ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
どこまでも女運・後輩運の悪い従兄。
本編
6.極上の嫌がらせ
 

【フランスパン:2切 ドライハーブ:少々 ガーリックパウダー:適量 
 パルメザンチーズ:1 レモン:1 サーモン:4切 】


 警視庁公安部所属のキャリア、芹沢は一瞬目を疑った。
 いつもの通り起床し出勤準備を整えていた矢先、大学の先輩からたったこれだけのメールを受信して。
 その内容から導き出されるひとつの料理と、先輩の顔を脳内で見比べてもなお重ならず。
 送信先を間違えたんだろう、どうにかそう己の煩悶に決着をつけて先輩に電話をかけてみた。

 だが返ってきたのは、『間違ってないぞ』というはっきりとした肯定。

「間違いじゃないのはわかりました。ですがあれは一体なんなんですか」
『なんだか、お前にはわからないか?』
「…………鮭の香草パン粉焼きのレシピにしか見えません」

 正解だ、と先輩は電話の向こうで低く笑う。

 まさか作ってもって来いというわけじゃないだろう。
 なら何故レシピをわざわざ朝一番でメールしてきたのか、芹沢に導ける答えはひとつしかない。

「まさか、僕に買ってこいということですか?」
『そのまさかだ。何も今すぐってわけじゃない、そうだな……2時間以内に俺の部屋に持って来い。言っとくが安物なんざ買うなよ?』
「すみませんが、僕は今日仕事なので」

 あなたはいいかもしれませんが、という言葉は声に出さないでおく。
 今日は一般的に【祝日】と定められている日であり、カレンダー通りの生活をしている者にとっては休日に当たる。
 現在進行形で警察庁の幹部候補生として要職にある先輩 ─── 宇佐見にとっても勿論今日は貴重な休日である。

 がしかし、警視庁の公安部というある意味厄介な部署に所属する芹沢にとっては、今日は出勤日であり大事な定例報告会が待っている。
 彼の立場上抜けられないものではないが、将来的なステップアップを視野に入れるのであれば、私事で欠席ということは出来れば避けたい。
 それが、先輩からの謂れのないパシリ命令だったなら尚更だ。


『……ほぅ?芹沢の分際で俺に逆らうのか』

 いい度胸だ、と電話の相手はいつも以上に低く笑う。
 伝わるわけがないのに通話口からどす黒いオーラが漂って来る気がして、芹沢はぶるりと身震いした。

 この先輩とは、大学の同期である榎本誠を通して付き合いがあるのだが、彼がこんな態度になった時は要注意のサインだというのは既に身に染みている。
 ここで逆らうのは得策ではない。
 だがだからといって、パシリの用件のために定例報告会を欠席するのも気が引ける。

 躊躇っているのがわかったのだろう、宇佐見は『忘れてるようだが』と前置きしてから一呼吸置き

『……お前は俺を殺そうとしたんだよな?』

 だったらパシリくらい軽いもんだろう。
 と言外に告げ、哀れな後輩の退路を完全に断ってしまった。

 言い訳をするようだが、別に芹沢は宇佐見を殺したかったわけではない。
 大体、彼の遥か上から命じられたのは芹沢にとっても『後輩』にあたる男の処分であり、そこに偶々居合わせた宇佐見の生死については関知する謂れなどない、はずだ。
 宇佐見もそんなことは承知した上で、延々とこのことをネタにパシリをさせる気なのだろう。
 こんなことなら命じられた時、確かにターゲットが一人だと確認してからにすれば良かった、と後悔してももう遅い。

 半ば自棄になりながら材料を朝市で賑わう市場で揃えた芹沢が、宇佐見のマンションに到着するのはそれからちょうど2時間後のことだ。


 きっかけは、彼女の部屋で並んで見ていたグルメ番組だった。

【ムール貝の香草焼き】というメニューが出た時、瑞希がぽつりと「おいしそう」と呟いた。
 食べたいのかと宇佐見が訊ねると、彼女は緩々と頭を振り

『ムール貝なんてあまり庶民に馴染みないじゃないですか。私なら鮭ですね』

 強請るでもなく、何気なくそう告げた。

 それなら、と宇佐見は休日を利用して作ってやろうと計画したというわけだ。
 食べに行くかと誘ったところで、きっと彼女は「そんなつもりじゃなかった」と素直については来ないだろう。
 ただでさえ公の場に同行するのを嫌がるのだから、無理に誘い出すこともできない。
 かといって自宅に呼ぶとなると、後輩やら同期が突然やってきたりする可能性もないわけではない。
 要するに、二人きりという状況を満喫しながら邪魔されずに料理するには、休日の昼間という時間帯が一番なのだ。


 出かけているのか、チャイムを鳴らしても反応はない。
 宇佐見は合鍵で中に入り、勝手知ったるキッチンに用意してきた材料を並べると、対面式キッチンからぐるりと室内を見渡した。

 この部屋で彼女と共に過ごした、たった2週間足らずの日々。
 同棲と呼べるほど甘くはなく、同居と言い切ってしまえるほど素っ気無いわけでもない。
 その偽りの平穏が過ぎた今でも、彼は日をおかずこの部屋を訪れている。
 そうでもしないと意地っ張りの彼女は彼に逢ってもくれず、どうにか恋人同士と呼んでもいい関係になったというのに未だに彼は一方通行の想いを持て余している。

 一時期、『清く正しい婚前交際』と称してある程度距離を置いた付き合いをしていたものの、とある馬鹿な女が引き起こしたトラブルの所為で瑞希が彼から離れていきかけ……それに完全にキレた宇佐見が元通り距離をつめて、今に至る。
 その女がどうなったか、宇佐見には興味はない。
 そういえば利用した件の男から招待状らしきものが届いていた気はするが、部屋の片隅に放り投げてしまった後、どこへ行ったかは覚えていない。


 さて作るか、とシャツの袖を捲り上げたその時。
 ガチャリと奥の扉が開いて、部屋の主が姿を見せた。

「なんだ、いたのか」
「……それはこちらの台詞です」

 驚きに見開かれた双眸は充血していて、寝乱れた髪と相まってなんだか痛々しく感じられる。
 実際チャイムの音に反応しなかったということは、今まで寝入っていたのだろう。
 それも、ただ眠っていたわけではないらしい。

 彼から視線を外し、シャワーでも浴びるのかバスルームに向かって通り過ぎようとしたその態度を訝しみ
「ちょっと待て」と腕を掴んで引き止めた、が。

「放してください」
「お前……もしかしてこの前のこと、まだ……」
「すみませんが、出て行ってもらえませんか。少し、一人で考えたい事があるんです」

 瑞希は振り向きもせず、冷たい声音で宇佐見を拒絶した。
 以前から意地を張って「幸也さんに私は相応しくない」などと言うことはあったが、ここまで頑なに拒絶の意思を示したのは初めてだ。

 一瞬動きを止めた彼から腕を取り戻し、瑞希はもう一度「出て行ってください」と今度はしっかりドアを指差した。

「あの時のことは関係ありません。別件で、少し時間が欲しいんです。落ち着いたら連絡しますから」
「…………そうか」
「はい。ですから、お願いします」
「わかった」

 頷いて、脱いだ上着を着直す。
 何故だと問いかける事も、嫌だと拒否する事もなく、宇佐見はゆっくりと指差された場所……部屋のドアを開け、黙って出て行った。


 部屋を出た彼は車に戻り、メモリから【誠】という名を呼び出して通話ボタンを押した。
 間を置かずに出たということは、彼も電話を待っていたか暇を持て余していたか。

『簡単に進捗状況を説明します。つか幸也にーさん、なんで本家のじーさまが分家の瑞希をバックアップしてんすか。たった一言だけで周囲を従わせる魔法のキーワードを用意しとくなんて、シャレにならないっしょ』
「まぁ、ジジイは前から瑞希の聡いところがお気に入りだったからな。財産は俺に、権力はあいつに、俺達が一緒になれば最強だ、なんてアホぬかしてたくらいだ」
『や、まぁそれが実現しそうな状況ですしね。幸い【榎本】姓だからまだ助かってますけど、これ知られたら有象無象が擦り寄ってくるでしょうね。例えばですけど……』

 誠が至極愉しそうに笑いながら告げた名前は、現役の警察庁幹部から政治家、大臣職にある者まで様々だった。
 その中には、芹沢に処分を命じた某議員の所属する派閥のトップまで入っている。

『で、どうしたんですか一体。今更じーさまの背後関係調べるなんて……あ、もしかして』
「その『もしかして』が多分正解だ」
『へぇ……にーさんもついに、ですか。ま、これだけのバックアップを生かせるなら、例の官房長官の娘にも絶対負けないでしょうし。精々頑張ってくださいね』
「世の中に絶対なんて言葉はねぇんだよ」

 どこかのCMで聞いたような言葉で返し、宇佐見は小さく笑った。

 彼女が何故あそこまで頑なな態度をとるのか、実は心当たりがないわけではない。
 誠が出した名前……『官房長の娘』がそれだ。

 宇佐見も独身のエリート官僚だ、いくら経歴に小さな傷があるとはいえ周囲が放ってはおかない。
 しかも先日彼は家が決めた許婚を振ったばかりで、公的には完全フリーの状態である。
 出世の為と銘打たれた上司の命令で、渋々訪れたホテルで待っていたのは現役官房長官の娘だった。
 一対一、見合いと呼ぶにはお粗末な出会いだったわけだが。
 彼はその場できっぱりとこの見合いを断り、彼女もまた「気になる相手がいる」と彼に打ち明けてくれた。

 ホテルのロビーを通り過ぎたその時、どこかで見たような男の顔があったような気がしたのだが。
 よくよく思い返してみたら、それは以前酔いつぶれた瑞希を迎えに行った際、そこにいた彼女の同僚の顔と重なる。
 だとするなら、必然的に彼女の耳に入っていてもおかしくないわけだ。


『ところで、その見合い相手の本命はどこで何してるんですか?』
「今現在進行形で俺の部屋の掃除中だろうな」
『将来の官房長官の娘婿を顎で使うとかってどうなんですか』
「だから今のうちにやっとくんだろ。それに、娘婿になる頃には官房長官が在任中かもわからんしな」

 じゃ俺の部屋も頼もうかな、と誠はけらけら笑いながら言う。
 大学時代の同期に強力な姻戚がつくことは、彼にはどうでもいいことのようだ。

 精々からかってやれよ、と己の部屋に行く許可を与えてから宇佐見は車を降りた。

 彼は『出て行って』とは言われたが『帰れ』とは言われていない。
 屁理屈と言われてしまえばそれまでだが、それでも大人しく来るかどうかも定かじゃない連絡を待ち続けるのは御免だった。
 彼女が以前言っていたように、宇佐見は主人の帰りをじっと待ち続ける忠犬じゃなく。
 気まぐれで『家』に縛られない猫なのだ。


 合鍵を使って中に入ると、シャワー後なのか濡れた髪のままの瑞希がはっと振り返った。

「…………どう、して」
「俺を締め出したいなら合鍵も取り上げておくべきだったな」
「……一人になりたいと言ったはずです」
「お前、まさか本気で嘘を見抜かれないとでも思ったのか?連絡してくる気なんて端からなかったんだろうが」

 図星をつかれて、彼女の眉根が寄る。

 できるならこのまま終わりにしようと思っていた。
 彼があの日見せた執着が偽りだったとは思いたくない。
 だが【猫】は須らく気まぐれなものだ、いつまでも同じ餌では飽きてしまう。
 なら、一方的でも繋がりを絶ってしまえばいい。
 そのうち彼は【本命】の相手で忙しくなるのだから、自分には構わなくなるだろう、と。

 それすらも見抜いた上で、宇佐見は彼女を追い詰めるようにテーブルに手をついた。
 彼女の身体を挟み込むように両手をついて、顔を寄せる。

「内部機密だけは聞かないでおいてやる。だから……それ以外で溜め込んでるもん全部吐き出せ」

 至近距離で射竦められ、低い囁きに促され。
 瑞希は観念したようにぽつりぽつりと悩んでいたことを話し始めた。

 普段なら絶対に見過ごさないようなケアレスミスをしてしまったこと。
 そのミスを、よりにもよって仲の悪い後輩に指摘されてしまったこと。
 がっくりと自己嫌悪に嵌っている最中、タイミング悪く従兄がホテルから女性と出てきたという話と官房長官の娘との縁談の噂を耳にしたこと。
 色々な要素が積み重なって、オフィス内で思いがけず荒れてしまったこと。
 そして、見かねた上司に「もう帰れ」と追い払われたこと。

 話しているうちに涙を零し始めた瑞希を、そっと宇佐見の腕が囲うように抱きしめる。
 彼女は哀しいのではない、悔しいから泣き自分を叱咤し続けるのだ。
 こんなことじゃだめだ、もっと強くならなければ、もっとしっかりしなければ、と。
 だから彼は、ただ黙って彼女の言葉を受け止めるだけ。
 甘やかすのでも慰めるのでもなく、受け止めて全て受け入れてやるだけだ。


 全部吐き出し終えたのか、瑞希が腕の中でふぅっと大きく息をついた。

「少しすっきりしたか?」
「はい。その、すみませんでし」

 た、と言い切る前に唇を塞ぐ。
 ちゅ、と軽く吸い上げて離れると、どう反応していいか戸惑っているらしい顔を至近距離から覗き込む。

「一回謝るごとにキスするぞ。……というわけだ、されたいなら何度でも謝ってみろ」
「……どういう挑発ですか、それは」
「お前からの謝罪は一切受け付けない。俺が欲しいのは別のものだ」
「……別のもの?」

 意味がわからない、と首を傾げて見せる恋人に彼は簡単に説明してやった。

 ホテルで会っていたのは官房長官の娘で、その相手には既に本命がいること。
 誠を使って、御大……自分達の祖父が残そうとしているものについて徹底的に調べさせたこと。
 それは私利私欲のためではなかったが、結果的に予想外に大きなバックボーンがあったことで些か【計画】に修正を入れなければならなくなったこと。

「計画って……」
「当初の予定では、仕事を辞めさせるつもりだった。だが、それだとジジイの残したものが回収できずに不発で終わる」
「え、と……」
「俺が上に行けば行くほど、ジジイの名前は有効に働く。だから、お前もついて来い」

 自分を支えろ、とは言わない。
 待っていろ、とも言わない。
 祖父の力で昇進できた、そう言われる事のない地位まで彼は上り詰める。
 縁故だけがとりえだと言わせない為に、彼女もまた上って来させる。

 ただ家で待っているだけの女よりも、彼には共に歩める相手が必要だった。


 さすがに何を言われているのか理解できたのだろう。
 瑞希は躊躇うように視線を外し、何か言いかけてはやめるという行動を繰り返した。

「……ま、すぐに決めろとは言わないが……俺はあまり気が長くないからな」

 トン、と軽く背中を叩いてから、温かい腕が離れていく。
 今度は、彼女が慌てたようにその腕を掴む番。

「……あの」
「なんだ?」
「…………帰る前に、……香草焼き、焼いて欲しいんです、けど」
「…………」

 帰ると宣言したわけじゃなく、実際彼は帰るつもりなどなかったのだが。
 あまりに可愛らしい、普段聞けない甘えた声を出した恋人に愛しさは募るばかりで。

 それはもしかして、【返事】と受け取っていいのか。
 そう問いかけたいのをぐっと堪え、彼は「仕方のないやつだな」とシニカルに笑った。



「なぁ、お前さー……所轄に手ぇ回してわざと姉貴の苦手なタイプ配属させただろ?」
「なんのことだ」
「とぼけんなって。調べはついてんだからさ」

 勝手知ったる従兄の部屋、とばかりに誠はソファーに身を預けて同期の顔をニヤリと見やった。

 祖父のことを調べるついでに姉の身辺調査もやってみたら、面白い事に部署の違うこの同期の名前が釣れてきた。
 警視庁公安部一課長である彼が、わざわざ所轄の上層部に手を回して新人一人の配属先を左右するなど普通はありえない。
 だが調べていくうちに、この新人が配属されてから姉の任務達成率がダウンしてきているということがわかり。
 これは普段虐げられている先輩への意趣返しのつもりか、と気付いたのだった。

「けどなぁ……芹沢、相手が悪ぃわ。よりにもよってあの幸也にーさんが惚れ込んでんだぜ?そこにじーさまの圧力が加わったらどうなると思う?」

 事の真相を知られてみろ、お前潰されるぞ。

 瞬間笑みを消した、悪魔からの死刑宣告。
 朝の比ではないほどの悪寒が芹沢の身体を支配する。

「榎本、頼むから」
「どうしよっかなー、黙っててやってもいいけど……とりあえず、ここ終わったら俺んちも掃除頼むわ」


 後輩二人がそんなやりとりをしている事など知る由もなく。
 以前瑞希がプレゼントした黒のエプロンをつけ、シャツの腕を捲り上げた宇佐見は、キッチンカウンターから興味津々で覗き込んでくる恋人を満足させるべく、楽しそうに料理に勤しんでいた。

次回最終話。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。