いまや「AKB48」の存在は、子供から老人まで浸透した。メンバー個々の名前と顔は一致しなくても、誰もがAKB48を知っている。プロデューサー・秋元康氏(55)の大人数ユニットという奇抜なアイデアが成功の最大要因だが、そのルーツは1980年代にファンを熱狂させた「おニャン子クラブ」にある。おニャン子の初期メンバーで“元祖秋元アイドル”国生さゆり(45)が当時を振り返りつつ、「アイドル戦国時代」に斬り込んでいく――。
【国生さゆりのニャンたま事件簿(1)】それにしてもビックリしました。あの東スポさんに私の自伝的な連載を依頼していただけるなんて。だって、私も「宇宙人が!」とか「カッパ出現!」とかっていう1面のとき(そうじゃない日も、ですけど)の東スポさんはちゃんと読んでるんです。これって、名誉なことなの? それとも私が宇宙人並みってこと?? ちょっとだけ悩みましたが、とってもすごいことなんだ、と自分に言い聞かせて連載をやらせていただくことにしました。
今でこそ女優業中心で仕事をさせていただいてますけど、芸能界への興味はまるでなかったんです、私。厳しい父親と優しい母親に育てられて、すくすくと成長し、気がつくとスポーツ大好き少女になっていました。小学生のときから特にバレーボールが大好きで、昭和54(79)年に中学に入学すると同時にバレー部の門を叩きました。
ところが! 中学に入学したばかりの私の身長は140センチ台で、アタッカーは到底、無理。アタッカーになれないんだったら、バレー部に入部する意味なんてない。えっ、なぜ意味がないかって? 私は、大ヒットしたスポ根アニメ「アタック№1」(69~71年、フジテレビ系)の主人公・鮎原こずえと自分を完全に同一視していたのです。だから、こずえと同じポジションのアタッカーじゃないとバレーをやる意味がなかったんです。
レシーバーならバレーボールなんて、やめようかな…。こうして私はハイジャンプ(走り高跳び)の選手だった友達に誘われて、陸上部に入部することにしました。陸上なら身長は関係なさそうだし、中学に入って群れることを好まなくなった私の性格にピッタリだと思ったから。でも身長を考えると長距離か短距離か、いずれの種目しかなさそうでした。
長距離も試してみましたが、自分には全然向いていないことがすぐに分かりました(後になって、筋肉の質が短距離向きだったことが判明しました)。だから、残るのは短距離しかありません。短距離の選手になったものの、最初は誰にも勝てない。今から考えるとすぐに勝てるわけがないんだけれど、昔から負けず嫌いの私はそうは思わないから、たちまち練習に没頭しちゃいます。それが6年後のアイドルデビューにつながるとは想像さえできずに…。
※続く
☆こくしょう・さゆり=1966年12月22日生まれ、鹿児島県出身。85年「夕やけニャンニャン」(フジテレビ系)の番組内アイドルユニット「おニャン子クラブ」会員番号8番としてデビュー。人気メンバーとして活躍。86年「バレンタイン・キッス」でソロデビュー。87年4月、おニャン子クラブを卒業し、その後は女優業を中心に活動。現在、情報番組「PON!」(日本テレビ系、月~金曜午前10時25分~)の火曜パネリストとしてレギュラー出演中。