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女川原発を救った1人の日本人技術者 ニュース記事に関連したブログ

2012/08/21 05:42

 

 

8月20日の日経新聞で、「女川原発の功績と教訓」というコラムがおもしろかった。なぜなら、東日本大震災で、ほぼ同じ高さの津波を浴びながらも、福島第1原発は大惨事を引き起こし、宮城県の女川原発は致命傷を免れた理由が述べられていたからである。

 

それによると、地元出身で、かつて東北電力の副社長を務め、当時は電力中央研究所の技術研究所長をしていた平井弥之助氏が、地震の時の津波の高さが当初約3m(後に9.1mと改定された)と想定されていた時期に、女川原発の立地条件を議論した際、12mで十分だという多数意見に対して、明治三陸津波や貞観地震の記録を考慮すれば14.8mは必要だと力説して、海抜14.8mの敷地に原発を建設させたので、東日本大震災の際、地震で地盤が1m沈下したものの、女川原発は高さ13mの津波にも辛うじて耐えきれたというのである。

 

一方、東京電力福島原発の場合には、設置時はともかく、2006年10月に原子力安全・保安院から、2004年のスマトラ沖地震考えると、福島原発も敷地より1メートル高い津波に襲われた場合、電源喪失に陥る恐れがあるので、津波対策を取るようにと指摘されていながら、無視してしまった。この時の社長は、勝俣恒久氏であった。

 

ここで、女川原発を救った平井弥之助氏と福島第1原発を破壊させた勝俣恒久氏の違いについて考えてみたい。東北電力の元副社長ではあるが、当時は公益法人の所長をしているに過ぎなかった平井弥之助氏は、原発の津波対策に一家言を持ち、OBの技術者として意見を求められたら、それを東北電力に採用させてしまうほどの指導力を持っていたのに対して、ひたすら順風満帆な会社員生活を送り、社長の座まで上り詰め、権力をほしいままにしていた勝俣恒久氏は、「カミソリ勝俣」の異名をとっていたが、肝心なところでカミソリの刃が折れていた。平井弥之助氏を慧眼の士と評するなら、勝俣恒久氏はボンクラ社長と言ってよいであろう。

 

実際、平井弥之助氏は、女川原発以外にも、新潟火力発電所の建設に当たって、軟弱地盤の液状化対策として、当時最大級のケーソン(箱状構造物)を埋め込んだ上に建物を建てたため、新潟火力発電所1964年に発生したマグニチュード7.5の新潟地震を持ちこたえられたというのだ。

 

してみると、危機を救うのは1人の人間の卓見と勇気であり、危機を作り出すのは1人の人間の愚昧と油断、彼を取り囲む大勢の盲従者の無恥なのだろうか。

 

 

カテゴリ: 政治も    フォルダ: 政治評論

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