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一晩明けて


 何か機械が低音で動くような音で颯人は目を覚ました。見慣れない場所。というか、いつもと全く寝心地の違う小さなベッド。
 そうしてようやく、昨日のことを思い出し始める。
 そんな風にしている自分に驚いた。
 自分からやったことだが、同じベッドどころか、同じ部屋に他人がいるだけで熟睡できた経験はなかった。眠りは浅くて、ほんの少しのことで目が覚める。
 はずなのに。
 腕の中に抱え込んでじたばたしていた人は、いつの間にかそこから抜け出して動いている気配がする。
 奏もまた、目を開けて一瞬、状況把握に手間取ったものの、すぐに思い出してなんとかそっと抜け出すのに苦心した、のは颯人の知るところではない。
 うまく抜け出したおかげで、颯人の方はそのまま眠り続けていたのだから。確かに、前日のハードな状況で体の方がまいっていたのもあるだろうが、その分脳は普段以上に警戒心たっぷりで活性化していたはずなのだが。
 昨晩は自分の方もあの状況下で興奮していて自分の体の状態を正しく把握できていたとは限らない。手足、指、少しずつ確認をしながら颯人は体を起こした。やはり、骨などに異常はないようだ。
 その気配に、姿が見えなかった奏が顔をのぞかせた。まだ戸惑っているようで、うかがうような表情。
「あの、朝ご飯、普通に食べられますか?それとも、おかゆか何かの方がいいですか?」
 口の中は万全とは言い難い。けれど、それ以上に空腹感がある。
「普通で」
「分かりました」
 頷いてまた顔を引っ込めてしまう奏を慌てて呼び止めた。昨晩の取り引きのことなんかなかったかのような、態度に思えた。
 たまたま居合わせた先輩を文字通り止めただけ、のような。
「奏サン?」
 その呼び方に首をかしげて奏がまた顔を出す。
「ちゃんと昨日の話、覚えてる?」
「……覚えてますよ」
 不承不承、というように頷きながら、奏はまた引っ込んでしまった。
「先輩、もう少し休んでてください。わたし、今日も仕事あるので、ばたばたしてますけど。ご飯の支度できたら声かけます」
 そうか、平日か、と思いながら、こちらがいないかのように振る舞う奏の動く気配を気づけば追っていた。手伝おうか、と言おうとしてやめる。この体でやろうとしたらなおさら気になってしまうと言われるだろう。
 家事をしている異性を前にして、手伝おうか、などと思ったことはなかった。
 いや、そもそもこんなにぐっすりと眠ったこともない。


 目を覚ましてくれた機械音が洗濯機だと分かり、そして、当たり前のように洗濯したものを奏が干している中に自分のものを見つけて颯人は慌てて動いた。
 体が痛んだが、それよりも。
「それっ」
「ああ……洗っておきました。切れてるところとかあるので、もし処分するなら自分で処分できるようにしておいてください。さすがに人のもの、勝手に処分できないので」
「洗濯はできても?」
「?はい」
 不思議そうに頷かれて、颯人は諦めた。こんな子は初めてだ、本当に。
 本当は奏の方も、さんざん逡巡した挙げ句に、やるのは洗濯機だ、と放り込んで、そして突っ込まれて照れていたのをなんとか押し隠した、なんて知られたくもない。
 豆型の小さなテーブルに並んだのは白いご飯と味噌汁、卵焼きと焼き魚におひたし、納豆、漬け物といった、手の込んだものではなく飾り気もないもの。
 当たり前のものがひどくおいしくて、口の中の痛みも気にせずに颯人は奏と並んで食べた。自分が食べる様子をほっとしたように見ている奏に気づいて、颯人は少しだけその箸を止める。
「どうした?」
「お口にあって良かったなぁ、というのと、それだけ食べられれば、本当に大丈夫なんだな、といろんな意味でほっとしてました」
 さらっと言われて、颯人はまじまじと奏を見つめてしまった。気づかないはずはないのに、奏はそれに目を向けずにぱくぱくと食事を進めていく。自分に比べてずいぶん量が少ない。
「俺がいるから食料の予定、狂ったか」
「え?ああ、違います。わたし、そんなに食べないですよ。男の人の食べる量とか、朝からどのくらい食べれるかとか分からなくて、とりあえずあるものでできる範囲で作ったので。で、自分の分は食べられる量だけ」
「ありがとう」
 そう言って、ふと笑う颯人に目をやって、慌てて奏は目を逸らした。不意打ちでそういう顔を見せられるとどぎまぎしてしまう。
 慣れていないんだからやめてほしいなぁ、と思いながら、この人がもてる理由が分かる気がする。見た目はもちろん良くて、その上、当たり前のようにそうやって自然にお礼を言ってくれたりする。言われる方が照れるほど自然体で。
 そういう姿が珍しい、というか、まずないものだとは奏は知らない。
 さっと片付けをして、出かける準備をしながら奏は颯人に口早に言った。
「とりあえず、わたしは仕事に行きます。お昼は、冷凍庫に冷凍うどんがあるし、ご飯も残ってるし、作り置きのカレーとかもあるので、適当に食べてください。すみませんが、鍵がないし昨日の今日なので、一日家の中にいてもらえますか?あと、救急箱はここ。傷口、もう一度ちゃんと見といてください。今朝見ようと思ったけどできなくてすみません」
 まだ何か言おうとするのを、颯人は苦笑いで止めた。
「大丈夫だよ。行ってらっしゃい」
「……いってきます」





 誰かに「行ってきます」と言って出かけるなんて久しぶりだったな、と思いながら、残業なしで切り上げた奏は、両手いっぱいの荷物を抱えて家に戻った。
 鍵を開けて、ドアを開けるのに手間取っていると中から開く。呆れた顔の颯人が奏の荷物を見下ろしていた。
「携帯の連絡先の交換もしてなかったけど……そんなに買い物あるなら帰ってきてからもう一度出れば手伝ったのに」
「帰ってからまた出るの億劫で」
「昨日は?」
「珍しく出かけたら先輩拾っちゃいました」
 笑って応じた奏の顔から思わず颯人は目を逸らす。荷物を置きながら颯人を見上げた奏は、媚びるわけではない上目遣いでまっすぐに、無防備な笑顔を向ける。
 そういうのにどう対処すればいいのか、颯人ですらとっさに照れてしまった。
 「先輩」はいらない、といったのに、「先輩」だけ残っちゃったなぁ、とぼやきながら、奏の荷物を受け取って首をかしげた。
「これ」
「適当に。洗いながらサイズを見たので多少買ってきました。これで出歩けますよね。もう少し、傷が目立たないくらい治ったら買い足すなり取りに行くなりしましょう」
「取りにって火事で」
 にこっと笑って奏は颯人の横をすり抜けて中に入る。
 じゃあ、食事の前に一日経って落ち着いたところでお話ししましょう、と奏が促すままに颯人も座った。
「先輩は、住む場所も仕事もない、いた場所に戻れない、とは言ったけど、無一文、とは言わなかった。ってことは、確かに火事にも遭ったんでしょうが、先輩の住んでる場所は一カ所ではなくて、ただ、そういうところにはすぐには戻れないだけなのかな、と」
「……」
「だから、火事に遭ったという割にそこまで慌ててないのかな、と思って。大事なものは無事だってことかな、と。ついでに、相手にしなかった女性の逆恨みと入っていたけど、相手にしていた女性たちはいたと思うので、そこに行かないのも、そのあたりは知られていそうで危ないけど、このタイミングまで接点のなかったここなら安全ってことかな、と」
「それは違う。行く気がするような場所がないんだ」
 慌てて言った言葉は正直すぎて、奏の笑いを誘った。
「さっき否定しなかったってことは、おうちは一カ所じゃないのは図星なんですね」
「かなわないな」
 降参、というように両手を軽く上げた颯人の仕種に、奏は笑いながら、手元の鞄から小さな袋を出した。
「これ、合い鍵です。約束した期間、使ってください。その前に出て行きたくなったらそれもOKですが、黙ってはやめてください。先輩が出て行く時に家の鍵、付け替えますから」
「徹底してるな」
 事務的な調子に勝手なことながら寂しくなって、少しむっとした口調で言うと、伝わったのか奏が一瞬怯えたような困ったような顔になる。それでも、先を続けた。
「わたし、臆病なんです。だから、先輩がいることに慣れちゃうと、いなくなることが決まっているのにいなくなってから寂しくなりそうなので、先に予防線張らせてください」
「予防線?」
「契約書を交わしましょう」
 思いがけない申し出に、颯人は本格的に呆れた。
 不愉快さや、不快さはない。
 面白い子だなぁ、と思う。
 ただ、いつの間にか気に入ってしまっていて、だから書類のやりとりではっきりさせようというのはすごく気が進まなかったが、そういう、こちらの弱みにつけ込んだりそこから取り入ろうとしたりしないところがまた新鮮で面白い。
「どんな契約書かを見てからだな」
「今から一緒に作るんですよ」
 けろっと言われて、颯人は今度こそ笑ってしまった。
 こちらの方がはるかに弱い立場のはずなのに、なんてフェアな、悪く言えば要領の悪い子なんだろう。




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