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朝日新聞よ、中川農水相と慰安婦問題をもてあそぶな
「編集室で」特別版

 −−長い編集後記



大島 信三 (「正論」編集長)


 一点豪華主義で、わが家の食卓は分にすぎる大きさである。新聞二紙を広げられるスペースが重宝だ。朝、時間に余裕があるときは、二紙を並べて興味のある記事は見比べながら読む。自宅で読むのは現在のところ産経新聞と朝日新聞である。この原稿を書いている今日(八月十二日)は社に出勤しないので、二紙を並べてゆっくり読んだ。

 産経新聞朝刊の社会面の隅っこにベタで、「歌舞伎チケット1500枚無くなる」とある。歌舞伎俳優、中村萬次郎さんの弟子が青梅線の車内の網棚に置き忘れ、盗難にあったという。朝日新聞のほうは三段で、「歌舞伎の市川万次郎さん チケット1500枚盗難被害」とある。ン?「万」は「萬」でないと橘屋(たちばなや)の顔が浮かんでこない。これくらいのミスはご愛嬌だが、朝日新聞の記事では弟子ではなく、萬次郎さんご自身が置き忘れたことになっている。一体、どっちが本当なのか。

 こんな単純な出来事でも、新聞によって事実関係が異なる場合があるのだ(あとで確認したら、産経新聞のほうが正解だった)。複雑な事件や歴史認識などがからんでくると、月とスッポンほどにちがってくるときもある。しかし大半の読者は一紙しか読まないのだから、新聞社というのは大きな責任を背負っているのだとあらためて思う。

 報道性においてテレビに抜かれたとはいえ、言論性において新聞はいまも最高権威である。読者に与える影響度は新聞人自身が思っている以上に大きい。多くの新聞は反権力をモットーにしている。それは新聞の長い伝統であり、そのことによって社会のバランスを保つうえで大きな貢献を果たしてきた。しかし情報化社会の進展につれて、反権力を標榜する新聞が、実は権力そのものになってきた。権力というのは政策を決める権限とか、国会に議席をもつとか、許認可を決定するとか、課税するとか、逮捕できるといった公権力だけではない。民間でも特定の人にしかできないところに権力は発生する。いわんや公器といわれる新聞である。日々のニュースを選択し、論評することで世論を形成していく大新聞が権力でなくてなんであろう。

これでは「朝日流ファシズム」

 権力と裏腹なのが傲慢である。傲慢は権力が謙虚さを欠いたときに頭をもたげてくる。慰安婦問題についての中川昭一農水相(四十五歳)の発言をめぐる朝日報道を読んだとき、それを強く感じた。「ちょっとゴーマンじゃないのかな」と思ったのは、たとえば八月一日付の「これで『外交の小渕』か」と題する社説だ。社説のむすびはこうである。

 撤回したとはいえ、このような認識を持つ中川氏は、閣僚としての適格性に欠けるといわざるをえない。まして農水相は、漁業交渉の責任者となる立場である。

 政権安定のための派閥力学ばかりに目がいき、閣僚にふさわしい人物かどうかの判断がおろそかになったのか。だとすれば、「外交の小渕」はいかにも底が浅い。

 要するに朝日新聞は、記者会見の発言内容にかかわらず、中川代議士の農水相就任を否定しているのだ。

 八月二日付の「天声人語」も、「小渕内閣の誕生の仕方には、大いに疑問がある。就任直後に問題発言をするような人物(中川昭一農水相)を閣僚に選ぶ判断力も、いただけない」と書いている。これまた端(はな)から中川氏を「閣僚にふさわしい人物」とはみていない。

 社説も「天声人語」も、「人物」という言い方をしている。使い方がまちがっているわけではないが、私などは閣僚級の人にはとても「人物」という言葉は使えない。どこか見下すような響きがあるからだ。

 ついでにいえば、匿名コラム「天声人語」にときたま「私」という言葉が出てくる。この第一人称は、見るたびに違和感がある。「私」といったって、名前はどこにも出てこない。闇夜のなかで顔の見えない人から、「私の意見を聞きなさい」と呼びかけられたようで気持ちがわるい。どうしても使えたいなら「筆者」とか、なにかほかの言葉を考えたらいかがか。

 それはともかく、自分たちの意にそわない歴史認識を抱く政治家は閣僚にふさわしくないと断罪する姿勢は感心しない。閣僚の独自の歴史観を認めない態度は傲慢にして横暴である。「かくかくしかじかの歴史認識をもつ人は閣僚にしてはいけない」では、「朝日流ファシズム」になってしまう。

 大方の政治家にとって、大臣になることは最大の目標である。そのために艱難辛苦に耐えている。首相や党三役といった組閣にあたる人たちが無用の混乱を避けるため、一部新聞を意識して人選するようなことになれば、与党政治家の大半は似非リベラルになってしまうだろう。

 むろん新聞が閣僚候補者、あるいは閣僚の適格性を論評することはいっこうにかまわない。辞任を要求してもよい。重要なのは、その理由の妥当性だ。

どこが「問題発言」なのか

 そこでポイントは、中川昭一農水相の「問題発言」に問題があったのかどうか、あるいは中川氏の歴史認識が閣僚にふさわしくないものなのかどうか、ということになる。

 最低の人気の下で官邸入りした小渕恵三首相は組閣に着手し、七月三十日、野中広務・新官房長官が閣僚名簿を発表した。認証式を終えた中川農水相は日付が三十一日になった午前一時五十分、農水省で初の記者会見に臨んだ。ひとしきり農林水産行政に関する質問が続いたあと、朝日新聞の農政担当記者が歴史認識について質問してきた。以下のようなものを「ひっかけ質問」という(朝日新聞七月三十一日付夕刊より)。

 

 −−従軍慰安婦に軍の関与はなかったという考えですか。

「いろいろと議論の分かれるような、少なくとも専門家の皆さんがけんけんがくがく議論されていることについて教科書、義務教育の教科書に、すべての七社の義務教育の教科書にほぼ同じような記載で記述されていることに疑問を感じて、いろんな方の話を聞いて一冊の本をまとめたわけだ。強制性があったかなかったかを我々が判断することは政治家として厳に慎まなければいけない。歴史について我々は判断する資格がない。これは最初から我々の基本方針です。ただ、いろいろな方がないとかあるとか言って話が違う。これだけ議論が分かれているものを教科書にのせていいのかなというのが我々の勉強会のポイント。だから事実としてあるということに、我々が信じるに足るような事実がどんどん出てくれば、我々は素直にその事実を受け止める」

 −−現状ではまだ信ずるに足るような事実はそろっていないのですか。

「というか、議論がいろいろとまだ出ている最中だから、教科書に載っけるというような、大半の専門家の方が納得できるような歴史的事実として教科書に載せる、ということには我々はまだ、疑問を感じている、という状況だ。つまり、ないともあるともはっきりしたことが言えない」

 −−慰安婦についての河野官房長官談話は認めないのですか。

「私は今こういう立場である以上は、最終結論が出ていない以上は、内閣のメンバーの一員としては拘束されると思っている。河野談話にも」

 −−拘束はされるが内容についていいとも悪いとも言えないのですか。

「いや拘束されますから、今の段階で悪いとは言えない」

 このとき初めて大臣になった中川氏の気持ちは高揚していたと思う。農水相として初登庁しての記者会見。しかも深夜だ。そこへ所轄外の質問である。そういう状況にかかわらず、中川氏は謙虚に、かつソツなく答えている。こういうひっかけ質問にはノーコメントでかわすのが一番、という意見もある。そのほうが無難なのはたしかだが、私は中川氏のように堂々と受けて立つ横綱相撲のほうに好感をもっている。

 この農政記者は以前から慰安婦問題に関心があったのか。それともにデスクに命じられて、冷や汗を流しながらにわか勉強で質問したのか。あるいは慰安婦担当記者が農政記者になりすまして質問したのか。

 それはそれとして、どこが「問題発言」なのか、このやりとりを何度読んでもさっぱりわからない。朝日記事は、「中川農水相は従軍慰安婦問題を歴史教科書に取り上げることに疑問を呈した」と何度も記事で書いているから、それが問題らしい。 こういうふうな書き方をすると、いかにも中川氏が積極的に発言したようにみえてくる。ひっかけ質問は影も形もなくなって、あとは、やりとりの前後関係におかまいなしにこの部分だけが一人歩きして、ほうぼうで使われていた。

 さっそく有馬朗人文相が、「彼、そんなこと言っているの。残念だ。歴史的事実として証明されているならば取り上げて結構だと思う」とコメントしていた(朝日新聞八月一日付朝刊)。有馬氏が聞かされたのは、さきの部分だけに決まっている。有馬氏は、「歴史的事実として証明されているならば取り上げて結構だと思う」と述べているが、それなら中川氏も異存はないのである。これは記者会見でも明言していることだ。有馬氏がそこまで教えられていれば、こんな恥ずかしいコメントはしなかったと思う。

 また朝日社説(八月一日付)は、中川発言は河野談話への挑戦と息巻いていた。これも噴飯ものだ。中川氏は、内閣の一員として河野談話に拘束されていると述べているのである。

 問題にするほどでもない中川発言に、朝日新聞は七月三十一日付夕刊、八月一日付朝刊でかなりのスペースをさいていた。異常ともいえる扱い方である。

「マッチポンプ愉快犯」の策略

 周知のように中川農水相は七月三十一日正午前、急遽、記者会見を開き、深夜の発言を取り消した。政治家としてはみっともないともいえるが、私はあれでよかったと思っている。無用の混乱が避けられたのだから、賢明な判断だったといってよい。いま日本は一日もムダにできない正念場にあるのだ。それなのに社民党は中川農水相の更迭を要求していた。朝日に合わせて三味線をひいていたこの政党は、こっけいというより哀れである。

 今回の騒動には一つ、救いがあった。四年前の桜井新環境庁長官のケースとはちがっていた点である。あの頃、日本に対して虚勢を張っていた金泳三政権とはちがって、やはり金大中大統領はふところが深い。韓国政府の良識が光った分、火付け役が無様だった、というのが私の率直な感想である。

 読売新聞は八月四日付の社説で「ことあれかし、といった騒ぎかたとは、こういうのを言うのだろう。いわゆる従軍慰安婦問題についての中川農相の発言をめぐって、韓国が反発するに違いないと、わざわざ韓国の反発をそそのかしているような報道がある」と、朝日新聞をたしなめた。この社説の見出しは「『慰安婦』問題をもてあそぶな」。まったくその通りである。拙文のタイトルに拝借した次第である。

 閣僚辞任に進展した桜井事件は日韓両国にとって、なんのメリットもなかったのである。

 村山内閣の頃の平成六年八月十二日、閣議後の定例記者会見で各省庁詰めの朝日新聞記者はメモを見ながら戦争観などを問う同じ質問を各大臣に向けた。本社からのうむをいわせぬ指示である。なかにはいやいやながら聞いた記者もいたにちがいない。終戦記念日を前にして各大臣のコメントを並べようというわけであるが、こういう手法を共同記者会見の場でもちいること自体あまり感心できるものではなかった。

 環境庁の桜井新長官が、これにひっかけられた。国会の不戦決議を問われて、桜井氏は、マッカーサーが日本としてはやむを得ない戦いだったといっていると述べたあと、「日本も侵略戦争をしようと思って戦ったのではなかった、と思っている」と続けた。どうということのない、常識的な意見である。

 その日の各紙の夕刊に桜井発言は報道されなかった。国内で問題になるような内容ではないので、それは当然である。翌十三日の朝日新聞朝刊に、思わず吹き出しそうになるソウル電が載った。韓国外務省の次官補が十二日夕、日本の代理大使を呼びつけ、桜井発言を「時代錯誤的発言できわめて遺憾」と伝えたというのである。

 十二日夕方の時点で桜井さんの発言を知っている日本人は、環境庁の記者クラブにいた人たちぐらいのものである。それなのになぜ韓国の外務省が知っているのか。韓国がスパイを環境庁に送り込んでいるはずもない。朝日新聞の“ご注進記者”が告げ口をしたのである。どうしてそんなばかげたことをするかといえば、読売の社説がいうように韓国をそそのかして日本政府をこらしめようという魂胆であろう。西部邁氏(評論家)の著書にこういう一節がある。

 ジャーナリズムが政治的策略として、情報の歪曲や捏造を行うというのは許しがたいことである。なぜといって、彼はそれが自分の国に及ぼす政治的帰結に対して責任をとらないし、とることもできないからである。そうならば、彼のやったことは私利や私憤に発するとみなしてよく、そして「私利・私憤のために外国に自国の内情を知らせる」ことを売国とよぶのである。

 桜井事件の場合もれっきとした売国行為だが、行為の重大性に比べて当事者の意識はインテリの仮面をかぶった「マッチポンプ愉快犯」といったところだろう。こういう手合いの誘いに簡単に乗ってしまう軽率さが金泳三政権にはあった。金泳三大統領の時代であれば、中川氏はおそらく血祭りにあげられていたと思う。

 微動だにしない(と見えた)金大中大統領に面食らったのは朝日新聞の担当記者。譬えがいささか物騒だが、火をつけた家から火の粉があがらないときの放火魔のアセリに近かったのではあるまいか。なにしろ韓国担当記者のなかには、「元慰安婦」と名乗り出た韓国の反日活動家の娘婿がいらっしゃるのだ。これでは奥方の実家に顔向けができない。

 なお西岡力氏(「現代コリア」編集長)によれば、この自称「元慰安婦」が「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」たという朝日新聞の記事(平成三年八月十一日付大阪本社版)はウソで、実際は貧困による人身売買の被害者だという。

 いずれにしろ「マッチポンプ愉快犯」グループが、前々から中川追い落としを策略していたのはまちがいない。

 深夜の中川発言が予想外に拡大しなかったので、彼らはあせったが、あきらめたわけではない。

 彼らは的を中川氏の歴史認識にしぼって、つぎの攻勢をかけようとしたのではないか。動かすのは韓国政府というより韓国マスコミである。情報を流して火の手をあげる。そういう動きを日本の外務省が察知し、発言撤回の記者会見となったのが真相ではなかろうか。

 なにしろ朝日新聞は、中川氏については腐るほどのデータをもっているのだ。実は、中川氏はずっと朝日の担当記者に狙われていたのである。

ストーカーまがいの行動

 中川昭一氏が標的にされたのは、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」代表であったからだ(大臣就任で代表を辞任)。この会は平成九年二月二十七日、衆参両院議員八十七人が参加して発足した。少なくない人数だ。いわゆる「従軍慰安婦強制連行」が中学校の歴史教科書に記載されることへの疑問が動機となっている。「事実に基づかない、反日的な教科書で子供たちは学んでいくのか。この子供たちが担う次代の日本は大丈夫だろうか」というのが、参加議員の共通認識であった。

 国会議員の研究会としては活発なほうだったようで、同じ年の十二月には活動内容を中心とした『歴史教科書への疑問』(展転社刊)という本を出版した。このなかで中川氏はつぎのように述べている。

 数ある記述の問題点の中でも象徴的なのが、いわゆる従軍慰安婦問題である。ウソと判明した書物と、少数の人達の裏付けのない証言のみを端緒とするこの問題は、一部マスコミや特定の意図を持った(客観性に反する)人々と、一部他国によって増幅され、ついには「国家による強制性」を内閣官房長官(つまり政府)が認めることによって、十三歳から十五歳の中学生のほぼ一〇〇%が使用する教科書に記載されてしまった。

 中川氏は日頃、「わが国の歴史を変えるために、わざわざ外国へ行って扇動することは卑怯である」と述べていた。「従軍慰安婦の強制連行」をなにがなんでも定着させたい朝日新聞担当記者にすれば、面白いはずがない。

 それにしても宮沢内閣が退陣する間際に出された「河野談話」(平成五年八月四日)はひどかった。強制連行を認めた談話には、「われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい」というくだりがある。調べもしないで「歴史の真実」とはよくもいったものだ。ときの官房長官の周辺に知恵者がいなかったのが悔やまれる。

 宮沢内閣当時の軽率談話に、いまなお閣僚がしばりにあっているのは、なんともはがゆい。ブッシュ政権当時の国務長官談話に、クリントン政権が拘束されて困っているといった話は聞いたことがない。その後、石原信雄・元官房副長官が「強制連行の事実を示す資料はなかった」と証言した。内閣外政審議室長もそう国会答弁している。河野談話は根底から崩れたのであり、そんなものを閣僚の踏み絵にする愚はもうやめたほうがよい。

 愚かしい話を続けよう。

 中川氏は、『歴史教科書への疑問』の「はじめに」で、「取材の限りを尽くしながら一切報道せず、あらぬ所で我々を批判し、我々の正面に出てこないマスコミ」と書いている。社名こそ伏せているが、朝日新聞への痛烈な批判であることはまちがいない。

 ストーカーまがいの、書かざる記者につきまとわれたら、だれだって薄気味悪い。この会に朝日新聞の担当記者は欠かさず出ていたという。たぶんテープをとり、配布された資料は一枚残らず持ち帰ったはずだ。それにしても、なぜ取材だけは几帳面に続けていたのだろうか。テープと資料を韓国に横流しするためか。まさか。はっきりしているのは、イザというときのためである。

 テープで思い出したが、本誌に朝日新聞の当時の“花形記者”、H氏を批判する論文を掲載したときだ。ご本人から編集部に電話があって、「即刻、書店から『正論』を回収せよ」とえらい見幕であった。このときも、「この電話はテープにとってある」とすごんだものだ。

 藤岡信勝氏(東大教授)は産経新聞八月八日付の「正論」欄でこう述べている。

 そもそも、慰安婦問題の発端から今日に至るまで、その主役は一貫して朝日新聞であった。慰安婦問題のすべての出発点は、被害者の訴えでもなければ韓国政府の要求でもなく、吉田清治という詐話師の書いた『私の戦争犯罪――朝鮮人強制連行』(一九八三年、三一書房刊)という偽書である。昭和十八年に韓国の済州島で慰安婦の奴隷狩りをしたという著者の「証言」を、朝日は何の検証もせず論説委員が手放しでほめそやした。それがまったくのつくり話であったことが暴露されてからも朝日は、この大誤報についてただの一行の訂正記事も読者への謝罪も行っていない。朝日はいつまで、こうした醜悪・卑劣な「朝日新聞の正義」を貫くつもりなのか。

 朝日新聞の“従軍慰安婦”取材班は作戦をまちがえたようである。中川氏にまとわりついて浪費した時間とヒマとカネを「強制連行」の証拠固めに集中すべきであった。最近の朝日の記事には、「強制連行」という言葉は出てこない。「慰安婦の強制連行」という言い方をいつのまにか「慰安婦への強制性」と言い換えているのだ。

 これは一歩後退というもので、天下の朝日らしくない。「強制連行」をあれだけ打ち上げたのだから、その手前からももっと努力してほしい。いまからでも遅くはない。済州島に飛んで「強制連行」の有無を徹底的に取材したらいかがか。どうしても検証できなかったときは読者にあやまる。そういう潔「いさぎよ)さが権力機関となった大新聞には必要である。

(平成十年八月十二日記)



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