Category: 社会・経済
Tweet沖縄戦末期、台湾へ向う集団疎開船が尖閣諸島付近で米軍機の銃撃を受け犠牲者多数を出した「尖閣列島戦時遭難事件」の戦没者のみ霊を慰める遺族会(慶田城用武会長)による慰霊祭が、3日午後2時から市内新川の舟蔵に建立されている「尖閣列島戦時遭難者死没者慰霊之碑」前でおごそかに行われた。
1945年7月、石垣から台湾へ向かう集団疎開の途中、「第1000早丸」と「第5000早丸」が尖閣諸島・魚釣島近海で米軍機の銃撃を受け、第1000早丸に乗船していた多くの人命が失われた。そのうち約70人は銃撃を逃れて魚釣島に上陸、餓死寸前で生還した。
96年3月に故・大浜長義氏を会長に遺族会が結成され、毎年7月3日に桃林寺の慰霊柱前で慰霊祭が実施されていたが、02年に期成会が中心となり、戦没者80人の名前が刻銘された慰霊碑が建立された。
慰霊祭では慶田城会長が「生存者の多くが高齢化し慰霊祭を継続するにはどうすれば良いか検討する必要もある。尖閣の領有権争い、資源争奪問題が平和的に解決し、遺族会が魚釣島で慰霊祭ができることを願いたい」とあいさつ。
大浜長照石垣市長は「60年前だが大変な経験をした方々には先日のことのようで気持ちは穏やかでないと思う。本来なら魚釣島での慰霊祭が行われるべきだが、今後は争いが起きないようみ霊に守ってもらいたい」と述べた。
戦後60年の節目となる今年は本島や宮古、県外からも当事者9人と遺族ら関係者約70人余が参列。本島から初めて参列した生存者の宮良一枝さん(65)は「慰霊碑には家族5人の名前が刻まれており、自分に何かを語りかけているような気がする。当時は6歳で船の中で逃げ回った状況が今でも思い出される」と語った。
参列者らは慰霊碑前で焼香し、涙ぐむ姿も見られた。慰霊祭に引き続き、遺族会総会も行われ、編集が進められている記念誌の状況などが報告された。
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