ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
契約の見返り

 寝る場所はひとつしかないのは変わりなく、やっぱり昨晩と同じように寝るようになる。
 いや、今日は、奏の方は固辞したのだ。したのだけれど、だったら自分も使えないと颯人に言われて負けた。
「俺はけが人、でも、お前が家主。お互いそこは折れるって事でいいだろ?」
「折れてるのがわたしだけのような気がするのは気のせいですか?」
「気のせい気のせい」
 くすくすと笑いながら言う颯人の言葉はごまかしているようにしか聞こえない。
 風呂に順番に入って出てくると、二人とも同じ香りをまとっているのにふと気づいてしまい、気づいたら妙に意識して奏がどぎまぎしてしまった。それに目ざとく気がついて颯人はついくすっと笑ってしまう。本当ならさりげなく距離を縮めてさらにその様子を眺めたかったけれどさすがにやめておいた。
 この距離で眺めているのでも十分、かわいい反応でつい笑ってしまうのだから。
 風呂に入りながら一つ増えた約束。
 自分の洗濯物は自分で洗濯機に放り込んでおく。それを朝回して干すのは奏。とりこむのはその時間に家にいるか、早く帰ってきたほう。たたむのは、奏。お互いの洗濯物に関するぎりぎりの譲歩。


「ねえ」
「はい」
 部屋を暗くしてしばらくしてからの背後からの声に、奏はようやくリラックスし始めていた体をまた緊張させて応じた。耳元から聞こえる声は心地よい低音で心臓によくないと思う。
「かたいなぁ。まあ、そこは無理を言ってもしょうがないからだんだんだね」
 そういうところは大人で、やっぱり慣れている感じがすると思えてしまう。なんだかそれにちくりとするものを感じながら、それは気のせいにした。いくらなんでも早すぎる。
「答えたくなかったらいいけど。何で俺のこんな申し出に応じた?俺にはメリットばかり、お前にはメリットになることないだろ?それは契約といえるか?」
「メリットとか、そういうのはちゃんとはかれないんですけど、そういう言葉を嫌がると契約っていうくくりがおかしくなるのは分かります」
「うん」
「わたし、少し前に付き合っていた人と別れたんです」
「……」
 颯人は思わず腕に入りそうになる力を意識してゆるめた。こちらが何気なく聞いているように相手に思わせなければ、と。
「向こうに、他に好きな人ができたんです。……たぶん」
「たぶん?」
 怪訝に思ってつい聞き返す。少し間があって、ため息の最後が少し震えた気がした。
「気持ちが何か変わったわけじゃないけど、でも、友達に戻りたくなった。そう言われました」
「それがなんで」
「たぶん、好きになった相手は、わたしの知っている人だから」
「なんでそれで、たぶんのままなんだ」
「聞いたけど、はっきり言わないから。そうなったのが、わたしが全部悪いとはもちろん思わないし、全部相手のせいだとも思わない。でもやっぱり、わたしに直す部分っていっぱいあると思うんです」
「お前な」
 呆れた気持ちがありありと声に出た。でも、颯人のあごの下で先ほどよりもずっとくつろいだ雰囲気で奏は笑みを浮かべたようだった。
「先輩と一緒にいると、たぶん、自分のなおしたいところとか、自分でも気がつかないで周りにいやだな、と思わせちゃってるところとかちゃんと指摘してもらえると思ったんです」
「……困った子だね」
 不意の言葉は、やけに優しい声で、奏はどんな顔をしているんだろうと見上げようとした。けれどその頭を長い指でなでられて動けなくなる。心地よさと驚きと、恥ずかしさ。
「俺が適当に甘やかすだけ甘やかすやつだったら、お前の希望通りにはいかないぞ?」
「そうしたら、そういう人もいるのか、と学ぶんだと思います」
 まじめに答えたのに、なおさら後ろからは笑う気配。
 思わず子どものようにほほを膨らませて、奏はつぶやいた。
「ベッド、新調しようかなぁ」
「え?」
「もともと、小さいし気に入るのがあったら新調しようと思ってたんです。先輩足出ちゃうし、こうやって寝るんじゃ落ち着かないですよね?」
「え~。別々に寝るためってならいらないよ。せっかく楽しいのに」
「楽しいって」
「それに、三ヶ月契約なんだろ?1個、いらなくなるならもったいないだろ」
「いやいや、だから新調するつもりだったって」
「はいはい」
「先輩っ」
 軽く流されて奏はじたばたするけれど、昨晩に引き続きどうにもならない。これになれちゃったらそれこそ、三ヵ月後にこれがなくなったら眠れなくなりそうだ。母親の胎内から出た赤ん坊が夜泣きするようなもん?
「先輩」
「ん?」
 抵抗をするのではなく、ひとしきり何か思いをめぐらせてから改めて呼んだ奏の声は控えめで探るようで、颯人は思わず顔を覗き込むようにしながら応じた。暗くなった部屋に慣れてきた目は、少し逡巡するようにしてからこちらを見上げるようにした奏と目が合う。
 驚いて視線を戻した様子を眺めながら、つい従いたくなる衝動を押さえ込んだ。いくらなんでも今やったらおびえられる。それに、ひくだろう?せっかく見つけた居心地のいい居場所。手に入れた場所。
「わたし、もともと明日有休とっていたんです。まだ傷痕は分かりますけど、良かったら出かけませんか?」
「なにをしようと思ってたの?」
「一人で映画、見に行くつもりだっただけです」
「……そうしたら、俺の必要最低限のもの、取りに行くのに付き合ってもらっていいか?その後、一緒に映画見よう」
「あと、夜、約束があるんです?」
「外食?飲み会?」
「うちで、なべ会」
「なべ?」
 颯人の声が思わず大きくなった。いやだって、この季節に?
 それは言わずとも伝わったようで、奏は少し言いにくそうにふてくされたような声になる。
「この間少し涼しくて。で思い立ったんです。友だちが来るけど、いいですか?一緒に夕飯でも」
「向こうはいいの?」
「大丈夫です。……大学の友だちなんです」
「ああ。俺のこと、知ってるのか」
「わたしが知ってるくらいですから。自慢することじゃないけど、わたし噂とか疎いんです」
「分かる気がする」
 笑いながら言ってから、颯人は腕の中の細い肩を包むようにしながら自分の方に引き寄せた。じりじりと無意識か意識的にか離れていっている。これでは落ちてしまう。
「いいよ。お前が大丈夫だと思うから聞いてるんだろう?」
「先輩こそ、わたしのことそんなに信用していいんですか?」
「あの状況で手を差し伸べてくれて、その上信じてくれる相手を信じなくて誰を信じるんだ」
「……」
「とりあえず、明日は初デートだな」
「なっっ」
「まさか奏の方から誘ってもらえるとは。うれしいよ」
 本心から言ったのだけれど、どうもこの手の台詞は契約のうち、と思われてしまうようだ。颯人はそれに気づきながら少しだけ身を起こした。
「なあ、ちょっとだけいい?」
「ちょっと?」
 なんのことか分からない、というように首をかしげた奏の目は、きちんと颯人の目と合っていて、たぶんそこに浮かんでいる色は見えたはずで。正確に読み取れなかったとしてもなんとなく感じるところはあったはず。
 拒絶はない、と読み取って、颯人はそっと額に唇を落とした。
 触れるだけ。
 それだけでも驚いたような顔。
 でも、嫌悪も拒絶も、咎める色もない。
 やけにほっとしていることに驚いた。
 自分まで、なんだか恋愛を初めてきちんとしているような気分になる。
 颯人は驚いたまま固まった奏の額を撫でて、また枕に頭を落とした。
「さっきのベッドの話。離れて寝るんじゃなくて、二人で寝るのにちょうどいいサイズならいいかもな。昨日も言っただろう?離れないでって」
「……覚えてるんですか?」
「今も思ったから、思い出しただけ。やっぱり言ってたか」
 女に弱音を吐いて、自分をさらけ出すなんて前代未聞。でも、悪い気はしない。
「おやすみ、奏」
「……おやすみなさい」
 なんだかまた、丸め込まれた気がする。
 そう思いながら、また、耳元の心地よい心音と、背中を預けている安心感でぐっすりと眠る。
 不思議なくらい。
 あの日。別れを告げられた日。
 ううん、それより前。なんとなく、察し始めてから。食欲がなくなって、睡眠もあまりちゃんととれなくて。
 全然どんな人なのかまだ分からない。何をしている人なのかも。
 でも、少なくとも今、自分に見せる姿は優しくて。奏のモットーは、自分に見せてくれる姿が、その人が自分に見せるほんとの姿。嘘はない。知らない姿は見せていない、知らないというだけ。
 だから、優しい人。
 非日常に突入したからなのかもしれないけれど、この人がいると食べられるし、よく眠れる。
 それだけでも、申し出を受けた意味があるくらい。おつりがくるくらい。





+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。