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2011/08/26

そもそも「お金」とは何か その2

 国がお金を管理する制度を通貨管理制度といいます。ではお金は絶対で本当に客観的なものなのか。自然なものなのでしょうか。何か裏づけがあるというのでしょうか。実際お金の価値は常に変動しています。国の中でも、インフレデフレによってお金の価値は上下します。バブル時代は土地の値段は限りなく上がっていき、お金の価値はどんどん下がっていきましたし、今のようなデフレの時代では、お金の価値は高いといえます。
 世界全体を見渡してみれば、1949年単一為替(かわせ)レートが設定され、円はドルとリンクし、1ドル360円ということに決められ、固定されました。それが今は変動相場制となりました。他国の通貨とどんな比率で交換するのか、その都度通貨の需要供給の関係に任せ、自由に決めることが出来る制度です。今現在大体1ドル77円ほどです。
 まあでもそれが本当に市場原理によって起きているかどうかは疑問な点もありますが、国の力をある程度反映していることは間違いなく、国力によって、お金の「使いで」も決まってくるとは言えそうです。またお金が紙になってからというもの世界中の経済活動が飛躍的に大きくなったとも言われています。しかし兌換紙幣から不換紙幣に移り変わったことは果たして進化したことだといえるのでしょうか。
 たとえばドルを印刷している連邦準備銀行。世界の基軸通貨は極端に言えば個人が印刷を自由に操る権限を持っています。アメリカの資金供給や金利を統制することによって、世界経済全体を操作しているFRB(連邦準備制度理事会)は実はアメリカの国立銀行ではなく、民間の大銀行がトラストを組んだものです。それに尽力したロスチャイルドは当時、「FRBを支配することができれば、アメリカ国家を簡単にコントロールできる」と言っていたといいます。(見えざる世界政府・ロックフェラー帝国の陰謀 ゲイリー・アレン著高橋良典・訳  自由国民社)今は全てのものがお金とリンクさせられ、お金を尺度として物事の価値が決められます。しかし紙としてのお金がどんどん「自然」とかけ離れていくことによってどんどん空中に浮いてしまっています。そしてお金が全てを食い尽くそうとしているのです。紙が戦争を誘発し、貧困と恐怖を撒き散らすということの恐ろしさ。そのお金がある特定の人たちによって牛耳られているとしたら。実際極端に言えば「個人」によって恣意的に管理されているのです。これに異議を唱える人のほうが多数であることは間違いありませんが、少なくても国立でないことは間違いありません。そしてお金に魅入られた人たちは際限も無くお金を求めていきます。
 これは個人の意思というよりはお金の持つ魔力なのかもしれません。お金というものがそのように人間を動かすものなのかもしれません。昨日引用した養老孟は「一番大事なこと」のなかで以下のような話を展開しています。
「経済と環境は対立する。そういう図式が長年にわたって存在した。これは経済性ということについての誤解にすぎない。私はそう思っている。側溝という、右の単純な例でも、それは明らかであろう。経済性を考えると称して、余計なことをするのである。「要りもしない」工事をすることの、どこが「経済的」か。いわゆる環境派は、それを指摘しているにすぎない。さらにいうなら、せっかくつくった側溝を取り外すほうが、経済的かもしれないのである。
 専門家は経済を経済統計としてみるであろう。金がどこからどこでどう動いたか。しかしお金の動きがいかにつじつまが合ったとしても、自然を勘定にいれると、つじつまが合わなくなることは、多々あるはずである。ところが経済学者はいわゆる文科系だから、自然が苦手である。簡単な例で説明する。経済統計は要するに花見酒の経済なのである。八つぁんと熊さんが樽酒を二人で担いでいる。八つぁんが手持ちの十文を熊さんに渡して、酒を一杯飲ませろという。熊さんがいいよ、という。次に熊さんが、八つぁんからもらった十文を八つぁんに渡して、おれにも一杯飲ませろという。これを続けると、樽酒がいずれなくなる。経済統計はしかし、それでつじつまが合っている。収入と支出の釣り合いは、みごとにとれているからである。自然と経済の関係は、これなのである。そんなことは、江戸時代の人だってよくわかっていたから、落語になっているのである。
環境を問題にする人たちは、樽酒の量を問題にしている。だから「自然が失われる」という。経済を問題にする人たちは、金のやりとりを問題にしている。環境を守れというと、経済はどうでもいいのか、という反論が生じる。これは問題を取り違えているための誤解である。
 お金は数字であり、紙である。それが実体ではないことは、だれでも知っている。経済活動には、その意味で虚と実がある。花見酒でいうなら、十文のやりとりは虚で、酒が減るのと、八と熊の二人が酔っぱらうのが実である。極端に単純化するなら、経済とは十文のやりとりを指し、酒の減少とは資源のことであり、八と熊が酔っぱらうことは人が生きることである。つまりグローバル化した経済とは、地球規模の花見酒である。
 虚の経済とは、だれが金を使う権利があるかという問題である。金持ちとは、金を使う権利をもつ人である。それは人間社会のなかのことで、本来は自然とは関係がない。ところがものを食べるとか、石油に代表されるエネルギーを消費することは、自然に直接の関わりがある。高度経済成長、つまり皆が金持ちになろうと思えば、他人から金を取り上げるか、まったく別なところからとってくるしかない。その「別なところ」が自然だったのである。
 それならお金には、自然という限度がはじめから置かれている。その限度を超えてお金を発行してみても、俺は金持ちだと威張る以外の意味はない。そこがわかっていたから、以前お金は免換券だった。国がお金を発行するなら、一定量の金をそれに応じて蓄える。それが金本位制である。金という自然の存在が、紙幣の発行限度を決めていた。いまはそれがない。ということは、お金と自然の関係が原理的に切れてしまったのである。そこに経済と環境が対立すると思われるようになった遠因があると私は思う。自然との関係をなくしたお金は「宙に浮く」のである。
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  そうなっても、お金は人間社会のなかでは、相変わらず強い意味をもつ。社会は脳がつくったもの、約束事だからである。お金があれば、自分のところにモノとサービスを集められる。いまアメリカ国内にあるドルの十倍のドルの現金が世界を回っているという。その分のドルに対して、アメリカは紙幣の紙代と印刷費以外に、支出をする必要がない。アメリカが妙に金持ちなのは、一部であれ、これと関係があるに違いない。国外にそのドルを出したとき、なんらかのモノかサービスを、その分だけ国外から受け取っているからである。このお金には、べつに裏付けはない。考えようによっては、ただの紙切れである。その紙切れがアメリカに帰ってくるまでは、アメリカはモノやサービスを、国外にいっさい提供しないですむ。ニクソン時代に免換券を廃止したことと、これと関係があることは間違いあるまい。アメリカ人は知恵者なのである。悪くいえば詐欺師である。」