契約締結
期間は3ヶ月間。11月末日までとする。
その間、一方の都合により契約を終了したい場合にはその旨を申し出、契約満了時と同じ手続きをすることで良しとすること。
契約満了時には、鍵の付け替え費用を渡すこととする。
「それだけ?」
奏が適当に書いて見せた内容に颯人は拍子抜けする。もっと細々とした指定があるかと思った。何せ、期間限定とはいえ「恋人」ということになるのだから。
ああしろ、こうしろ、あれはするな、など。
「あとは、わざわざ文字にしないでも約束事でいいんじゃないかな、と思ったんですけど。何かあと書いた方がいいですか?」
「……むしろ、そんな風に言葉だけでありなら書面にしなくてもいいんじゃあ」
「これは、わたしがこれは契約なんだからって確認するための道具なので。いいんです」
「まったく。なにがそんなに臆病にさせるんだか」
ぼやくように言った颯人の言葉に、奏は少し目を伏せる。
何の理由もなく、それほど臆病になるとは思えなくて言った言葉だったけれど、言われた方にしてみれば思い出したくないことにつながる言葉だったと颯人は気づく。
「ちょっと気になっただけだよ。お前ね、もっと俺のこと疑わなくていいの?」
あっという間に呼び方が「お前」だな、と気づいて奏は少し笑う。
いやではなかった。むしろ、その親しげで穏やかな口調がうれしくもある。契約だから?と早速思ってしまうけれど。でもきっと、どちらにしてもこの人は、やろうと思えばいくらでも、女性に対して相手が望むとおりにしてあげられる人。それができるのに、そうしなくても女性が周りにいつもいるような人。
学生の頃噂に聞いたのは、そういう人で、数えるほど見かけた時は、その噂通りの様子だった。
「疑いませんよ」
「言い切るか」
「わたしね、こう見えて人を見る目は少しだけあるんです」
「人を見る目があるやつが何でそう、恋愛に臆病?」
さっくりと痛いところを突いてくる。
颯人の方も、それが分かっていて言っている節がある。だから、少し軽い口調。
「男を見る目はない、って言われます」
「おい」
「でも、親しくなりたいな、と思う人を見分ける目はあるんです。この人、大丈夫、って。単に人見知りするから、自分が大丈夫だと思える人が少なくて、平気な人しかそこまで近づかないせいかもしれないですけど」
「……ひとつ、言っていいか?」
「?」
ため息をつきながら言う颯人の言葉に、奏は無言で首をかしげ、隣に座る颯人の顔を見上げる。
床に座っていて、立っているよりも顔が近い。
その、これが「きょとん」とした顔か、と思うような表情に、颯人の方はさらにため息をついた。
無防備すぎる。
確かに、冗談のように持ちかけた交換条件の恋人関係だけど。それでも好感が持てる相手じゃなきゃそんなことは持ちかけない。というか、こんな状況でも世話になろうなんて思わない。傷が治ったら出て行って、適当にいくらでもできる。
それなのにあんなことを持ちかけたのは、この場所の居心地の良さが今までに知らなかったもので、そしてなんだか、目の前にいるこの子を無性に気に入ってしまったから。
「男を見る目はないって、俺は?」
「どうなんでしょうね?」
困ったような顔をする奏にがっくりと肩を落としてしまう。
反射的な動きで、自分でも颯人はびっくりした。けれど、奏の方はそれを見てなんだかくすくすと笑っている。
「この人は大丈夫、って思ったから昨日の夜、うちに入れたんです。だから、スタート地点は大丈夫。男の人を見る目がなかったとしたら、それは契約とか関係なく、わたしが先輩を男の人として好きになっていて、やっぱりだめだった時に出る結論なので、分かりません」
「じゃあ、男を見る目がないって汚名返上できるようにしような」
そこにある含みの正確なところは分からず、ただ、なにか含みがあるような気はして奏は素直にうなずけないまま、曖昧に首をかしげるにとどまる。
そんな仕種に笑いながら颯人はぽんぽんとすぐ近くにある奏の頭を撫でた。
「とりあえず、傷が目立たなくなったら俺も昨日の夜言ったとおり、再起するのに動き始めるし。まずは恋人らしい約束事で、ご飯がいるいらない、夜帰る時間は必ず連絡することってのはどうだ?」
「……約束事ってことは、契約書に入れなくてもいいんですよね。じゃあこっちはこれでOKでいいですか?」
ふいっと目を逸らして契約書に目を向けながら言った奏の横顔が、今まで見た中で一番表情がなくて。なるほど、これが照れ隠しの表情かと颯人はすぐに察して笑ってしまう。
「いいよ。約束なら、必要な時に増やせばいいし」
「約束、増えすぎると面倒ですよ」
「必要ないなと思ったらなしにすればいい。ちゃんとお互いに言ってね」
「……なんかそういう約束とか、縛られたくないタイプだと思ってました」
「あたり」
じゃあなんで、と首をかしげる奏に、颯人は奏に手を伸ばしながらとびっきりの笑顔を向けた。伸ばされた手は、奏が顔を逸らせないように両頬を挟んでいる。
「こんな新鮮な反応してもらえるならいくらでもするさ」
「っっっっ悪趣味っっ!」
逃げ場を失ってやっと言った奏の言葉に、颯人は声を立てて笑う。
居候なのに。昨日の夜、あんな状況の時に初めて言葉を交わしたというのに。なんて居心地のいい子なんだろう。
うっとうしいと思うくらいにいつも自分の周りには人がいて、一人になる場所がほしくて。人に囲まれているか、一人でいるか。二者択一でずっと来た。人に囲まれているというのは、こういう相手と自分が知り合うきっかけを見事に排除していたのかもしれない。そういうところに、自分が知らなかった、知らずに来てしまったものがいろいろ転がっているのかもしれない。
颯人はふとそんなことを思って、そして、あまりにもあっさりとそんな感想になる自分がおかしくなる。そんな風に素直に感じてしまうのは、確実にこの子の影響だ。
颯人が、昼はせっかく奏が作っていったらしいめんつゆを見つけたからうどんにした、と言うので、夕ご飯はカレーにした。作り置きのカレーとご飯をざっと混ぜて、チーズをのせてオーブンで焼く。
焼いている間にサラダとスープを簡単に作った奏に颯人は拍手をした。
「お見事、手際いいな」
「最初のうちだけですよ。わたし、料理得意じゃないですから」
「そう?おいしいけど」
「っっ」
褒められ慣れていないのか、ぷいと目を逸らした奏を微笑むようにして見てから、颯人は少し考えるようにして、そしてやはり思い直して手を伸ばした。
確認するなら最初のうち。そう思ったのと、そうしたいと思ったのを我慢するのもやっぱり自分らしくないと思えて。
オーブンから取り出そうとしている奏の手を背後から自分の手を伸ばして握り混んだ。そうして、危なくないようにしてからもう片方の手を腰に回して引き寄せる。
完全に不意打ちで、驚いて固まっている奏を、包むように背後から腕の中に抱き込んだ。
「こういうこととか、恋人同士ならあるかもしれないことは、契約のうち?契約外?」
「っっ知りませんっ」
ポーカーフェイスもできず、力でかなうはずもなく、しかも仮にも昨日奏が指摘したとおり武道を身につけている颯人になおさらかなうはずもなく。ようやく言い返した奏の言葉に、颯人は奏から見えない背後で不敵に笑う。
「知りません、はだめだよ。お互いのことだから。奏が絶対にいやだって言うなら、従う。俺は今、奏にこうしたいと思ったからしてる。でも、どちらかが絶対にいやだというのにすることじゃない。恋人だとしてもね。どう?」
「……そんなこと、今聞かれても分からないです」
やっと聞こえるような、だんだん小さくなる声で言われて、颯人は満足げにくすくすと笑いながら、腕に一度力を込める。
そうして解放してから、奏の背中を押して食事が並んでいるテーブルの方に行かせた。
「今、こんな熱いもの持たせるわけにいかないな」
代わりに運んでやりながら、まだ立ったままの奏の手を引いて座らせながら、にっこりと微笑んだ。
「契約は関係なしで。普通の恋人同士と同じ。ってことでOK?もし俺が何かしようとして、お前が本気でいやがったら、ちゃんとやめてやるよ」
「……先輩がわたし相手にそんな気になるなんて、想像もつかない」
ぶつぶつというちょっと卑屈な言葉の中に、照れは読み取りながらも颯人は軽くこづいた。
「恋愛の練習台、として減点。あくまで、相手によりけりだけど、俺はなんとなく、こっちが否定されてる気分になってうれしくない。拗ねてるみたいなのはかわいいと思うけど」
とっさに驚いたように、一瞬見せた照れる表情を隠してから、奏は俯いた。
「ごめんなさい」
「あやまらなくていいよ」
一緒に食事を始めながら、やっと先ほどのパニックから復活してきた奏は、感心したように颯人を見た。
「ホントに教えてくれるんですね。というか、先輩がそんな風に甘いこと言うとは思いませんでした。なおさら周りが放っておかないわけですね」
心底感心したように言う奏を少し見てから、小さく颯人が浮かべたのは苦笑い。
今までこんな風に接した相手なんて、記憶にないとは言わないでおこう。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。