以前出た馬鹿女を超える勢いのお馬鹿後輩が登場。
行為の描写はありませんが、やたらと『全裸』という言葉が出てきます。
思考が停止する、とはこんなことを言うのだろう。
まるで他人事のように頭の隅でそんな声がする。
【風邪をひいた】
そんな簡潔極まりないメールを貰い、それならと簡単な材料を揃えて訪れた彼の部屋。
部屋の主はキングサイズのベッドの上で熟睡中。
そしてその傍らにぴったりと寄り添うようにして、裸の女性が眠っていた。
悪い冗談か、それとも遠まわしな『別れたい』のサインか。
瞬時に色々思考を巡らせてみたが、彼の場合その手の冗談は嫌いだし別れの意思があるにしても直接口で申告するだろう。
彼女にとって何が決定打だったかと言うと、幸せそうな表情で眠っている女性が自分の後輩だったということだ。
普段から会話らしい会話すらない、気の合わない後輩……しかしその容姿は瑞希と比べても数段整っており、スタイルも悪くない、しかも数歳若いというおまけつき。
どちらが宇佐見に相応しいかと客観的に聞かれた場合、殆どの人間が迷わず彼女を選ぶだろうことは明白だ。
(……やめやめ。不毛な事考えてる場合じゃないんだから)
容姿や年齢のことを今更考えたところで始まらない。
とにかく彼のベッドで後輩が恐らく全裸だろう姿で寝ているという事実は変わらないわけで。
瑞希は持ってきた材料を冷蔵庫に仕舞い、不快なものは見ないに限るとばかりにさっさと彼の部屋を後にした。
「……で?」
「んー?」
「風邪ひいた彼氏の看病に行ったんじゃなかったのか」
「だってぇ……」
真っ直ぐ帰る気にならず、携帯電話の着信履歴の一番上にあった番号にリダイヤルしたら
呼び出されてきたのは同じ署の先輩だった。
飲みたいと強請る彼女を大衆居酒屋に誘い、窪田は「だって、なんだよ?」と促すように尋ねた。
「だって。全裸らしい女の子が一緒にいるのに、ずっと居座ってるのもおかしいじゃないですかぁ?」
「ぜっ、……」
「あー窪田センパイ、きたなーい」
普段の冷静さはどこへやら。
ぶはっと枝豆を吐き出した先輩に、瑞希はけらけらと笑いながらおしぼりを差し出した。
「……お前な……笑ってる場合じゃないだろ」
「笑ってる場合ですよぉ。だってその子、あの子なんですから」
「その子があの子って…………ああ……」
瑞希が『あの子』と言った場合、窪田に心当たりは一人しかいない。
この酔っ払いの正面に座る、彼女と最も気が合わない後輩のことだ。
その後輩が常々瑞希を勝手にライバル視しているのは知っていた。
だがまさか、その彼氏である宇佐見にまで手を伸ばしていたとは……大方、警察庁幹部である親のコネでも使って接近したのだろうが、そうまでして瑞希が嫌いかと呆れるしかできない。
(いや、まぁ……全裸だったっていうなら、本気ってことも考えられるか)
嫌いな先輩を陥れる為に近づいたのだとしても、お嬢様育ちの彼女が身体を張るくらいなのだからそれ相応の気持ちはあるのかもしれない。
いずれにしても、それを見せ付けられた瑞希の側にしてみれば『笑っていられる状況ではない』のは確かだ。
「なんかもうね……笑うしかないって感じなんですよねー」
何がいけなかったのか。
どうしてそこまで嫌われなければならなかったのか。
全てが状況証拠でしかなく、憶測でしか論理を組み立てられない以上は笑うしかできない、というわけらしい。
宇佐見は、瑞希が来たことに気付くだろうか。
気付いたら、どう行動に出るだろうか。
今色々考えても空しいだけで、こうして先輩を付き合わせて飲んでいても一向に気持ちが晴れる気配はない。
「……なんかもうすいません……酔っ払いは帰りまーす」
「送ってく」
「あれ、やっさしーんですねぇセンパイ。惚れますよ?」
「……よせよ」
無理すんな、と髪を掻き乱した手が宥めるようにポンポンと頭を叩き
その無言の優しさに、瑞希は泣きそうになるのを俯いて堪えた。
翌日
「張り込んでるヤツに差し入れ持って行ってやれ」
そう上司に命じられた瑞希は、気が向かないながらも後輩を連れ郊外の住宅街へとやってきた。
暫く黙って歩いていた二人だったが、先に口を開いたのは後輩の方だった。
『彼』と寝たこと、いかに『彼』が素晴らしかったか、自分の財力と魅力なら『彼』を満足させてあげられること。
それらをまるで夢見る乙女のように滔々と語って聞かせ、反応を見るように「ねぇ、先輩?」と挑戦的な眼差しを瑞希に向けた。
だが
「あんた何しに来てるの?」
返ってきたのは、軽蔑したと言わんばかりの冷ややかな眼差し。
「ひとつだけ言わせてもらうけど、彼をあまり侮らない方がいい。痛い目を見るのはそっちだから」
「っ、!」
これと同じ台詞を、昨日も言われていた。
言ったのは、彼女が寝取ったと自慢していた『彼』である。
『……瑞希をあまり侮らない方がいい。痛い目を見たくなければな』
あっさりと自分達の一夜の『関係』を否定してみせた彼は、それこそ証拠がないと食い下がる彼女を見下したように哂いながらそう告げた。
だが彼女にも引くに引けないプライドがある。
お父様に連絡をすると脅しのように携帯電話を掲げて見せた後輩に、瑞希はあっさりと「すれば?」と返す。
「ああ、そうだ……じゃあついでにこう伝えて。『庭の紫陽花は今年も綺麗に咲きましたか』って」
「意味わかんないんだけど……」
「いいから。電話するなら早くして」
指図されたことに不満だったのか、唇を尖らせながら彼女は『お父様』に連絡を入れた。
そして一通りの不平不満を申し立てた後、瑞希の言っていた伝言を口にする。
電話の向こうの空気が変わったのは、ただじっとそれを見ている瑞希にも伝わった。
何故なら、『お父様』に頼るつもりだった馬鹿娘の顔色が徐々に青ざめていくからだ。
きっと今後、瑞希やその身近な人間に関することでは彼女の『お父様』は動いてはくれないだろう。
いくら娘が言い募っても、例え宇佐見と本当に関係ができても、それで瑞希をどうこうしようとは思わないはずだ。
『庭の紫陽花』云々は、彼女の祖父が現役を退く際に言い残した『恩を忘れるな』という暗号なのだから。
彼女の父がその恩恵にあずかっている以上、その言葉を使えと託された榎本瑞希という人間には逆らえないようになっている。
それこそ、瑞希の存在自体を抹殺してしまおうとするなら話は別だが、いくら娘可愛さといっても人殺しまでするほど愚かでもないだろう。
余程のことを言われたのか、顔面蒼白になりながらも落ち着きなく視線を彷徨わせる後輩に
「そんなんじゃ仕事にならないから、帰れば」
瑞希は突き放すように告げて、当初の目的通り張り込み中の先輩に差し入れを渡すべく踵を返した。
(やりすぎたかな……権力に権力で応えるなんて、しちゃいけなかったのに)
自分だけじゃなく、彼女は従兄をも巻き込んだ。
彼が自分の意思で彼女を選んだなら文句は言わない、だが卑怯ともとれる方法で関係を迫ったのならそれは立派な『罪』だ。
自分の背後関係は宇佐見や誠から聞いて知っていた、祖父から託された書類やメモリデータはその事実を裏付けして余りあるほどで、だからこそ余計に彼女は使いようによっては暴力にもなる【権力】を使おうとはしなかった。
自己嫌悪、と呟いてリビングのテーブルに突っ伏すと
その頭頂部にコツンと拳が降ってきた。
「本当に自己嫌悪が好きなやつだな。今回はあっちの自業自得だ、お前が自分を責めることなんかないだろうが」
「……そーですねー」
「わかっちゃいるが納得できない、って声だな」
困ったやつだ、と宇佐見はその場に腰を下ろして傾聴体勢に入る。
こんな時は散々愚痴らせてやるのが一番だとわかっているからだろう。
「権力って改めて怖いなって思ったんです。もしご隠居の意図を前から知っていたなら、私も権力で全てを片付ける人間になってたかもしれない。お金で買えないものはないって思い上がってたかもしれない」
そうなったかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
可能性でしかないが、少なくとも今回自分が使った手は立場は違っても彼女と同じものだった。
そのことを割り切ろうにも割り切れない。
「結局は、彼女は私が疎ましくて私は彼女に妬いてたわけですよね。そういうのもなんだか…………どうしたんですか?」
「いや。お前の口から『妬いてた』なんて言葉を聞いたのは初めてだと思ったんだ」
照れているのか、視線を逸らしたその頬が僅かに赤い。
(あ、なんか可愛い)
確かに、彼が独占欲を剥き出しにすることはあっても、瑞希が嫉妬心を表に出すことは滅多にない。
それはなにも、彼女が嫉妬しないというわけではないのだが。
こんな姿が見られるなら、稀に感情を表に出してもいいかなと思えてしまう。
感情を偽る事に慣れた所轄の下っ端と、感情を隠すことに長けた官僚と。
偶にはこうして人として向き合って、醜い感情も人には見せない顔も曝け出せるというのはなんといいことか。
「まぁ、偶にはいいもんだな」
「そうですね」
嫉妬も独占欲も、度が過ぎると鬱陶しいものだが
偶になら、それもいいものだと思える。
まったりとした空気が流れ、自然とそのまま抱き合おうと腕が回されたのを瑞希は軽くかわして微笑む。
「ところで、彼女はなんであそこにいたんですか?セキュリティは厳重だし、許可された人じゃないと入れないはずですよね?」
「ああ……偶に掃除に入る後輩にセキュリティカードを渡してあるんだが、そいつを買収したらしいな」
「そうですか。それで、全裸の彼女はどうでした?」
「お前、何が言いたい」
目を細めて睨みつけるが、彼の後輩達なら竦み上がるだろうその迫力も、慣れた従妹には通じない。
『どうでした?』と曖昧に聞いてはいるが、要するに『その気にならなかったか』という意味だ。
彼を信用していないわけではなく、むしろ全面的に信じているからこそ後輩相手に卑怯な手段まで使って追い払ったわけなのだが、それでも『何かあったかもしれない』という不安は完全に拭えたわけではないらしい。
若くてスタイルがいい、権力を持った女性が裸で横たわっているのだ。
据え膳食わぬはとその気にならないとは言い切れない。
宇佐見はまるでその時のことを思い出そうとするかのように視線を遠くにやり、「そうだな……」と僅かに首を傾げた。
「肌はかなり念入りに手入れしてあるんだろう、綺麗なものだったな。それこそシミひとつない。余程の特殊嗜好でない限りその気にさせられるんじゃないか、あれは」
「……はぁ、そうですか」
「金持ちの道楽ってやつだろ。エステで磨いて高いクリーム塗って、正にそういうことしか考えてない作り上げられた体って感じだった。お前のように古傷もなければ荒れた部分もない」
「喧嘩売ってますか、幸也さん」
なんだかんだでよく見ている。
そのことに呆れつつも、彼が一体何を言いたいのかわからず瑞希もまた首を傾げてみせる。
そんな恋人を、宇佐見は溜息をつきつつ抱き寄せた。
「……だから俺は、その特殊嗜好なんだと改めて思い知らされたよ。お前しか欲しくない」
「…………はい?」
「二度も言わせんじゃねぇよ」
「え、ああ……はい」
きっと今頃、彼は滅多に見せない照れた顔をしているのだろう。
先ほどの比ではないほどに頬を赤らめて、まるで恋を覚えたての少年のように。
『なぁ、姉貴の言う【幸也さん】と俺の知ってる【幸也にーさん】ってマジ同一人物?』
行きがかり上、愚痴を言うことが増えた誠に以前そう尋ねられたことがある。
宇佐見幸也といえば、傲岸不遜で慇懃無礼、沈着冷静といった四字熟語がぴったり当て嵌まる人物だった。
だが瑞希の口から語られる【彼】は別人のように感情豊かで、どうにも同一人物とは思えないというのが誠の正直な感想らしい。
最初に出会った時、そっくりさんじゃないかと思ったのは彼女も同様だ。
今は逆に、こういった【彼】しか知らない以上普段の【彼】はどんな仮面を被っているのか、それに疲れたりはしないのか、と気になる部分が大きい。
「幸也さんって基本定時上がりでしたっけ?」
「いきなりなんだ?確かに何もない時は定時で終わるが、イベントごとが多い時期は遅くなることもあるぞ」
「今は特に大きなイベントもなかったはずですよね。……明日、もし時間があるようならご隠居に挨拶に行きませんか?」
突然すぎる申し出に宇佐見は少し考え、多分そこまで遅くはならないだろうと判断してひとつ頷いた。
そして次の日
仕事を終えた瑞希は、近くまで迎えに来た黒のスポーツカーに乗り込んで郊外にある別荘まで来ていた。
そこには現在、楽隠居をしているはずの前当主が一人で住んでいる。
とはいえ、世話役の使用人は通ってきているし、隠居といえどまだまだ影響力の大きい彼に助言を請う権力者も数多く訪れているらしい。
予め連絡を入れてあったのか、この日は祖父ただ一人で待ってくれていた。
「誠から話は聞いていたが……そうか、瑞希と幸也がなぁ。うん、やっぱり私の見込みに間違いはなかった。計画通りで嬉しいぞ」
「……ご隠居……」
「このクソジジイ」
小躍りせんばかりに喜んでいる老人に対し、瑞希も宇佐見も呆れるしかできない。
彼らがこうなるまで、どれだけの紆余曲折があったのか知らないわけではないだろうに、それを『計画通り』と言い切ってしまえるその神経が羨ましくも妬ましい。
「幸也は小さい頃に私が言っていた【兎】の意味がわかった……わけではないようだが」
「だからなんなんですか、それは。【宇佐見】にかけたオヤジギャグだったら蹴りますよ」
「まだ幼いお前に瑞希の伴侶になれと言うのは押し付けになりかねんからなぁ、将来的に【宇佐見】が瑞希を守れるようにと言ったつもりだったんだが」
本気で蹴るなよ?とにこやかに釘を刺す老人に、悪びれた様子はない。
がっくりと項垂れてしまいたいのを堪えた宇佐見から視線を外し、老人は瑞希へと一歩歩み寄った。
「私の残したものを使ってしまい、自己嫌悪したと聞いている。……お前には荷が重いかもしれんが、使い方はこれで身に染みただろう?」
「……はい」
「それでいい。怖いと感じるくらいがちょうどいいんだ。頼んだよ」
『頼む』というのは、彼の残した大きな権力についてか、それとも内孫である宇佐見についてか。
はい、ともう一度答えた彼女の瞳に、もう迷いはなかった。
極上彼氏本編はこれで完結です。
後一話、本編で明かさなかった裏事情を黒幕が語る一幕がありますが、主役二人の出番はありません。
本編の適度に甘い雰囲気を保ちたい方はここでストップしてください。
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