はじめに

 平成一九年一二月に出た、保谷徹氏の『戦争の日本史Q・戊辰戦争』を読みました。これまで誰も踏み込めずにいた戊辰戦争の兵站について、かなり興味深い記述が随所に盛り込まれています。
 本書は概説書であり、食い足りない思いがありましたが、少ない紙幅で戊辰戦争全般を説明する企画なので、それはやむをえないことでしょう。また、これだけ大きなテーマについての調査研究ですから検証不足な部分も見受けられます。たとえば、これから私が論じようとする旧会津領での遺体放置問題については、
  会津兵の死体を埋葬することを禁じ、「賊兵」の死体は
  そのまま荒野で朽ちていったという(今井昭彦)。
というように、今井氏の論を引いたままです。
 この今井氏の著作といえば平成一七年一二月に東洋書林から出た『近代日本と戦死者祭祀』が思い浮かびます。この本は孫引きが多すぎるので信頼すべき文献ではないというのが私の評価ですが、それについてはひとまず置いておきます。問題としたいのは、新政府が旧会津藩士の戦死遺体の埋葬を禁じたとする根拠として掲げている「明治戊辰戰役殉難之霊奉祀の由來」の読み方についてです。
  時ニ官命ハ彼我ノ戰死者一切ニ對シテ決シテ何等ノ處置
  ヲモ為ス可カラズ若シ之レヲ敢テ為ス者アレバ嚴罰スト
  云フニテアリキ
 このように、遺体に触れることが禁じられたと、たしかに書かれていますが、その対象は「彼我ノ戰死者一切」です。 
保谷徹 『戦争の日本史18 戊辰戦争』吉川弘文館 ISBN978-4-642-06328-9  
 この彼我のうち「我」が会津藩兵であれば、「彼」と呼ぶのは新政府軍の兵士のはずです。それを今井氏は「彼我」のどちらもが会津兵だと解釈しているようです。苟(いやしく)も軍事史に携わる研究者として、ありえないほどの珍解釈です。
 この「明治戊辰戰役殉難之霊奉祀の由來」は、まず遺体埋葬に尽力した町野主水が後日談として石川寅次に語り、町野の没後になってから高野磐美が石川から聞き書きして成立しました。もとが当時の記録ではない後日談で、しかも伝聞ですから内容の正確さは期待しがたいものです。それを今井氏は珍解釈によって更に歪めてしまっています。
 それに対し『会津若松市史』では、遺体埋葬禁止令の存在を疑問視したうえで、「彼」を新政府軍と解釈しています。市史七巻の『会津の幕末維新―京都守護職から会津戦争―』六九頁にある前田宣裕氏のコラム「埋葬」で、次のように記されていることから、それがわかります。
  一説によると「彼我ノ戦死者ニ対シテ何等ノ処置ヲモ為
  ス可カラズ」との官命が下っていた、という。事実とす
  ればこれは敗者への差別ではなく、死者の身元を確認す
  るまでの一時的な措置と思われる。
 私はこれが、会津から発信された情報だということに感動しました。いまや「定説」となった歴史認識を被害を受けた会津の人が否定して実態に近づけようとしているのですから。
 ただし、それだけのことで定説は覆せないとも思います。山野に遺体が放置されたことまでも否定は出来ないからです。なぜ遺体は埋葬されなかったのか?
 それが命令によらないとしたら、別に理由があるはずです。これから私が論じるのは、その理由についてです。 
会津若松市史
語り継がれなかった逸話

 会津藩士の戦死遺体が放置された実例としては、飯盛山で自刃した白虎隊の一九人のことが、よく引き合いに出されますので、白虎隊伝記のルーツを探ってみました。
 数ある白虎隊伝記のなかでも、私が知るかぎり最古の書籍は『繪入 白虎隊勇士列傳』です。福島県平民・二瓶由民と名乗る人による私家版小冊子で、明治二三年の刊行です。この本は近代デジタルライブラリーに収録されていますので、面倒な手続きなしにクリックするだけでインターネットから誰でも閲覧できます。
 白虎隊の存在を広く世に広めたという意味においては、平石弁蔵の『會津戊辰戰争』増補版の影響が大きいと思います。この二つの伝記は、どちらも白虎隊を顕彰しようとする同じ編集方針でありながら、内容に違いがあります。
 西川勝太郎が自害する直前、農民を呼び止めたという逸話が『列傳』にはあって、『戰争』にはないのです。
 その部分を引用します。
  西川勝太郎衆の撰に應し介借を畢り自殺せんとして左右
  を顧るに山下を過る農民あり之を問へは瀧沢の者なり勝
  太郎之を招き囑して曰く我輩の死骸深く山中に埋め敵に
  首級を得せしむること勿れ幸に我輩皆金銀若干あり汝ち
  大小刀と併せて之を取れ是れ報酬なりと言訖て自ら銃死
  せり然るに此農民甚しき惡漢にして各士の金嚢及ひ大小
  刀上着等を掠奪し而して屍を棄てゝ埋めす翌日牛ヶ墓の
  村長吉田伊總次偶々吾か墓所に詣り十六少年の死骸を見
  て深く之を愍み死骸を收めて之を同村妙國寺内に假葬し 
近代デジタルライブラリー『白虎隊勇士列伝』 
  翌年六月之を發き其枯骨を拾ひて飯盛山に改葬し石碑を
  建つ其後伊總次は民政局より金員を賜はり其仁心を賞せ
  られ又勝太郎の囑託を受けし惡漢は翌年の六月某夜山路
  を行く時岩石忽然と墜ち為めに頭腦を圧傷し醫を諸所に
  乞ふと雖とも皆某か所為を憎み終いに一人の往きて療す
  る者なく数日苦惱發狂し嗟々虎來りて我を噛む虎來りて
  我を噛むと叫喚して死せりと云ふ嗚呼天の仁に與みして
  不仁を惡む是以知る可きなり
 改行の位置は原本に合わせておきました。御不審な点がもしありましたら原本を御覧ください。
 白虎隊勇士の遺体から金品を剥ぎとり、埋葬せずに放置した「悪漢」が登場します。また、遺体を埋葬した吉田について民政局から賞せられたとされていることが目を引きます。吉田は遺体を許可無く埋葬したことを理由に罰せられたというのが、現在では定説となっているからです。こう見ていくと遺体埋葬禁止令の存在は、いよいよ疑わしく思えます。
 実をいうと新政府は遺体埋葬を命令しています。十月四日に命令が伝達されていることも『会津若松史』六巻に記載されています。その根拠は村役人が書き残した「御用留」という帳面に記載された内容です。この「御用留」がどのようなものであるかは、あとで詳しく述べます。

離れていた民衆の心

 埋葬が命じられながら、なぜ遺体は放置されたのでしょうか? その理由はいくつかあります。そのことを大づかみに説明しましょう。 
 まず、最も理解しやすい要素は降雪です。ちょうど雪が降り始める時期に埋葬命令が伝達されています。遺体は雪に埋もれ、土が凍れば掘ることも困難になったでしょう。
 そして、一揆が発生したことも見逃せません。「ヤーヤー一揆」あるいは「会津世直し一揆」とも呼ばれる大騒動は、一〇月上旬に始まって一二月初旬まで続きました。
 さらに考慮すべきは、会津士族と、それ以外の階層の人々の関係性についてです。私は、この問題が最も重要ではないかと考えているところです。
 両軍の負傷者救護のため、会津若松に赴いた英国人医師のウィリアム・ウィリスは、英国公使館にあてた報告書のなかで、松平容保が東京に護送される様子について伝えています。
  いたるところで、人々は冷淡な無関心をよそおい、すぐ
  そばの畠で働いている農夫たちでさえも、往年の誉れの
  高い会津侯が国を出て行くところを振り返って見ようと
  もしないのである。武士階級のほかには、私は会津侯に
  たいしても行動を共にした家老たちにたいしても、憐憫
  の情をすこしも見出すことができなかった。一般的な世
  評としては、会津侯らが起こさずもがなの残忍な戦争を
  惹起した上、敗北の際に切腹もしなかったために、尊敬
  を受けるべき資格はすべて喪失したというのであった。
   中須賀哲朗訳『英国公使館員の維新戦争見聞記』p113
 このように会津の民心は、旧藩士から離れており、そして戦災によって心が荒んでいたように思えます。城下町では博奕が昼間から堂々と行なわれ、夜ともなれば一揆が村役人の家や城下の店を打ち壊しました。農民が白虎隊士の遺体から金品や衣類を剥ぎ取った話も実際にあったろうと思えます。 
ローレンス・オリファント/ウィリアム・ウィリス 中須賀哲朗訳 『英国公使館員の維新戦争見聞記』 校倉書房 1974 
復讐の連鎖 

 宮崎十三八は「加害者は忘れても被害者の心の傷あとは直らない」といいました(会津人の書く戊辰戦争)。それはいかがなものかと私は思います。
 たとえば、会津藩兵らに焼き討ちされた塩原温泉の旅館のホームページには、以下の記述があります。
  慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争は、塩原温泉をも巻
  き込んだ。旧幕府軍の形勢が不利になると、会津軍や凌
  霜隊などに(ママ)が、塩原を焼き払おうとした。この時焼き払
  われた民家は、149戸だったという。妙雲寺も焼き払
  われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津軍
  に嘆願したため、妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×
  印をつけることで焼失を免れた。(松楓楼松屋の歴史)
 こんな具合で単に事実のみを記すだけであって、ことさら怨恨の感情を述べ立ててはいません。宮崎は最晩年に至ってようやく怨念に満ちた自分の歴史観を反省しましたが、それまでの多くの著作では、戊辰戦争の被害を受けた当事者たちが復讐の連鎖を巻き起こした図式を無視し、唐突に会津だけが被害を受けたかのように主張していました。その復讐の連鎖とは、どういうことかを説明します。
 塩原温泉で起きたような焼き討ち事件は、戊辰戦争の戦場となった、会津に隣り合う各地域で行なわれています。そして、新政府軍が荷を運ぶ軍夫を雇用したなかには、焼かれた村々に住む人もいました。それら軍夫たちには掠奪に走る者もいたのです。かれらは「官軍」に関わる立場を利用して、傍若無人な振る舞いをしていました。 
松楓楼松屋の歴史 
  七日町阿彌陀寺にある盧舍那佛は、飯盛山仁王門前に在
  つたものであるが、西軍の軍夫共が亂暴にも悉皆之を解
  體して荷造りして居る所へ、西軍の将校が來て、
  「如何いたす」 
  「ハイ之れは青銅ですから横浜の外人に高価に賣るので
  す」 
  「其方共は神佛に迄手をつくるとは怪しからぬ奴ぢや。
  無禮をすると其まゝにおかんぞ」と戒められて其儘にな
  つて居つたのを、七日町鍋吹葉(ママ)丸角の主人谷彦左衛門が
  安く買い受け頭、銅、蓮座等離ればなれのまゝ、二ケ年
  ほど路傍の畑地に曝し置きたるが、やがて鍋にふかんと
  せし二三日前より、毎夜深更に及ぶと大佛がうなり出す
  騒ぎに町内の者大いに驚き至急會合して相談の結果勿體
  なしとて、これを譲り受け不手際ながら之を繼ぎ合した
  のが今の大佛である。大佛でさえ非道な目に遇うのであ
  るから、町人百姓の難儀せしことなどは當然である。
               平石弁蔵『會津戊辰戰争』
 このような掠奪行為が多発したこともあって、会津領内は不穏な情勢でした。この混乱のなかでは『白虎隊勇士列傳』に見られるような、戦死者の遺体から金品を剥ぎ取って放置するようなことも横行したのではないかと思われます。
 もし「彼我ノ戰死者一切ニ對シテ決シテ何等ノ處置ヲモ為ス可カラズ」の命令があったなら戦闘が続くなかで出されたと考えるべきでしょう。戦闘のなかでは埋葬どころではなく、後日に遺棄兵器や遺品を回収すべく、とりあえず「遺体には触れるな」と命令するのもやむをえないことと思えます。戦争状態は降伏開城後も数日間続きました。 
平石弁蔵『會津戊辰戰争』 
秩序回復への布告

 会津藩が開城降伏すると、新政府軍は秩序回復に向けて思い切った策を打ち出します。 
 九月二二日に会津藩は降伏し、藩士らは謹慎となりました。藩組織が完全に機能停止し、新政府の占領行政が始まりますが、まだ城外で佐川官兵衛らが抵抗を続けていましたので、戦争状態は持続しており、越後口総督府の戦闘部隊が暫定的に占領行政を担当しました。この占領軍が最初に出した布告は、秩序回復への具体策でした。
  騒動に乗じて無頼の悪徒ら相集まり、良民の家に押し入
  り狼藉をいたし、あまつさい、まま官軍の藩名など唱い
  候者これあるよし以ての外の次第につき、以来右等の面
  々には諸在においてきっと取り押え、或は切り捨て候と
  も苦しからず候。ついてはたとえ官軍に関係いたす下輩
  等たりとも、かねての法令をもはばからざる者につき、
  同断に取りはからえ、同然たるべきものなり。
     辰九月         会津在陣
                      軍  監
          梁田家御用留記『会津若松史』6所収
 戦争によって生じた混乱に紛れて「無頼の悪徒」が暗躍していたことがわかります。また、「官軍に関係いたす下輩」とは、大仏を持ち去ろうとしたような軍夫たちのことですが、兵士のなかにも取り締まる立場を悪用し、富裕な家から金を脅し取る事例があったようです。
 それにしても、たとえ官軍に関係する者であれ狼藉を働いたらその場で斬り捨ててもかまわないというのは思い切った 
内容です。へたをすれば占領軍に対するテロ行為を誘発しかねない布告を出していることには私も驚きました。
 こうした役所から一般庶民への布告は制札などで公示されます。まだ学校がなかった頃のことですから、読めない人も多いです。農村では村役人をつとめる地主層が制札を読み、その内容を村人に伝えます。その際「御用留」という帳面に制札の内容が書き写されます。そのため、制札がはずされても御用留は残るのです。
 あとから役所が「あれはなかったことにしよう」と思ったとしても、すべての御用留を回収して改竄するようなことは、たいへん困難なことでしょう。だから遺体埋葬禁止命令が布告されたとする記録が発見されていないのは、そのような命令がなされたかどうかを疑わせることなのです。
 秩序回復の布告を記録した御用留の内容を見ていきますと、母音の「い」と「え」が逆転しているのは、方言の特徴です。史料の出所といい、こうした特徴といい、これが捏造ではなく、たしかにあった布告だとわかります。
 無秩序を取り締まるのに軍事力を用いなかったのは「民衆の旧藩への反感を、降伏した藩士へ見せつけるためだ」などという主張もみかけますが、謹慎で押し込められた藩士らに領内の状況を知ることは出来ないと私は思いますが、いかがでしょうか? 占領軍による統治は暫定的なものですから、敢えて摩擦を生じるような武力鎮圧をしなかったのは妥当な判断であると思えます。
 占領軍による統治は九月いっぱいでおわりました。一〇月一日には民政局が設置され、本格的な占領統治が始まりますが、その前途は多難でした。 
民政局による占領統治

 以下は、一〇月一日に設置された民政局の幹部たちです。

  惣 長
    加州 神保八左衛門  越州 米岡源太郎 
    同  成田八九郎   同  牧野友吉 
  庶務方
    加州  市村儀三郎  新発田 井上節助 
  租税方兼営繕
    加州  江川弥八郎  越州  朝倉熊三郎 
  監察方兼断獄
    越州  久保村文四郎 加州  広田平兵衛 
    小倉  粟野藤五郎  同   竹沢長平 
  会計方
    加州  石田平八郎  同   松村郷助 
  社寺方
    越州  水戸守藤兵衛 新発田 古石辰之丞 
  生産方
    加州  河村四々郎  小倉  真野四郎 

 御覧のとおり、加賀藩、越前藩、新発田藩、小倉藩の人員から構成されています。薩摩や長州の部隊や人員は、早々に会津から去りました。まだ榎本艦隊は健在で、大鳥圭介らの旧幕府軍も降伏していません。戦争は終わっていなかったのです。それゆえに、占領統治は非薩長の人員に任せられたと考えてよさそうです。 
 この頃には、城外で組織的な抵抗を続けていた佐川官兵衛らも降伏し、旧会津領での戦争状態は終わりました。しかし、領内の混乱はまだ続きます。会津藩兵が放火などの暴行を働いた地域から新政府軍の軍夫として駆り出された人々による旧会津領での掠奪は続き、また、会津の民衆は一揆を起こし、それまで藩政の一端を担ってきた村役人たちに対する怒りを爆発させるのです。
 結論からいえば、民政局の秩序回復への努力は、すぐには実りませんでした。それでも手を拱いていたわけではありません。民政局が最初に出した布告の概略を見てみましょう。
     定
  一 罪のないものは一切おかまいないこと。
   但し、たとえこれまで手向かっていた者でも降参する   者は許すこと。
  二 朝敵は隠しておかないこと。
  三 当年の年貢の半分は下さること。
  右のことがらをよく心得て、めいめい家に帰り、安堵し  て家業につとめるようにせよ。
   辰十月             民 政 局
                   『会津若松史』6
 会津藩士の手記『暗涙の一滴』によりますと、開城の前から「城中を脱するもの陸続、民間に潜むもの多し」とあります。こうした逃亡者に対する降伏の呼びかけが最優先とされ、その次に民心を安定させるため年貢半減を掲げています。
 しかし、民衆の動揺はおさまらず、ついに一揆が発生してしまいます。いまひとつ力は及びませんでしたが、民政局は秩序回復に向けて次のような施策を実行していました。 
   十月六日取り敢えず民政局によって建てられた、会津
  藩の戦傷者を収容していた青木組御山の病院に、米三〇
  俵送るとともに、城中に残っていた米五、六〇俵と味噌
  一〇樽を町方の戦火にかかり生活困難なものに放出する
  とともに、毎日朝夕二回粥をつくらせ貧民に給与してい
  る。               『会津若松史6』
 負傷した旧会津藩士のために病院を設置したのも潜伏している逃亡者らに投降を促す意味があったでしょうし、生活が困難な民衆に対して直接的な援助もしていたのです。
 この状況のなかで埋葬命令が下されていますから、その実行は極めて困難だったといえるでしょう。民政局は生きている人々に対して力を注いでいたわけで、遺体の埋葬が後回しになってしまったのは事実ですが、薩摩や長州のような会津との因縁がない人たちで構成された民政局の施策であるからには、遺恨によって埋葬を遅延させたとはいえません。

旧会津藩士の特権意識

 民政局から、遺棄された戦死遺体の埋葬を命じられたのは、かつて長吏と呼ばれていた人々です。当時の身分制度においては被差別階級に置かれていました。年貢免除にかわる役務として御仕置役、街道警備といった行刑や司法に携わるほか、「清め」の役で行き倒れ遺体の埋葬や斃牛馬の処理が任されていました。また、芸能に携わることもあり、江戸では歌舞伎の興行権を掌握していた時期があるそうです。遺体埋葬では遺品を、斃牛馬処理では皮革を取得する権利がありましたが、どちらも発生件数は多くありませんから、日常的な役務 
は行刑と司法にあったと考えて良いようです。彼らは藩組織に連なる役人でもあったのです。
 埋葬は城内から始まり、次に城外へ、そして農村部へ作業を続ける計画でした。しかし、領内は一揆で不穏な情勢が続き、民政局は十月下旬に領内の生活実態の調査を開始、十一月中旬に調査結果を得て、十二月初旬に一時金を支給します。その結果、一揆がおさまったように感じられます。
 さらに明治二年正月には総計一万五七四五両を生活困難者に給与、家屋再建のため木材を安価で払い下げ、再建資金の補助もはじめました。このように民政局は一揆の対応と復興に努力していました。
 その一方で、謹慎を命じられた旧会津藩士らは埋葬が遅延したことに強い不満を抱いていたようです。「明治戊辰戰役殉難之霊奉祀の由來」によりますと、埋葬が丁寧でないことにも不満を訴えていたようです。しかし、彼らは非常に強い特権意識を抱いており、士分の者は埋葬に従事する人々とは言葉を交わすこともしないと記してあります。当然ながら、埋葬作業にあたる人々に対する態度は尊大なものであったと容易に想像できます。そして、埋葬に農民を使役することを民政局に要求し、却下されたようです。
 私は却下が当然だと感じています。なぜなら旧会津藩士の言い分からは、雪に埋もれた遺体を回収し、凍った土を掘って埋葬する、たいへんな作業を強いられた人々に対する感謝の気持ちは少しもなく、戦災によって混乱状態に陥った民衆に対しての思いやりも感じられないからです。意を決して埋葬の現場に立ち会った旧会津藩士は、ほんの一部の人だけに限られていました。 
 それらの現場を見た者は、遺体埋葬を少しでも丁寧にしてもらえるようにと、旧会津藩士らの所持金を集め、それを埋葬に従事する人々に少しずつ支払うという懐柔策を思いつき、実行したようです。また、それによって、ある程度の改善が見られたとされています。
 年が明けて秩序が回復すると、自分で行動を起こす士族も現れます。当時は子供だった河原勝治は「思い出」と題する回顧録で、父と兄の遺体を探し歩いたことを語っています。それによると、遺体の多くは衣類を剥ぎ取られ、裸のままで放置されていたようです。そのことは、まことに気の毒と思いますけれども、ことの成り行きを考えれば、やむをえないことだとも私には思えるのです。
 前にも述べましたが、「明治戊辰戰役殉難之霊奉祀の由來」は談話の伝聞でしかなく、「思い出」は七〇年後の回顧談なので、その内容の正確さは保証しがたいものです。ことに前者は、語り継がれるうちに遺恨が増幅されていることを思わせられる内容でしたし、特権意識の裏返しで、差別的な言辞が多用されているので、ここに原文を引用することは躊躇せざるをえません。

怨念を産んだもの

 埋葬が遅延したのは、積雪や一揆の発生といった原因からであって、けして薩摩藩や長州藩が遺恨を含んで埋葬を遅延させたわけではありません。では、なぜそれが薩長への怨念にすりかわったのでしょう? その根源を断定するまでには至りませんが、ひとつ考えられることがあります。 
 旧会津領の混乱が続いた原因として、無視できないことの一つに贋金作りの横行が挙げられます。没収された贋金の総額は一〇万九二一九両二分に及び、摘発されたり自訴して牢に入れられた人数は一二〇〇名余りにのぼります。
   このように会津で贋金作りが盛んに行なわれるように
  なったのは、もちろん、会津戦争がもたらした経済的疲
  弊が最大要因であったが、その端緒はすでに慶応年間に
  藩が軍用金として一両銀判・二分銀判・一分銀判を鋳造
  したことに始まり、戦後の困窮の最中、新政府に反感を
  抱く旧藩士たちが流通の攪乱をねらい、あわよくば政府
  転覆を企図して農民や鍛冶職人らと共謀し、ヤーヤー一
  揆の騒擾などの治安の乱れに便乗して当局の監視が及ば
  ない各所の山中で容易に贋金作りが出来たためであった。
      牧野登『会津人が書けなかった会津戦争』p250
 この贋金作りの摘発で、民政局の久保村文四郎(越前藩)は取り締まりが厳しすぎたとして、離任して郷里へ戻る途中、旧会津藩士の伴百悦らによって暗殺されました。伴は、埋葬の現場に立ち会って懐柔工作を実施したなかの代表格でした。贋金取り締まりの過酷さを動機とした暗殺だとされていますが、本当の動機は埋葬問題にあったかもしれません。
 会津の混乱とは直接に関わらないことですが、実のところ贋金作りは会津だけでなく仙台藩や二本松藩も手を染めていました。そればかりでなく、のちに新政府側の薩摩藩、土佐藩、加賀藩などの贋金作りが発覚します。これらの贋金は全国的に流通してしまい、はては外国商人までが贋金をつかまされため国際問題に発展し、諸外国に「高輪談判」で贋金の取り締まりと通貨の近代化を約束させられました。 
牧野登 『会津人が書けなかった会津戦争』 歴史春秋社 ISBN4-89757-353-X 
 このように贋金を取り締まっていた新政府側の諸藩でも贋金作りが行なわれたことが発覚するのは後日のことですが、それを知った旧会津藩士はさぞや遺恨を抱いたことでしょう。贋金作りは旧会津藩士にとっても「言いたくない過去」ですし、そうした怨念が遺体埋葬の遅延で生じた惨憺たる光景と重ねあわさるうちに、「なかった」埋葬禁止令が「あった」とされたものかと、私は当て推量をしています。

歴史観の変遷

 時代の移り変わりにともなって、人々の歴史観もまた変遷します。それは会津の人々も例外ではありません。
 戊辰戦争当時は、会津藩士の戦死遺体から金品を剥ぎ取ることもなされていたのは、明治二三年に刊行された『白虎隊勇士列傳』でも触れられていますし、子供だった旧会津士族の河原勝治が昭和一二年に残した回顧録「思い出」にも戦死遺体が裸であったことが記されています。会津の民衆は旧藩士にシンパシーを抱くことはなく、むしろ一揆で旧藩の支配体制を完全に覆そうとしたのでした。
 ところが『白虎隊勇士列傳』では遺体から金品を剥ぎ取った農民を悪漢と呼んで批難しています。自害した少年たちの悲壮な覚悟を知りながら約束を守らなかった農民は、たしかに批難されるべきでしょうが、その論調には士族への同情心も窺えます。この私家版小冊子が発刊されたのは明治二三年、すでに一世代が交替した時期のことでした。そして日清戦争、北清事変、日露戦争などの激動を近代史に刻みながら、明治時代は終わりを告げました。 
 そして大正時代となり、東北出身の原敬が平民から首相になりますと、戊辰戦争の勝利者たちによる藩閥政治が終焉を迎えたことを強く印象づけました。公刊された本としては初めて戊辰戦争を会津側視点で描いた『會津戊辰戰争』の初版は原内閣発足の一年前に上梓されています。旧会津士族らが旧藩の復権に向けて熱心に活動した時期にも重なります。
 飯盛山の白虎隊墓地が整備されはじめたのも大正一五年のことでした。その頃、イタリアで勢いを増していたファシスタ党のムッソリーニが、藩のために生命を捧げた白虎隊のことを知って、ポンペイ遺跡から発掘された石柱を記念碑に加工して送り届けたことがきっかけです。東京朝日新聞の記者だった杉村楚人冠は、この白虎隊墓地の整備を紙上で激しく批難しました。
   この舊形破壊は何事だ。ムソリニがそれほどえらいも
  のか。今に藝妓の手を引いた遊客が花時に出入するやう
  にでもなつたら、さぞかし地下の少年も満足することぢ
  やろう。
 これに対し会津出身の元東京帝国大学総長である山川健次郎が反論したのは、白虎隊の武勇伝は国威発揚に効果があるといった論調でした。
 その言葉どおり、白虎隊は軍国主義の思潮に飲み込まれ、国策に利用されてしまったのです。そして戦後は杉村が危惧したとおり、観光資源として利用され、花時に限らず遊客が訪れる場所になりました。この流れのなかで、遺体埋葬が遅延したという事実は「薩長のせいだ」と曲解され、そしてそれが誇張され、「なかった」はずの埋葬禁止令さえも「あった」とする主張が、定説にまでなってしまったのです。
 しかし、どう調べても「賊徒」の埋葬を禁じた命令が布告された証拠は見つかりません。また占領統治を担当したのは非薩長の人員ばかりであることなど、「薩長が遺恨を含んで埋葬を禁じた」とする主張が虚構にすぎないことが明らかになるばかりでした。
 この虚構に基づいた怨念を食い物にする心ない人々がいることも問題だといえましょう。その先陣を切った宮崎十三八の罪は重く、すでに故人となった人でもあり、最晩年には自著に「哲学がない」として反省したことも知られておりますが、それでもなお償えないほどの害悪を遺してしまったことはたしかです。
 私は死者に鞭打つ罪悪感を感じつつも、宮崎の遺した文献には批判を続けていくことになるでしょう。

おわりに

 この記事の執筆を仕事として受けた場合、独身である私の生活費一ヶ月分ほどの収入が得られるはずです。スポンサーなしで書いたら当然のこと一円の利益にもなりません。図書館への交通費やコピー代などは持ち出しです。正直に白状すれば、こんな条件での執筆は、やりたくありません。
 そんな私が、どうしてこの記事を書こうと思ったのかは、この虚構が学界の中枢にまで浸透してしまったからなのです。作家さんが書いたものならば、どんな虚構が書かれていても気になりませんが、本記事の冒頭で御紹介した保谷徹氏は、東大史料編纂所教授です。こういう人が書いた内容だったら、ほとんどの人が本当だと思うでしょう?
 厳密にいうと保谷氏は今井氏の論を引用しただけですが、学界の権威の著書に載ったという意味において、私は激しい衝動を覚えたのです。これは黙ってちゃいけない!
 しかし、人を斬ったら返り血を浴びるのは理の当然です。保谷氏や今井氏を論難することで、学界に敵をつくることは間違いないでしょう。ところが幸いにも私は学界とは無縁な野良犬です。だから誰だろうと噛みつくことが出来るのです。学界とのしがらみが無い私こそが「それは違う」というべきなのです。
 動機は、もうひとつあります。かく申す私は、薩摩藩士と会津藩士の血を同じ割合で引いています。しかも、曾祖父が鶴ヶ城を攻めていたとき、その将来の妻となる曾祖母は籠城していたのです。そういう出自ですから、宮崎十三八の如く学問のなかにまで怨念を持ち込むような輩は許し難いです。その宮崎が故人となっても、こうして亡霊のように怨念から歪められた歴史認識が罷り通っていることを見せつけられて、とうてい黙ってはいられません。
 本記事を執筆するにあたり、会津側の史料を中心に据えることを心がけました。いわゆる会津贔屓な方たちは、政府が編纂した『復古記』の内容を信じないくらいですから、当然、薩摩や長州の史料など引き合いに出しても仕方ないことです。もうひとつ、研究者ではない一般の歴史ファンにも後追いが出来るように心がけました。本記事で引用した史料や文献は、ネットで閲覧できるか、都道府県立図書館に架蔵されているものばかりです。ですから私の言い分を認めたくないと仰る方々は、どうぞ御自身で史料や文献を検討してみてください。それでこそ本当の歴史を知ることが出来ますよ。
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