なかのひと
2007-04-25 02:23:20

都市伝説・慰安婦高額報酬説(追記)

テーマ:従軍慰安婦関連

前回、1944年のビルマでの従軍慰安婦の報酬を米軍の捕虜尋問記録から確認し検証してみた。
ネット上では、慰安婦が高額の報酬を得ていた、との主張が数多くあり、(ほとんどはろくにソースも示していないものの)おそらく多くはこの「米軍の捕虜尋問記録」を元にしている、と思われる。


前エントリでは、慰安所への支払形態、1944年時点のビルマの物価、内地物価との実勢比較を行った。
その結果、慰安婦が得ていた月収750円は南方で発行された軍票であり、内地円との実質的な相場(公式には固定相場)は1944年初頭の時点で20対1であるとわかった。すなわち、実質的な慰安婦の報酬は月収38円程度であり、高額とはとても言えない。

今回は、「米軍の捕虜尋問記録」の他に、慰安婦高額報酬説を裏付ける史料があるかどうかを検証してみた。


見つけたのは2点。


・1992年に「戦時郵便貯金の払い戻し請求訴訟」(下関裁判)を起こした元従軍慰安婦の文玉珠氏の件。
1943年6月から1945年9月まで12 回の貯金の記録があり、残高は26,145 円であった。この他5000円を実家に送金している。
このことから、文玉珠氏が1943年6月から1945年9月までに得た報酬は、少なくとも約31000円であったと言える。
原簿画像がenjoy Korea(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=74747&st=title&sw=%E6%96%87%E7%8E%89%E7%8F%A0 )にあります。加算しても、12回26,145円になりませんが、利息分の取扱いなどの違いでしょうか。
いずれにせよ、1945年9月末時点で26000~27000円程度の貯金が残っているようです。

原簿の履歴を見ると、結構興味深い事がわかります。
(利息を除いた履歴)
S18.3.6  500円
S18.7.10 700円
S18.8.15 550円
S18.9.18 900円
S18.10.2 780円
S18.11.6 820円
S19.2.12 6円
S19.2.16 950円
S19.3.30 85円
S19.5.18 100円
S19.6.21 800円
S20.4.4  5560円
S20.4.26 5000円
S20.5.23 10000円
S20.9.29 300円

もう少しわかりやすく四半期ごとに集計します。
~1943年3月         500円
1943年 4月~ 6月      0円
1943年 7月~ 9月   2150円
1943年10月~12月   1600円
1944年 1月~ 3月   1041円
1944年 4月~ 6月    900円
1944年 7月~ 9月      0円
1944年10月~12月      0円
1945年 1月~ 3月      0円
1945年 4月~ 6月  20560円
1945年 7月~ 9月    300円


さらに、半年ごとに集計すると。
~1943年3月             500円
1943年 4月~     9月   2150円
1943年10月~44年 3月   2641円
1944年 4月~     9月    900円
1944年10月~45年 3月      0円
1945年 4月~     9月  20860円

ここまでしなくてもわかると思いますが、終戦時残高2万6千円のうち、2万円以上が1945年4月から6月の3ヶ月間の貯金です。要するに、時期によって異常に偏っています。貯金のない1944年7月から1945年9月までの14ヶ月間で稼いだと仮定しても、月平均1400円を超えます(5000円を送った時期が不明ですが)。これに対して、1943年4月から1944年9月までの18ヶ月間の貯金は6千円弱で、月平均300円程度です。


このことから、1944年後半に大きく状況が変化したことが想像できます。
文玉珠氏は主としてビルマにいました(終戦時はタイ)が、ビルマの日本軍は1944年前半にインパール作戦を行い、7月に敗退しています。インパール作戦以降、ビルマの日本軍の防衛体制は崩壊し、1945年1月にはアキャブ陥落、1945年3月ビルマ国軍が日本軍を攻撃、1945年4月ラングーン陥落、を経て終戦を迎えます。

貯金が滞った時期は、まさにビルマの日本軍が崩壊しつつある時期にあたります。文玉珠氏は、タイに後退し貯金が出来るようになるまで自分で軍票を持っていたのでしょう。
また、この混乱期において慰安所規定はあまり守られていなかったとも予測できます。なぜなら「兵 1円50銭、下士官 3円、将校 5円」で月1400円を稼ぐことは物理的に不可能(下士官で月400人以上、楼主の取り分を考慮すればこの倍の800人になる。1日に30人で、1人30分として1ヶ月30日15時間労働)だからです。
また、1944年末の時点でのビルマの物価指数は10000であって(1941年12月を100とする)、インフレ軍票があふれかえっていました。連合軍の攻勢にさらされた状況下で、通常の料金設定が実行されたとは考えにくく、おそらくこの時期に2万円を稼いだのでしょう。

では、内地換算でどのくらいだったのか見てみよう。物価指数は月11~14%の指数モデルで考える。


1941年12月( 0ヶ月):  100
1942年 6月( 6ヶ月):  187~  219
1942年12月(12ヶ月):  350~  482
1943年 4月(16ヶ月):  531~  814
1943年10月(22ヶ月):  993~ 1786
1944年 4月(28ヶ月): 1858~ 3920
1944年10月(34ヶ月): 3475~ 8605
1945年 4月(40ヶ月): 6500~18888


これを文玉珠氏の貯金額にあてはめてみる。
1943年 4月~     9月   2150円(内地換算:264~405円)
1943年10月~44年 3月   2641円(内地換算:148~266円)
1944年 4月~     9月    900円(内地換算: 23~ 48円)
1944年10月~45年 3月      0円(内地換算:  0~  0円)
1945年 4月~     9月  20860円(内地換算:110~321円)


1944年後半を除けば、内地換算額は、ほぼ200円程度(半年あたり)で一定か、むしろ減少傾向にあると言えます。
月あたりにすれば、30円程度であり、高額報酬と言うには程遠いですね。

ちなみに濫発した軍票などの戦後処理は、一応行っており、閉鎖機関令(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22CO074.html )の別表などを見ると、占領地と内地の通貨価値格差がある程度推測できます(日本政府の補償に関わるので厳しくつけているとは想像できるのだが)。ただし、南発券はこれに含まれていません。国会議事録でちらほら見かけるのだが、どうも今に至るも補償されていないように思います(私が知らないだけかもしれませんが)。


・慰安婦募集のチラシの件
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=74747&st=title&sw=%E6%96%87%E7%8E%89%E7%8F%A0
(1)
「軍」慰安婦急募
行先 ○○部隊慰安所
募集資格 年齢18歳以上30歳以内****
募集期日 10月27日**11月8日**
出発日 11月10日頃
契約員待遇 本人面談*****決定*
募集人員 数十名
希望者 左記*********
 京城******町195
 朝鮮旅館内
 光*2645
 (許氏)

・写真の説明に1944年10月27日~とある(ハングル)。

(2)
慰安婦至急大募集
年齢 17歳以上23歳迄
勤先 後方○○部隊慰安部
月収 300円以上(前借3000円迄可)
午前8時より午後10時迄本人面談
京城*******20
今井紹介所

・写真の説明で1944年7月26日~とある(ハングル)

*は判読できなかった部分。


朝鮮は、他の日本軍占領地に比べれば、比較的物価が安定していました(それでも1941年12月を100として1944年には150ほどになってますが)。
月収300円は、朝鮮の物価基準では相当高額です。ただし、勤務地も朝鮮でない場合、関係のない話です。前借金は朝鮮で払われますが、月収は勤務地で払われます。

では、1944年7月ごろの占領地域の物価指数を見てみましょう。
「日本軍政下のアジア」p179「日本金融史資料昭和編」第30巻より孫引き
1941年12月を100として、グラフより目視で概算した値。括弧内は、300円の内地換算額。
・マラヤ:          5000(  6円)
・上海、フィリピン:4000(  7.5円)
・ビルマ:          3000( 10円)
・スマトラ:        1000( 30円)
・北京:             500( 60円)
・ジャワ、ボルネオ: 300(100円)
・新京、京城、台北: 150(200円)

この慰安婦がどこで働いたかによるでしょうが、必ずしも高額だったとは言えず、同様に薄給だったとも言えません。募集地域がどこであったかが鍵ですが、これはちょっと難しそうです。


(2007/5/9追記)

慰安婦募集のチラシにある月収300円ですが、これは手取りか売上かがよくわかりません。1937年の資料にある慰安婦の契約書には、「賞与金:揚高の1割とする(但し半額を貯金すること)」(従軍慰安婦関連資料修正1,p50)などとあるので、同様の契約であり、月収が揚高を指すとすれば、実質手取りは30円になります。
無論、チラシを好意的に解釈すれば手取り300円ですが、この手の広告を好意的に解釈するのが危険なのは今も昔も同じでしょう(ネトウヨの主張では、女衒が酷い行いをした、はずなので、この広告内容が誠実であると解釈するのは自己矛盾だと思うんですがね・・・)。



※内地換算:東京の物価指数も1944年あたりから上昇し終戦時には200程度になっているが他の地域に比べて遥かに変動が少ないので、1941年12月の物価をもって内地換算として計算している。


(体裁を修正2007/5/9)

コメント

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1 ■大東亜戦争というマルチ商法

従軍慰安婦のお姉さんたちに「貢いだ」日本軍兵士のお兄さんたちは、薄給の中から1/3を慰安所通いに使っちゃそうですね(小野田手記)。

お兄さんたちは郵便貯金から取り崩して現地の軍票をもらったのでしょうか、実勢レートでなく額面レートで。だとしたら、その時点で為替詐欺にあったということですね。

そうして、軍票はお姉さんたちの手に渡り、大半は楼主に巻き上げられても何割かは枕の下に蓄えられる。それは、朝鮮銀行券と同じ価値をもつという建前だったのでしょうね。

ですから、お姉さんたちの郵便貯金は、軍票の無制限発行に伴って増大する可能性があった。

もしこうした郵便貯金が内地や朝鮮で降ろされたら、内地や朝鮮での円は破綻したかもしれません。

でもそこは大丈夫。私の親などはせっせせっせと戦時国債を買わされ「貯蓄増強」。戦争のまっさなかに郵便局から大金を降ろしたりしたら、それこそ「非国民」だったのです。

そうしてビルマでの軍票が藻屑になったと同様に、内地の円も新円切り替えとともに藻屑になったのでした。

つまり、慰安婦のお姉さんたちも、兵隊のお兄さんたちもみな、大東亜戦争というマルチ商法に騙されて、戻ってはこない「貯金」を巻き上げられたのでした。

というストーリーは正しいでしょうか?
ビルマ派遣軍兵士のおこづかいの仕組みが知りたいです。

2 ■コメントありがとうございます。

>戦争のまっさなかに郵便局から大金を降ろしたりしたら、それこそ「非国民」だったのです。

これまさにその通りですね。
以下の新聞記事を見つけたので紹介(神戸大学図書館のWEBサイトから)

大阪時事新報 1939.6.16(昭和14)
「百億貯蓄」の意義 (下) きょうの問題 森崎生
「貯蓄を卑賤とし、或はこれを実行しない誤れる考えの持主は「今日様に対して申訳ない冥迦に尽きる」感謝を忘れた徒輩であると共に、まさに「聖戦」の敵である。聖戦の敵は蒋政権及びこれを支援する第三国であるばかりではなく、実にかかる一連の不適従徒輩も、厳密にはこの“敵”としての言葉の中に包括されるのである。吾等は、全力を尽して「聖戦の敵」を殲滅せねばならぬ。しからば、蒋及び援蒋勢力を木っ葉微塵に粉砕すると同時に、この国内の不適従分子をも撃滅せねばならない。」

貯金しないだけで「聖戦の敵」扱いですよ・・・。タンス預金なんかしたら「殲滅」「撃滅」されてしまいます・・・。


>ビルマ派遣軍兵士のおこづかいの仕組みが知りたいです。

ビルマで適用されたかどうかわかりませんが、兵営では俸給は月給を10日分に分けて支給されたそうです(多分、すぐ使い切る兵がいるから)。
日露戦争時に、兵への俸給は軍票を使うことになっていたので、太平洋戦争時もおそらく軍票での支給だったかと思います。ビルマならルピー軍票(あるいはルピー表示の南発券)でしょう。
公式には1円=1ルピーだったので、規定どおり兵卒なら月10円(10ルピー)程度の俸給だったはずです。
戦地加給がどの程度かわかりませんが、月1~2回も慰安所に行けば、1/3近くはすぐなくなったでしょう。

3 ■つづき


>お兄さんたちは郵便貯金から取り崩して現地の軍票をもらったのでしょうか、実勢レートでなく額面レートで。だとしたら、その時点で為替詐欺にあったということですね。

比較的安定していた時は、内地から送金されたことや元々郵便貯金を持っていた兵士が取り崩したこともあったかと思います(戦地で兵士が郵便貯金を使えたかどうかはよく知りません)が、間違いなく額面レートが適用されているでしょう。
これをもって「為替詐欺」と呼べるかどうかは難しいところかと思います(当時は固定相場は普通ですから)。ただ、商社などの従業員が実勢と額面の違いを利用して儲けたことはあったんじゃないかと思います。また、政府が実勢と額面の差を解消すべく手立てを取らなかった(むしろ悪化させた)ことは詐欺に近いと言えそうです。


>つまり、慰安婦のお姉さんたちも、兵隊のお兄さんたちもみな、大東亜戦争というマルチ商法に騙されて、戻ってはこない「貯金」を巻き上げられたのでした。

マルチ商法とは、言い得て妙ですね。軍票は政府の財源と関係なく発行されるので、よほどの大国でない限り戦争に勝って賠償金などを取らなければ回収できないわけですが、1943年にはもう賠償金が取れる形での勝利などありえないことを軍も政府も把握できたはずです。でもその1943年から軍票の濫発が本格化するわけで、ここまで来ると踏み倒しの確信犯だったとしか思えません。

4 ■戦地増俸

scopedogさん

>戦地加給がどの程度かわかりませんが、月1~2回も慰安所に行けば、1/3近くはすぐなくなったでしょう。

 太平洋戦争中の陸軍の兵卒の戦地増俸はだいたい次のとおりです。
 1943年7月28日制定大東亜戦争陸軍給与令(勅令第625号)では、最大俸給の115%です。
この給与令に定める兵卒の俸給月額は以下のとおりです。
兵長 13円50銭
上等兵10円50銭
一等兵 9円
二等兵甲9円

これに戦地増俸給を加給すると、最大で以下のとおりになります。

戦地増俸(最高額)
兵長 28円35銭
上等兵22円5銭
一等兵18円90銭
二等兵甲18円90銭
二等兵乙12円60銭

なお、大東亜戦争陸軍給与令はその年の12月に改定され、戦地増俸は、割合でなく最大額表示となります。それによって、上記表をなおすと、こうなります。
戦地増俸(最高額)1944年以降
兵長 31円50銭
上等兵24円50銭
一等兵21円
二等兵甲21円
二等兵乙18円

 慰安所の代金は兵1円50銭だったはずです。 
 なお、戦時増俸は将校にも適用されます。だいたい倍になるとみてください。ですので、加俸後の陸軍大将の月給は、最大で1155円、1943年以降は、1095円です。
 ビルマの慰安婦の最大月収が750円だとすると、陸軍大将の3/4どまりです。これは陸軍大佐クラスの月給とほぼ同等になります。

 預金の履歴からいえば、文さんは多いときにはだいたい月平均300円から400円を貯金していたようです。
 最後の2万円は、ご指摘のとおり、ビルマ戦線崩壊後の軍票が紙切れ同然になることがわかってからあとの収入なので、比較にはならないでしょう。

5 ■おおっ、ありがとうございます。

すると、増俸後の兵の月収20円の3分の1というと大体、7円なので、週1回以上通った、ということですかね。

6 ■無題

>・1992年に「戦時郵便貯金の払い戻し請求訴訟」(下関裁判)を起こした元従軍慰安婦の文玉珠氏の件。
>このことから、文玉珠氏が1943年6月から1945年9月までに得た報酬は、少なくとも約31000円であったと言える。

ご自身で言っているように、
文玉珠氏が1943年6月から1945年9月までに得た報酬が、最低約31000円以上であって。
報酬の総額=約31000円ではない。
つまり、それから導き出される、
>月あたりにすれば、30円程度であり、高額報酬と言うには程遠いですね。
は下限をあらわしているに過ぎない。
実際は、いくら受け取っていたか分からない。
よって、このことから高額報酬ではなかったとは言えない。
むろん、だからといって高額報酬とも限らないが。

むしろ、5000円送金したと言う情報の方が重要。
本当に5000円送金できていたら、物価で収入を補正する意味がなくなる。

7 ■言うべき相手を間違えてますよ

>むろん、だからといって高額報酬とも限らないが。

その通りです。ワシントンポストに広告を出した議員らに言ってやってくださいな。
彼らは、将軍よりも高給取りだったと言ってますよ。

8 ■無題

http://www2.ocn.ne.jp/~adult/ianfu/pay2.html
↑こちらのページにまったく同じ文章があるのですが、どのような関係なのでしょうか。

9 ■無題

daiomさん

以前、転載して良いかと聞かれて許可したところです。
たまにメールでやり取りしている方です。

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