「人権と報道関西の会」例会が八月五日、大阪市北区のプロボノセンターで開かれた。今回は、女性五人が被害にあったとされる「大阪・奈良連続女性殺人事件」の報道をテーマに選び、参加者が相互に問題点を提起し、検討する方式で活発な議論を展開した。出席者は約十人で、実際に同事件を担当している弁護士や新聞記者らがそれそれの立場で犯罪報道の在り方を検証した。 (文責・彦坂)
事件の概要
大阪市中央区の倉庫で衣類を盗んだとして今年二月に窃盗容疑で逮捕された男性が、一九八五年に奈良県で発見されたバラバラ遺体など四件の殺人事件との「接点」があったことが分かったという五月十日付け読売新聞の報道に始まる。「接点」の根処は、八五年の事件の半年後に奈良県警に送られてきた犯人からとみられる「挑戦状」に残された指紋と男性の指紋の一部が一致したことと、被害者の女性二人が男性の住む西成区内の飲食店などで働き、男性もその店に出入りしていたこと。また、九歳の被害者の遺体遺棄現場に男性が土地力ンがあることなどが挙げられた。さらに、「四人殺害を自供」「五人目の殺害も自供」 「五人目の被害者のものとみられる人骨を自供に基づき発見」などの報道が続いた。
この事件は窃盗容疑で逮捕された被疑者が、殺人事件の被疑者として再逮捕され、少女を含む五人の女性を殺害し、バラハラにして山中に捨てたと「自供」したとされるもの。「接点」の浮上から、「自供」→「再逮捕」、「余罪追及」→「余罪も自供」→「自供通りの遺体発見」と、被疑者の犯行が「疑いのない事実」として報道され、「凶悪事件解決」と結論付けられている典型的な犯罪報道の経緯に次の疑問を提示することで討論を始めた。「五人殺害」事件が解決したような印象だが、例会時点で起訴は三件(八月二十八日では四件)に過ぎない。「捜査当局から嫌疑をかけられている」という事実と「事件が解決した」という事実には大きな開きがあるのではないか?。その上で、次の三点が検討課題として提起された。
これについて、被疑者の担当弁謹士は「被疑者は少なくとも一件については犯行を認める自供はしていないと言っている」とし、次のように報告した。
被疑者は「窃盗容疑で拘留中に捜査官の一人から殴られたり小便をかけられるなどの暴行を受けた」といい、「殺人に容疑が切り替わってからは、その捜査官は担当をはずれたが、いつ戻ってくるか分からず恐ろしい」と訴えている。そうした事態について記者会見で訴えたがその言い分を書いた新聞はなかった。被疑者は既に窃盗では前科があり、十年前の「挑戦状」に残された指紋がなぜ、今頃、突如一致」したのかに疑問がある。報道にあるように「すし屋に一緒に行った」ことや、切断の特徴が克明に記載された重要な手掛かりに残された指紋であるなら、今まで見過ごされていた理由は何なのか。捜査上のなんらか過誤があったと推定できる。また、新聞や週刊誌で、「被疑者に元妻から目供を促す手紙が届き、それで反省してしゃべった」という話が取り上げられているが、被疑者は「そういう手紙は見ていない」と言っており、自供に至る経緯は決して単純ではない。被疑者は現在、警察に拘留中で「拘置所に行ってから話す」ということも言っている。こういう経緯を考えれば、公判になったから殺人などすべての容疑について否認する可能性もある。その時、これまでの報道に接して釆た人は「死刑が怖いので供述を翻した」と解釈するだろう。また、報道の卜ーンもそうなるのではないか。しかし、被疑者の言い分を公平にフォローしていれば、初めから否認の可能性の高い事件であったことが理解でると思う。「犯行を見とめる自供」が得られたという報道で、社会的には解決したように取られるが、実際にはそれが本当かどうかの検証の始まりのはずだ。
ジレンマの原因は
「客観報道主義」?
一方、取材に当たった新聞記者は、「報道する側のジレンマもある」と次のように指摘した。犯罪報道で伝えられる事実は、自分の目で確かめることと、伝聞情報の汲み合わせである。大阪の愛犬家連続殺人事件の被疑者には、逮捕の前に会って話を聞くことができた。大阪・奈良連続殺人事件では会うことができず、被疑者の話も捜査当局からにせよ、弁護士を通じるにせよ伝聞が中心になった。遺体の遺棄現場がどのようであったとか、遺棄現場を結ぶ道路がどのように続いているかなどは自分でみることができたが、「指紋が一致した」とか「血痕と被害者の血液型が同じだった」などの情報は自分で確認できるものではなく、当然、伝聞になる。現状ではそれを積み重ねて記事にする他に道がない。また犯罪報道に関する一般論として、「被害者」の家族などに話を聞くことも多く、残された者の悲しみをどのように表現するのかを考えれば、そうした犯罪を許してはならない、という感情が大きいのは確かだ」と述べた。これには、参加者から「記者が収集した情報を、基本的に客観的な事実として報道することを原則としている『客観報道主義』にジレンマの原因があるのではないか」との意見が出た。ある事実を客観的に報道する体裁を整えるために、現行の紙面では取材者の主観は隠蔽され、どこまでを取材者が自分で見聞し、どれを捜査当局者が話したのか分からなくなっていると指摘。記者が署名して文責を明らかにしていれば「私は見た」「○○は語った」「こうした犯罪は許せないと私は思う」と明確化できると提案した。担当弁護士は、被害者の悲しみを思うことが、被疑者にその悲しみや恨みを集中することにつながっている。テレビや映画の犯罪では犯人は分かっているが、現実の事件では、捜査当局の逮捕時点では何もまだ分かっていないことを強調したい」と犯罪報道の現状への反発を強調した。
最後に「公共の福祉に利する」とみなされて免責されている「被疑者のプライバシ-の暴露」について「関西の会」会員弁護士から「大きな人権問題であり、被疑者が実名で報道されることと合わせて、本来、無罪推定を受けている被告人の段階で、『被害者の悲しみと恨み』を一身に集中して受ける立場になる構造を補強している」との見解が示された。
発言者には進行中の事件の公判や報道に携わっている関係者があり、筆者の判断で匿名にした。
近代社会では、報道の役割と内容に付き大なリ小なり誰でも関心を抱くのは、極めて普通の実情であろう。特に、日本は、典型的な一近代国家であるから、テレビやラジオや新聞を通じて多数の報道機関が日々の出来事を多種多様に報道しているので、一般の日常生活にも深く関連し且つ大いに役立っている事も事実だろう。ただ、問題なのは、報道内容に偏見や過失があるとして批判対象となる事例が時々ある事である。しかし、誰でも自己の行為[特に瞬間的行為]には主観または思い込み及び過失の有る事は不可避だろう。例えば、プロ野球の巨人・阪神の試合を放映中に阪神投手の微妙な投球を審判がス卜ライクと判定した場合、放映担当者が巨人ファンならば疑問を抱いて視聴者に参考用の再放映しても、放映担当者が阪神ファンならば敢えて再放映しないかも知れない。そこで大切な事は、少なくとも主観または偏見や過失に気付いた時点で、報道機関は公正に「国民の知る権利」に資する為に善意で以て最低限度の即時処置や事後処置を必ず履行する事が、普遍的に必須ではなかろうか。 (山下)
会員からの投稿
★今まで、気にもせず見ていた新聞テレビで「アレ!」と思ったのが、サリンの時である。平和な国に、突如としておこった大事件。連日の報道にもかかわらず、国や警察の公式発表が、ほとんど目に人らず、オウム側の会見ばかりであった。 日常生活に不安を感じる国民にとって、発表出きる範囲内での中間報告を待っていた人が多かったはず。それなのに、オウムの会見ばかり。何か変だ。アメリカだと、事件に関して大統領と記者のやリとりが放映され、視聴率も高いと聞く。日本でもぜひやって頂きたい。ニュ-スを、正しく伝えると同時に、担当記者が現場で見て感じた、その人なりの思いの入った記事が、あっても良いのではないか。関係者の反論も受け入れ、記者自身が責任を持って書く記事。少しずつでも良い。変わっていってほしいと願う。(伊)
★毎日、神戸に通勤しています。日に日に街の復旧が進んでいるのがわかりすが、その一方で進んでいる一人一人の個別の問題はどうも軽視されているような気がします。メディアも関心はオウム事件に移っている。行政も地震については「自助努力」を打ち出し始めています。もっと人の生き様、人々の声に真剣に耳を傾ける時代を作っていかねば・・(S)
気になるナ、こんな記事!
大阪市東住吉区で七月に小六女子児童が自宅で焼死した事件で、府警は九月一○日、三一歳の実母と、そのパー卜ナーにあたる男性を殺人などの疑いで逮捕した。その後の数日間にわたる新聞報道を読んで、読者の一人として感じたことを述べてみたい(対象は全国紙四紙と日経新聞)十一日付の第一報。朝日と日経は社会面のみの扱いだが、残りの三紙は一面と社会面で詳報。各紙によると、二人は保険金目当ての犯行だったと供述している。もちろん「当局調べ」というクレジッ卜のついた報道に過ぎず、「両者の言い分」をふまえた記事ではないだろう。「実母による娘の放火殺人」が事実ならば、確かにこれショッキングな事件だ。だが現段階では、公判における事件の「検証」は始まってすらいない。それにも関わらず「小六娘を放火殺人」(一一付産経一面)保険金狙い放火、長女殺す」(同日付日経)などと、センセーショナルな見だしが連日、紙面を飾っている。適正な手続を経ていない段階で犯人視する報道がまたもや繰り返され、何だか釈然としない思いが残るのだ。
容疑者糾弾が紙面の第一義ではない
本来、事件報道はどうあるべきなのか? 原則論に立ち返って言えば、事件の社会的な背景の考察にあるはずだ。諭ずるに足りない事件を無理して記事にするべきなのか? 少なくとも「現場に花たむけ 葬儀も平然と営む」(一一付産経社会面)などと、容疑者たちを紙面上でとがめることが第一義ではないはずだ。
また全紙が被害者の写真を、日経をのぞく四紙が容疑者二人の写真を掲載していた。とりわけ被疑者の写真掲載は問題にはならないのか? もっと淡々と報道できないものか?この事件について二○代の友人数人と雑談して感じたことだが、若い読者はこの手の事件にあまり関心を示さない。「現状の事件報道のありようは読者の関心、意識の反映」という新聞関係者の発言が聞こえてきそうだが、若い人のこうした傾向をどう考えたらよいのだろう?事件報道のあり方を考えるにつけて、新聞各社の悪しき「横並び意識」を感じる。取材競争は、必ずしも情報の多様化をもたらすとは思えないのだ。(田仲)
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