7.おわりにかえて(私の考えるDVと共依存の関係)
ここまで、共依存について私見で書いてきました。
お読みいただいている方の中には、共依存とDVを関連づけるのは不適切だと感じる方も多いかと思います。
私は、加害行為を容認するものではありませんし、たとえ、被害者が共依存症だったとしても、それは加害行為の理由にはなりません。また、被害者のすべてが共依存だと言うわけでもありません。
現在、DVの援助をされている方の大半はジェンダーの考え方に基づいて援助をされているようですし、被害からやっと抜け出した方にとっても、大変有意義な考え方だと思います。その反面、共依存(というよりメロディの言うところの恋愛依存)という概念を、敵視(大げさな表現?)している様に見える方も多いと感じています。
女性の側(被害者側)に立った考え方から見れば、共依存はDVの責任を被害者に押しつけるもの、と感じるからなのでしょう。
ここまで、お読み頂いた方は、DV被害者よりDV加害者に共依存があてはまるということがお解りいただけたと思います。
しかし、逃げ出しても何度も戻ってしまう、一部の被害者は「私が居ないとこの人は・・・」「私が変わればこの人は・・・」と考える人も少なくありません。これは、共依存による認知のゆがみとも言えるでしょう。
DVから救出して、自立するまでで援助が終わるわけではありません。その先、また同じような関係に陥らないため(子どもとの共依存もあるのです)、ほかのアディクションを起こさないためにも、共依存からの回復は欠かせないものとなるでしょう。
DV問題を考えるとき、ジェンダーの視点だけでなく、AC、共依存、アディクションからの視点、またときには、虐待される(DVを目撃することも)子ども側の視点なども必要だと考えます。それは、被害者を追いつめるのではなく、被害者自身の人生を取り戻す手段になるのです。
*2005.7.13追記
DV被害と共依存については、その後も様々な議論があるようです。上記の文章を書いてからかなりの時間が経ち、付け加えたいことが出てきました。ここからの文章は、主にDV被害者の方に向けて書きます。
繰り返しますが、DV被害を受けるのは被害者の共依存のせいでは無いと言うことをはっきりと書いておきたいと思います。DV加害者が暴力(身体的なものだけでなく)をふるうのは、加害者が被害者を支配するために自ら暴力という手段を選んだからです。
あるパートナーとの間でDV被害に遭い、被害者に共依存だと思えるような症状があるとしても、それ以前に共依存の症状がなかったのならば、その人は共依存ではありません。ただ、恐怖にすくんでいるという状態だと思います。
では、もし被害者がもともと共依存だった場合、どういった時に障害が出てくるかと言えば、「私が悪いから殴られる」「私がパートナーを変えられる」とか「私がいなければ、この人はだめになる」というような考えに囚われて、離れられなくなっている時です。
なぜそう思うのか、私の経験に基づいて書いてみます。
私は共依存症者ですが、DV被害にあったから共依存になった訳ではありません。
このページの前半部分にあるように、共依存は幼少期の親との関係によって形作られます。
最初に暴力をふるわれた時に「私が悪いから・・・」と思い込んでしまったのは、既に子どもの頃から持っていた「私の悪いところをこの人は治そうとしてくれている」「私のことを思っているから」という信念のためです。
つまり、パートナーの暴力という問題を、自分の事と分けて考えられなかったのです。
もし、私が共依存でなければ(あるいは、その時点で自分の共依存に気づいていたなら)早い時期に相手からの支配を感じることが出来たでしょうし、間違っても「暴力による支配」を愛情と混同するようなことは無かったと思うのです。また、本当に殺されそうになるまで逃げなかった(上記のような考えに囚われ、5年間も留まっていました)というような、愚かなまねをしなくても済んだと思います。
私が自分の事を共依存だと認めたのは、ほんの数年前です。もし、DV被害を受けていた当時(15年以上前のことで、今のパートナーではありません)だれかに「あなたは共依存だ」とだけ言われていたら、ひょっとすると「DVは私のせい」だと思い込んでしまったかも知れません。しかし、共依存という言葉の本当の意味をきちんと知り、加害者との境界線を引くことが出来ていたなら、逃げるのはもっと容易だったと思います。
共依存とDVを絡めて書くことで誤解を生じる危険はありますが、一部の私と同じようなDV被害者の方が、共依存の問題を(自分を責めることなく)考えるヒントになればと思います。