慰安婦は贅沢に暮らしていた?
テーマ:従軍慰安婦関連以前のエントリ に、こんなコメントをもらいました。
■同じリポートの中に下記の記述があるそうですが?
彼女らはビルマの他の所と比べて高級地近くに住んでいた。
この事は彼らのビルマ2年目では特にそうである。
彼らは贅沢に暮らした、それは彼女らの食事や物質は大量には配給されず、
彼女らが望む品物を買えるだけの十分なお金を持っていたからである。
彼女らは服、靴、タバコ、そして化粧品を買え、
実家から慰問袋を受け取った多くの軍人から、多くのプレゼントを貰っていた。
ビルマに留まっている間は将兵と共に、スポーツイベントに参加したり、
ピクニックに出席したり、娯楽、社交ディナー等で彼女ら自身楽しんだ。
彼女らは蓄音機も持ち、町の中では買い物に行くことも許された。
みょみょ 2007-05-09 13:54:19
ま、これを読んでも、慰安婦は高収入とも高給とも書いてないので、別に矛盾するとも思えませんが、念のため検証してみましょう。
では、対応する部分を原文で見てみましょうか。(原文 )
"They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places."
なので、「高級地近く」ではなく、「他の場所に比べ、ビルマでやや贅沢に暮らしていた。」ですね。
軍慰安所は後方施設なので、前線や僻地に比べて、物資を集中しやすい場所なのは当然でしょう。まして、ほとんどの物資を軍が流通を管理していたでしょうから、軍が駐留していない地域に比べ慰安所のある街の物資が豊かであったのも不思議ではありません。そういう意味(in comparison to other places.)では、たしかにやや贅沢(near-luxury)と言えるでしょう。
それに慰安婦一人一人が内地での陸軍大将より高給取りであったなら、このようなささやかな表現にはならないでしょう。少なくとももっとストレートに「They lived in luxury in Burma.」と書いたはずです(もっと強調してもいいくらいです)。でなければ、日本の陸軍大将は、「他の場所に比べ、ビルマでやや贅沢」以下の生活だったことになります。
"This was especially true of their second year in Burma."
この報告書にある慰安婦がビルマに来たのは1942年8月です。2年目と言えば1943年を指します。エントリにもありますが、軍票のインフレが悪化するのは1943年後半からです。ビルマの防衛体制に日本軍が不安を感じ始めるのも1943年後半からです。
この一文は、1943年以外(特に1943年後半以降)、「やや贅沢(near-luxury)」ですらなかった可能性を示唆しています。一貫して「やや贅沢(near-luxury)」だったのなら、この一文は不要ですから。
"They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of money with which to purchase desired articles."
慰安婦の食糧・物資はほとんど配給制限されず、欲しいものを買うのに十分な金があったので、暮らしぶりは良かった。とあります(rationは「割り当てを制限する」と言う意味があるので、「大量には配給されず」は誤訳だと思いますよ。前後の文脈から考えても不自然でしょ)。これは前文からの続きなので1943年のことだとわかります。ビルマ方面の情勢が安定していた1943年の時点で配給制限されてたり軍票がインフレを起こしていたら異常ですから、これも不思議ではありませんね。ついでに、「plenty of」は「多くの」とも「十分な」とも訳せますので、有り余るほど金を得ていたわけではありません、一般人が普通に購入できる範囲と同レベル(何でも全て買えるわけではないが、全く買えないわけでもない)と考えるべきでしょう(だからnear-luxuryであってluxuryではない)。
"They were able to buy cloth, shoes, cigarettes, and cosmetics to supplement the many gifts given to them by soldiers who had received "comfort bags" from home."
具体的に購入できた物ですね。服、靴、タバコ、化粧品。購入の他に兵士から多くの贈り物もあった、と。兵士は内地からの「慰問袋」で贈り物用の物品を得ていました。くどいようですが、1943年のことです。日本軍の補給線がつぶされ始めてからは流通に著しい支障をきたしたでしょうから。
"While in Burma they amused themselves by participating in sports events with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners."
これは、「While in Burma」とあるので、1943年に限定されませんが、収入云々に言及してない箇所なので関係ありません。むしろ1943年の状況を示している前文までとの区別のために、「While in Burma」と記載したように読めます。
「they amused themselves」から慰安婦自身楽しんだ、とありますが、これは誰に尋問したかによって解釈が分かれるところでしょう(尋問出来た相手は、20人の朝鮮人慰安婦の他に2人の日本人楼主がいます)。つまり、日本軍将兵の慰安としてスポーツイベントやピクニック、娯楽、夕食会にも、参加させられた、という解釈も成り立ちます。
例えば、鉾田市議の視察旅行でのセクハラが問題になったことがありますが、加害者側の主張では、セクハラ被害者も楽しんだことになってます。なので、皆仲良く楽しんだ、と即断するのは危険だと思います。
さらに、こういった夕食会などへの参加は、慰安婦自ら楽しんだのだから業務とみなされず無給だったとも考えられるわけです。もしこの尋問に答えたのが楼主なら「慰安婦自ら楽しんだ」と証言するためのインセンティブが十分にあります(給料出してないので)。
"They had a phonograph and in the towns they were allowed to go shopping."
「a phonograph」なので、各人1個ではなく、慰安所全体で1個の蓄音機があったと言うことでしょう。これも上記の夕食会などに用いる蓄音機を楼主は金を出さず、慰安婦達に金を出させて買った、とも考えられます。その場合、楼主が尋問で「慰安婦達が金を出し合った自分達の物として買った」と答えれば、「They had a phonograph」という表現になるのは不思議ではありません。もし、慰安婦の一人が自らの希望と費用で蓄音機を買ったのなら、「They had a phonograph」と言う表現は不自然です。
「町の中では買い物に行くことも許された。」はその通りでしょう。あくまで「in the towns」であって、自由に別の街に行くことは許されてなかった、ということです。
要するに、慰安所のあったミッチナは補給上の要衝でもあり、少なくとも1943年まで他の場所に比べて比較的物資は豊かであったと。また1943年時点(特に前半)ではインフレもそれほど激しくなく、慰安婦は給料で物を買うことが出来たし、兵士から贈り物ももらえた、と。
慰安婦は、売春だけでなく、夕食会などの接待にも参加させられた、と。
街の中での買い物は許されていた、と。
こんな感じですね。
特に不思議なことはありませんね。
私がエントリで言及しているのは、1943年末以降のことですし、それでも内地換算で約40円の月収と推定しています。
内地換算40円もあれば、市場に物資が流通さえしていれば、物資の無い他の地域に比べてやや贅沢な暮らしはできたでしょう。
特に矛盾が生じるとも思いません。
問題の箇所。
PAY AND LIVING CONDITIONS;
The "house master" received fifty to sixty per cent of the girls' gross earnings depending on how much of a debt each girl had incurred when she signed her contract. This meant that in an average month a girl would gross about fifteen hundred yen. She turned over seven hundred and fifty to the "master". Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles.
ここで記されている内容の時期は明記されてませんが、おそらく捕虜となる直前、つまり1944年7月のことでしょう(尋問するなら最も直近の状況についてするでしょうから)。
これが1944年のことと考えると、インフレと戦況の悪化によって物価が高騰し、「Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles.」(多くの楼主が、慰安婦に高額で食糧などを売りつけたため、慰安婦の生活は非常に困難になった)という部分の説明がつきます。
同じ報告書中に、矛盾する記載があるように一見見えますが、対象の時期が違うに過ぎません。
また、慰安婦の暮らしは、よかった時期でも、”他の地域に比べれば”、”やや贅沢”だった程度と述べているだけです。
冒頭のコメントで指摘された報告書の部分が、「従軍慰安婦問題・慰安婦高額報酬説のトリック 」に記載した内容と矛盾するわけではありません。
要は、報告書とかは、ただその文面だけを読むのではなく、当時の状況など(この場合ならビルマの戦況や物価指数など)も把握した方がいい、ということですかね。自戒をこめて。
1 ■無題
ミッチナでも、最初の1年は英軍が残した資産、物資で豊かだったのではないでしょうか? 贅沢に暮らせた瞬間が無かったわけではないかもしれません。
それを食い尽くしたあとがどうだったかは、日本の補給次第ですね。
しかしそれにしても、「二階建ての建物の大きな部屋が個室として与えられ」って、まるで、コンドミニアムかワンルームマンションのように書かれていますが、そこは学校などの建物の転用だし、その部屋は女性の住居ではなくて、10時~23時までは大勢の相手、朝までは将校のお泊り、という24時間勤務の 『仕事場』でしょう。
蓄音機はうらやましい限りですが、それとて、お仕事しながらしか聞けない、将兵たちをcomfortする仕事の道具でしょ。将兵たちも、兵営では蓄音機は聞けなかったわけです。
それから、attendは“同伴”ですね。運動会、夕食会、お客さんと"同伴"でない楽しみはなかったはずです。いはば、彼女たちは、”酌婦”兼任"慰安婦"だったのです。
沖縄が44年10月の大空襲を受けた日、32軍の幹部は、前日まで作戦演習会同をおえ、慰安婦をはべらし夜通しの打ち上げ宴会で、米機が頭上に来ても二日酔いでどうにもならなかった、という話は有名ですね。
まあ、空襲を予測できなかった精神主義のお粗末さですが、そういう現場には必ず慰安婦のお姉さんたちが侍らされていた、ということです。