期間限定恋人関係?
奏の肩を借りてなんとか奏の部屋までたどり着いた颯人は、玄関で座り込んでしまう。細い肩は体重をかけるには申し訳ないようで、けれどそれがなければ思うように歩くことも今はままならない。
「先輩?」
座り込んでしまったのを奏はのぞき込むようにした。
無防備な様子に颯人は思わず出そうになった言葉を飲み込んだ。普段の自分なら絶対に浮かんでも来ない台詞。そして、今この状況で自分が言えた立場ではない、不用心さを叱る言葉。
「このまま入ると汚す」
「いいですよ。掃除すればいいんですから」
「一人?」
聞かれた意味を小首をかしげて少し考え、奏は頷く。
「一人暮らしです」
「一人暮らしの女性にいきなり言うことじゃないけど、シャワーを借りられるかな」
「え……でも」
「怪我なら大丈夫だ。それに、汚れを落とした方が衛生的にはいい」
なるほど、と納得するしかない言い分で、玄関を入ってすぐの風呂場を示す。脱衣所にタオル類を置いていると、なんとか一人で立ち上がってきた颯人がその様子を見ていた。
どうしていいか分からず、奏はとりあえず颯人がシャワーを浴びている間に一度鍵をかけて出かけ、近所の24時間営業のスーパーで男物の下着とTシャツ、それにジャージを大急ぎで買って帰った。
まだシャワーの音がするのにほっとしながら、脱衣所の閉まったドアをほんの少しだけ開けてそれらを滑り込ませる。
タッチの差で出てきた颯人は、そこに置かれたものを見て軽く目を見開いた。下着は明らかに買ったばかりで袋に入ったまま。
ただ他のは、と。
生憎自分のものはもう着られる状態ではないからとそれを着て出る。ジャージは颯人には丈が短かった。
汚れが落ちてみれば、なおさら傷痕は痛々しくて、ただ本人が言うとおり大丈夫なのかもしれない、とは思える。薬箱を探し出して待っていた奏は、見上げてそう思った。
促されるまでもなく沈み込むように奏が差し出したクッションに沈み込んだ颯人の傷を奏は顔をしかめながら手当てしていく。血も、傷も苦手だ。
「これ、彼氏の?」
不意の問いかけに何を言われているのか分からずに顔を上げた奏は、颯人にはサイズの合わないジャージに目をやって慌てて首を振った。
「そんな人、いません」
「いたらこんな風に招き入れてもらえないか」
「いてもけが人放置はしませんけど。それは、今慌てて買ってきたんです。サイズが分からないのもあるけどよく見てなくて」
慌てたのと、恥ずかしいので。
とは言わないけれど、颯人は察してくすりと笑う。
その気配に、むっとして奏は少し雑に消毒液を傷口につけた。さすがに顔をしかめた颯人を見て少し溜飲を下げる。
慌てていたのだ。
そもそも颯人を見つける原因になった冷凍うどん。よくぞあのテンパった状況で思い出したと自分を褒めたい気分だ。思いだしたと言うより、買い慣れないものは置いてある場所も分からなくてうろうろしている間に冷凍物の前を通って思い出しただけだけれど。
「君は、何で俺を知ってるの?」
「わたし、颯人先輩と同じ大学出身なんです。先輩、有名人ですから」
「ろくな有名人じゃないな」
皮肉に笑った言葉は、あえて否定しない。
不特定多数の女性とつきあいがあるとか、特定の人を作らない代わりに、とか、いろいろ。
そんな噂も仕方ないと思えるような人だった。頭も良く、運動神経も良くて、挙げ句ルックスは非の打ち所がない。奏には縁のない世界の話で。
「噂しか聞いたことがなくて、直接は知らないのでわたしは颯人先輩の名前と顔を知っていただけです」
そう言って、最後の傷を消毒し終えると奏は薬をしまう。
その言い方に颯人は面食らったような顔になった。俯いていてその顔に気づかない奏は、無頓着な様子で手元を片付けてさらにそれをしまいに立つ。
そう言えば待っている間に化粧は落としたようで見事なすっぴん。
媚びる様子もなく、淡々と、ただ見つけてしまったけが人に手をさしのべているだけ。
きっとそれが颯人でなくても、つまり自分のような外見や評価を得ている相手でなくても同じことをするんだろう。
新鮮な思いで、その「後輩」を眺めていた颯人は、ふと思い出したように「でも」と言いながら振り返った奏の不思議そうなきょとんとした顔に眼を細めた。
「颯人先輩、なんか武道とかやってるって噂もありましたけど、デマですか?」
「やってるからこそね、やりかえせないんだよ」
「ああ、なるほど」
でも、やっていてもそんな怪我をするような状況って、何があったか聞いてもいいですか?
拾った恩を売るわけじゃないですけど、ってこれが売ってますね。なんて楽しそうに笑いながら尋ねる。
あまり話したい事情ではなかったが、なんだかこの子には聞いてほしいと思ってしまった。
自分の甘さ加減を。
かいつまんで颯人が奏に話したことをまとめると、仕事で信頼していた相手に裏切られ、相手にしなかった女に恨まれてけしかけられたらしいヤツらに絡まれての怪我。そして、煤はそんなタイミングで住んでいたマンションが火事になった、と。
「……おうち、ここから近かったんですか?」
「……いや?」
「あ、まさかそれも颯人先輩が狙われた?犯罪ですよ。まあ怪我してるから既に傷害罪なんですか?しかし、そこまでされるって何したんですか」
「待て待て。火事は偶然だ、偶然。下の部屋でたばこの火の不始末で出したんだ」
「なんだ」
なんだ、って……。大体、この話で聞き返すのはそこか?と思わずぽかんとしてしまった。
なんだかこの子といると気が抜ける。
「火事が真下の部屋だからいられなくなって、とりあえず出たところを襲われたんだ」
「あぶりだされた?」
「君ねぇ……」
何かをしでかした罰なのかと思うほどに悪いことが重なって、緊張と不信感でどこにも行き場がなかった。
それでふらふらしていて力尽きた場所。
だったはずが、なんだ、この緊張感のなさは。
深刻な話のはずなのに。というか、火事は偶然だったとしても、あとの二つは確かに自分にも原因がある。自分の甘さや、あとは態度か。なのに、自分に火がないと言い返せる一点を、天然なのか計算なのか狙ったようについてくる。
「完璧人間の颯人先輩にもそんなことあるんですねぇ」
「完璧人間って……噂を聞いてたんなら、やっぱり噂は本当で自業自得だとでも、女のくだりは言われるかと思ったよ」
「いや、悪いことって重なるって言いますけど、それにしても災難ですねぇ」
「まあ、再起のめどはあるけどね」
「……なるほど。颯人先輩が完璧人間なのは、へこたれないからなんですね」
「へこたれない」
あまり、自分を評するのに聞いたことのない単語だ。
「あ~、んっと。前向きというか、先をちゃんと考えているというか。自分がちゃんとやっている結果なんだなぁ、と思って。うまく言えないですが」
言葉がなくて、まじまじと見つめてしまった。
平気ですっぴんをさらして、それでも何となく自分がいることでの緊張はあるのか、微妙な距離。彼氏はいないと言っていたがそもそも男慣れしていないのかもしれない、と観察しながら、知らず颯人の口元には笑みが浮かんでいる。
「なあ、名前は?」
「……やっと聞きましたね。知らないなら知らないままでもいいかな、と思ってたんですが」
笑って答えた奏に、颯人は今の自分の体でできる範囲で居住まいを正した。
気づいて奏も背を伸ばす。
「そんな事情で、今住む場所も仕事もない。というか、いた場所に戻るのは危なくてしばらくできない」
「はあ」
「拾ったよしみで、そうだな……3ヶ月、おいてくれないか?」
「は!?」
面食らった顔に無頓着な様子で颯人は言う。
名前を聞かれないでもいいと言ったのは、今はこんな時間だし動けないようだから助けるけれど、あとはどこでも行く場所があるだろう、とこの場限りだと思っているということ。
恩を売る気も、貸しだという気配もまったく見せない。
考えてもいないんだろう、本当に。
「その間にあんたに彼氏でもできたらちゃんと出て行くし。というか、どうも男慣れしてなさそうだし、練習台になるよ、恩返しに」
「な、な……なにを」
言葉にならない音をようやく言葉にした奏は、何を自分は拾ってしまったのかと目の前の無精ひげでもやっぱり極上のイケメンを見つめる。
普通にこんなのが近くにいたら緊張して仕方ない。
なんだか今は緊張そこまでしてないけど。
それに、今、というかしばらく恋愛はいい。
男慣れしていないと見抜かれた。
していないだろう。
つきあった相手がいないわけじゃない。
でも、どうしていいか分からない。どこまで我を出していいのか分からない。自分の考えをうまく伝えることができない。
それはまさに今も。
ただ、少し前に失くしたものが、今も疼くのに。
練習なら、失敗しても伝え方や、距離を間違えても教えてもらって直せる?
そして、今も疼くこれをおとなしくさせられる?
奏の気持ちの動きを読んでいるように、じっと様子を見てた颯人は、さっきの無頓着な様子と違って、優しい目になった。
「練習台は冗談だよ。奏ちゃんの反応が新鮮で面白くて、そうだったらいいなと思っただけ。ただ、ここにしばらく置いてもらいたいのは本音だ。無理を言っているのは分かってる」
初めて名前で呼ばれて、しかもそんな優しい顔と声で。奏がどきっとするのも無理はない。相手は恋愛上級者の颯人。片や恋愛若葉マークのようなもんの奏。
「……いいですよ。狭いですけど。期間限定、恋愛のご指導いただけるということで、宿と食事提供します」
「やっぱり面白いな、あんた」
心底面白そうに笑った颯人はうっかり怪我に障ったらしく、顔をしかめている。
その様子に慌てて奏は颯人にベッドを示した。
自分でちょうどいいくらいのサイズの低いベッドは颯人には小さい。それでも、けが人を床で寝させるわけにもいかない。
颯人の方も、もう限界まで来ていた。
それに加えて、思いがけず安心できる居心地のいい場所を得られた。それにほっとして、もう座っているのも辛い。
勧められるままに横になると、やはり足が出てしまう。
気遣わしげにのぞく奏を颯人は手招きした。
素直に応じる奏の手首を握る。
最初に呼び止めた時にも感じた、細い手首を颯人は引き寄せた。
「は、颯人先輩??」
驚いてじたばたする奏は、いたたたたた、と声を上げられて固まる。
それでまたくすくす笑いが背後から聞こえてきた。
ベッドの上で、颯人に背中から肩と腰をホールドされて抱き枕にされている状態で、奏の方はもう固くなってしまっている。
「まず、先輩はいいよ。奏」
呼び捨てにされたことにまたどきっとしながら、肩を抱き込んでいる颯人の腕に手を添える。無理に抜けようとすれば本当に傷が痛むだろうが、この状態は緊張して仕方ない。
そして、振り返れば確実にあのきれいな顔が間近にあってとてもじゃないが正気もポーカーフェイスも保てる自信はない。
「あと、離れないで……」
呟くような声は、尻すぼみに消えてしまう。
それはほとんど、寝入るところで出た本音のようで、先ほど自分が考えたことも忘れて奏は振り返ってしまう。
きれいな顔は呆れるほどの寝付きで寝息を立てている。
それでも腕の力は変わらず、うまく抜け出せるとは思えない。
この状況で寝るの?寝るしかないの?
でも話を聞く限り、とんでもないこと続きで緊張を強いられて。よく分からないけれど信用をしてもらえたらしくて、一人にはなりたくない、ということ?
一人じゃない実感のための、この状況?
とても眠れないと思っていたはずなのに、規則正しい寝息と、身近に感じる心臓の響きと人肌のぬくもりが緊張の後に妙に安心感を与えてくれて、気づけば奏も眠っていた。
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