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> No.9853[元記事へ]
こういうのは応酬話法ってやつですかね。
無限にどうでもいい話が生産されるわけですが、そういう大量のどうでもいい話への同意/不同意が、原発の運動への参加の用件、甚だしきは「資格」であるかのように量産されていくという事態は、運動に対しては+の影響は確実に無いかと思うわけですが。
ここに「在特会」の例が挙げられ、例のレッドウルフさんの「反原発運動の敵はネトウヨとサヨク」という宣戦布告に連なる円環を形成していく論理の一端が見えるわけですが。
ここで「『主催者の命令』を拒絶するものは在特会か?」みたいなグダグダの話しても、これにどうでもいい話を量産する事になりそうです。
そもそも、その「主催者の命令」の妥当性を問うているわけですが、
在特会→主催者の命令に従わない
などという構図が、その主催者の命令の妥当性になんの関わりがあるのか。
私が「権力者の権力を、権力を発動することによって強化する運動」と言ったのは、このような「命令の妥当性を明らかにしないままに従わせようとする」行為の事を言っています。
野間易通さんへのお返事です。
> 黒目さんへのお返事です。
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> > そういう「企画的要素を削る」というのも、「我々の常識を押し通す」事なわけですが。
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> 「常識を押し通す」というのは、別の常識で動いている人のところに言って自分の常識にもとづいた振る舞いをすることを指すと思います。先に引用したように、我々は自分たちが主催するデモでは「企画的要素を削」りますが、素人の乱のサウンドデモにも労組の幟が林立する原水禁のデモにも参加します。そしてそこでは、「サウンドデモをやめろ」とか「旗を下ろせ」とか「企画的要素を削れ」とか言いません。ただその隊列に入って一緒に歩くだけです。
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> つまり、
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> > まあ、ここでこの書き込みの元のタイトル、「人のやっている事に対してああだこうだ言いたい主義」がやっと登場するわけですが、
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> 「人のやっている事に対してああだこうだ言」わないわけです。
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> > その理由が「ただ立ってる事が人を大勢集めるから」などというのは、合理性の無い話です。
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> そういう理由はどこにも書いてないですね。街頭デモよりも無許可の抗議行動のほうが人がたくさん集まった、という事実を述べただけです。
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> > こういった非合理的な「ルール」に「従わせる」事は、なつかしの「校内暴力時代の非合理的な学則」同様の、「権力者の権力を、権力を発動することによって強化する」運動にしか私には見えませんね。
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> 「非合理的なルール」も何も、官邸前はデモではないので、それぞれの人がその場に立って抗議を行うことになるのはしょうがないでしょう。そこはこちらが提案している「ルール」ではないです。
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> > で、立ってるところに別の人たちがきて、別の行動をしたといって、なにを文句をいう筋合いがあるのでしょうか。
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> 「別の人たちがきて、別の行動」をすることはかまわないと思います。現に、在特会が金曜日の同時刻に官邸前に陣取って「再稼働推進」街宣をやったことがあります。それをやめさせることはできません。もちろん、時間配分その他交渉しましたが、「ここは公道だ。おまえに何の権限がある」と言われて聞く耳もたずでした。
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> まったく反対の主張をしている人がそういう態度に出るのはある意味当然で、これは十分理解できますが、同じように反原発を標榜する人たちが彼らとまったく同じ物言いなのは、どうしたものかと思いますね(笑)。
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