、いろいろな学問が自分の中で密になっています。学生生活が充実していて、毎日が楽しいですね。

 

(就職ジャーナルより)

 


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