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短編版と内容は同じです。
本編
1.極上の拾い物
 夜中、無性にアイスクリームが食べたくなった。
 普段ならまぁいいかと諦めて寝るのだが、その日はどうしても食べたくなってふらりと外に出ることにした。
 幸い、マンションの近くにはコンビニが数件ある。
 そのうちのどこかにお気に入りのストロベリーがあればよし、なければ少しだけ遠出してもいいかなと珍しいことすら考えながら、彼女は薄暗い通りを抜けて表通りに出た。

 その帰り道
 月が綺麗だから、と何となく遠回りしたくなった彼女はぐるりと公園を迂回し、マンションのある細い路地へと足を踏み入れた。
 そこで彼女の眼は、出る時にはなかっただろう大きな物体を捉えた。

(ん?明日は粗大ごみの日じゃなかったはずだけど)

 もしそうだったとしても、そもそもここはごみステーションではない。
 朝になれば人通りもそこそこ多くなるのだ、こんな大きなものが転がっていたら通行に支障が出てしまう可能性も否定できない。
 それに、と彼女はじっとその物体を眺めながら考えた。

 それは人、に見えた。
 もしかするとマネキンかもしれないが。
 ぐったりとアスファルトに座り込み、項垂れ、身動き一つしない。

(精巧なマネキンか、等身大のフィギュアか、それとも)

 まず、マネキンという可能性はすぐに消えた。
 触ってみるまでもなく、目の前の物体は硬質的な素材ではないことくらいはわかる。
 ではフィギュアかとも思ったが、それにしては人間に近い形状をしすぎている。

(死体だったら通報しなきゃなぁ……)

 ちょい、と指先で肌をつついてみると、意外と柔らかい感触や仄かな温度が伝わってきて、それが生きた人であることがわかる。
 生きてて良かったと思う半面、面倒だなという気持ちが一気に強くなる。
 なぜなら彼女は、目の前に転がる【男】と同じ顔立ちの人間を知っていたからだ。

 別人だったらいいなぁ、とは口には出さない。
 もし目の前の彼が【彼】であったなら、それを聞かれたが最後どんな嫌味を返されるかわからない。

(別人……じゃ、ないよね……やっぱり)

 どんなに逃避しても、これは【彼】だという確信が胸に根付いてしまった。
 それは血の繋がりゆえのことか、それとも苦手ゆえの勘か。


【男】の名は、宇佐見幸也。
 彼女……榎本瑞希の母方の従兄であり、彼女と同じく警察官でもある。
 ただし、地方公務員で未だヒラ警官である瑞希に対し、宇佐見は大学を出てから国家試験に合格しキャリア官僚として入庁したエリート、という決定的な違いはあるが。

 34歳にして未だ独身、しかもその整った容貌に反して浮いた噂が一つもないことから、独身女性達の視線を一手に集めるその人物はしかし、どんなに言い寄られても冷淡に断りをいれているという。
 理想が高いのか、それとも女性に興味がないのか。
 従兄妹とはいえずっと疎遠だった相手だが、そんな噂だけは瑞希の耳にも入っていた。
 要領がいいんだか悪いんだか、とこっそり溜息をついていたのは誰にも秘密である。


 と、人の気配に気付いたのか、彼がゆっくりと視線を上げた。
 だらりと手足を投げ出したまま、気だるそうな視線が瑞希を捉える。

「…………」
「…………」

 その瞬間、全てが決まってしまった。
 彼をこのまま放置せず、部屋にあげること。
 そして夜中にも関わらず風呂をもう一度沸かし、その間に着替えを買いに走り、部屋のベッドを明け渡して自分はソファーで寝ること。
 彼自身が『帰る』と言い出すまでは、何も聞かずに部屋に置くこと。
 それは既に決定事項なのだ。

 彼と視線が合った時、彼女にははっきりと見えてしまったのだ。

【ひろってください なまえは うさみゆきや です】

 そうでかでかと書かれ、彼の身体を覆うように囲っている高級そうな桐の箱が。
 その、幻が。


「……うちに来ますか、宇佐見さん」

 しゃがみこんで同じ視点になり、手を真っ直ぐに差し伸べる。
 これで拒絶されればそれはそれでいい、見なかったことにして後で救急車でも呼んでおけばそれでいい。
 そう思っていたが、意外にあっさりと彼はそこに自分の手を重ねた。
 暗くてよく見えないまでも、何かで汚れたガサガサな感触が掌から伝わる。

(そういえばなんでマンションの前に座り込んでたんだろ……酔ってるわけでもなさそうだし)

 彼とは幼い頃に交流はあったものの、瑞希が小学生の頃に郊外に引っ越してからずっと疎遠だった。
 本家の跡取りである彼はエリート街道まっしぐら、分家の娘である瑞希はエリートとは程遠い平凡な道を歩み、顔を合わせるのは年始の挨拶時くらいだったのだ。
 瑞希の住まいを調べようと思えばすぐにできたかもしれないが、それにしても普通に訪ねてくれば済む話だ。
 何も薄汚れた格好をして路上に座り込んでいる必要などない。


 考え事をしていたからだろう、くいっと手を引かれて初めて彼女は彼が玄関先で立ち止まっている事に気づいた。

「…………」
「はい?」
「…………」

 無言のまま、鳶色の視線は自分の足元へ。
 その視線を辿ってみて、瑞希は小さく苦笑した。
 今漸く気づいたが、彼は靴を履いていなかった。
 そのため、靴下であったものは既にドロドロの物体Xと化している。
 このまま部屋にあがれば、フローリングの床はたちまち彼の足跡を刻むだろう。

 路上に座っていたとはいえ、彼はやはり『お育ちがいい』人種であるらしい。
 いくら従妹であっても他人には違いない、その他人の部屋を汚してしまうという品のない行動を取るのは我慢ならないのだろう。
 まかり間違っても『汚してしまったら申し訳ない』という謙虚な気持ちからではない、というのはわかる。
 恐らく、彼の辞書に【謙虚】や【遠慮】といった、所謂日本人の美徳と呼ばれる類の言葉は載っていないに違いない。
 例え載っていても、その項目を参照する回数は極端に少ないはずだ。


 構いませんよという意味で繋がれたままの手を軽く引く。
 躊躇いがちに、踏み出された足。
 そこで漸く彼女は、彼の姿をはっきりと捉えることができた。
 恐らくブランド物だろうスーツは煤で真っ黒、所々が焦げて破けている。
 靴下だけじゃなく、顔から手からシャツから、その全てが煤けていて、まるで火事場から逃げ出してきたかのような格好だ。
 が、親戚筋にあたる彼女の耳には『本家が火事に見舞われた』だの『本家の跡取りの自宅が燃えた』だのという不穏な情報は入ってきていない。
 もし実際そうなら、彼は今頃こんな質素な部屋ではなく病院のVIP室にでもいるはずだ。


「詮索しないって決めたんだけどなぁ……」

 彼は自分のことを詮索されるのを嫌う。
 瑞希のことは根掘り葉掘り詮索したとしても、自分のこととなると途端に口を閉ざすだろう。
 そんな性格がなんとなくわかっているからか、詮索はしないと決めた。
 だが、そのいかにも火事にあいましたというぼろぼろの格好を見てしまうと、何があったんですかと問いただしたくなってしまうのは仕方がないのかもしれない。

 ふと思い立って、携帯のメモリから滅多に使われない本家の電話番号を呼び出して、発信ボタンに手をかけたまま彼女は迷う。
 こんな状態で路上に座り込んでいた彼のことだ、もし本家に戻ろうと思うのならとっくに連絡しているだろう。
 それをしなかったのは、誰かに狙われているからか……もしくはそれ以外に戻れない理由があるのかもしれない、と。

 ふぅ、と息をつき携帯を仕舞いこむ。
 連絡ならいつでもできる、今はひとまず彼の様子を見ることが先決ではないのか?
 そう、自分に言い訳をして。


「瑞希」

 急に名前を呼ばれ、ビクンと身体が反応する。
 ここへ来て初めて言葉が自分の名前だったことで、瑞希は凄まじい勢いで鼓動を高鳴らせていた。
 さすがに名前を知らないということはないにしても、親戚同士の集まりでは彼と会話することもなく、当然名前を呼ばれることも久しくなかった。
 この鼓動の高鳴りはそういう意味なのだろう、と彼女は理解する。
 理解したところで、すぐに鼓動が落ち着くわけではないのだが。

 彼女は彼に対してそういった類の感情を持ってはいない。
 整った顔は精悍と称してもいいだろうし、体は大柄だが美形と呼んで差し支えない顔立ちだということもわかっていた、ただそれだけだ。
 しいて言うならいい声だなと漠然とそう思っていたくらいか。

 まるで魔力でも篭っているかのような低く響きのいいその声は、もう一度「瑞希」と彼女を呼んだ。

「は、はいっ?」
「……ドライヤーがない」
「……へ?」

 汚れてるから、と彼をお風呂場に連れていったのは20分ほど前のこと。
 さすがにこの時間どの店も開いていないため、着替えはメンズのフリーサイズパジャマで我慢してもらうことにして、明日早々に買い物に行こうと思っていたのだが。
 洗面所にドライヤーがないのだ、と着替えを済ませた彼は不機嫌そうにそう主張した。

「ドライヤーなら寝室に……あ、ちょっと待っててくださいね」
「……ん」

 さすがに『取ってきて』とお願いするわけにもいかない。
 そう思って「待っててください」と手で制すると、彼も素直にぴたりと動きを止めた。
 まるで犬みたいだ、いや雰囲気からすると躾のいい猫か、と背を向けてからもう一度苦笑する。

 リビングに取って返した彼女は、クッションの上に彼を座らせて後ろから髪を乾かしてやった。
 すっかり煤が取れて、サラサラと指の間を通り抜けていく髪が気持ちいい。


「さて、と」

 髪は乾いた、簡単だが怪我の治療もした、後は寝るだけ…なのだが。
 当初の予定通り自分はリビングで、彼は寝室のベッドで、と移動しようとした瑞希だったが、それを彼の無言の眼差しが引き止めた。
 マンションの外で、彼女を見上げた時のあの縋るような眼差しがまっすぐに彼女を見上げている。
 傷ついた……捨てられた猫のような、心細げな瞳から視線がそらせなくなる。

(余程の事情あり、か……とはいえ一緒に寝るわけにもなぁ)

 さすがにその辺り、一応年頃……をいい加減過ぎたかなという自覚はある。

「宇佐見さんが寝付くまでここにいます。だからおとなしく寝てください」
「だめだ」
「まぁ、シングルサイズですからちょっと狭いでしょうけど、そこは我慢していただくしか」
「そうじゃ、ない」

 一人になりたくないんだ。
 そう囁いた彼の瞳に、その時涙を見た気がした。


 朝起きて、いつも通り警察署に出勤して仕事をこなし、夕方過ぎに買い物をして帰る。
 一日経ち、二日経ち、部屋の狭さに慣れてきたらしい【血統書つきの捨て猫】は、我が物顔でリビングを占拠し、入りたい時に勝手に風呂に入り、無断でパソコンを弄り、部屋の主よりも主らしく振舞っていた。
 そして夜は彼が寝付くまでという約束を交わして一緒のベッドに入るが、結局そのまま朝まで抱きかかえられて眠ってしまうという惰性の日々を送っている。
 性的な意味合いで手を出してこないことが唯一の救いか、それもある意味情けないと取るべきか。

 なんだかんだと2週間が過ぎたある日
 彼は突然「明日、警察に行く」と告げた。
 そこで彼女は初めて知らされた……宇佐見が、危ないことに手を出していた大学の後輩の自宅で、爆破テロ事件に巻き込まれたことを。
 所轄署勤務の瑞希にしてみれば、そういえば都内の一軒家が爆発したとかそんな物騒なニュースがあったな、という程度である。
 背景もろもろの部分はマスコミに洩れないように握り潰されたのだろう、その一軒家の持ち主が将来有望な官僚候補だという噂すら出回ってはいない。

「もしかして、宇佐見さんはその爆破の犯人に心当たりがあるんですか?」

 この瑞希の問いに、彼はふんと鼻を鳴らして応えた。
 つまりは『是』ということだ。

 その後輩は、とある政治家の弱みを握り『今後ともいい関係を築きたい』とあからさまな癒着を求めた。
 その矢先に爆弾を仕掛けられるというトラブルに見舞われたのだから、犯人は誰であるのか……考えずとも答えは既に出ている。
 彼が実家に戻らず、自宅にも帰らず、あえて仕事も休んだままでいたのは、ほとぼりが冷めるのを待っていたということらしい。

「ニュースも騒がなくなった。そろそろ頃合だろう。警察に行っても、例の事件との関与は何も話さない。口を噤んでいる限り、やつらも手出しはしてこないさ」

 それに、と彼は真っ直ぐに瑞希を見据えた。
 その鳶色の眼差しに、これまでのような冷ややかな色はない。

「このまま俺がここにいてもいいのか?……事件のことが明るみに出ることはなくても、上に知られれば立場が悪くなるだろう」
「なんでもお見通し、ってことですね。もしかして、私のマンション前にいたのも計算ですか?」

 彼が偶々瑞希のマンションの前で力尽きたのではなく、
 瑞希のの利用価値を考えた上でのことだった、だとしたら?

(その可能性は高い。というか……逃げてきて偶然ここの前だったとか、普通ありえないから)

 彼は答えず、床に手をつき猫のように身体を伸ばして、瑞希に擦り寄った。
 湯上りで朱に染まる頬に鼻先を擦り付け、愛しむように肩先に頭を凭れさせる。
 それは好意の表現に似ていて、しかし気位の高い猫が気まぐれに懐いて見せただけにすぎない。
 誤解してはいけない、それは彼の思うつぼなのだ。

 何度もそう自分に言い聞かせてみるが、ここ2週間で愛着を覚えてしまったその存在を突き放すことなど、彼女にはできそうもなかった。

(卑怯だ、そんなことされたら……手放せなくなるのに……)

 この温もりがあればいい、だなんて。
 彼も同じ思いだなんて、誤解させられてしまう。

 それはだめだと彼女はその日、彼がここに来て初めてソファーで眠った。
 翌日、彼はもう部屋にはいなかった。


「………あ」

 つい癖で、二人分作ってしまった夕飯。
 明日食べればいいか、とラップして冷蔵庫に仕舞いこんだその時

 ピンポン、とチャイムが鳴った。

 まさか、いやそんなばかな、ありえない。
 期待と不安、強いて言うなら不安の方の比率が大きい、そんな感情を抱いて恐る恐る「どちらさまですか」と声をかける。

「瑞希」

 たった一声、それだけで鼓動が跳ねる。
 彼がそこにいる、扉を開けてもらえるのをそこで待っている。

 瑞希が躊躇っているのがわかったのだろう、彼は焦れるように指先でカリッと扉を引っかいた。
 締め出された猫が、入れてと懇願するように。

「瑞希」

 開けてくれ、と甘い声が強請る。
 このまま開けずにいたら、そのうち彼はいなくなる。
 そしてきっと、もうここには来ない。
 気まぐれな猫がずっとこのまま懐いていてくれるなんて思ってはいけない。
 彼はとても気位が高く、選り好みが激しく、時にとても残酷なのだ。
 彼女の傍には相応しくなく、彼の傍に彼女は相応しくはない。


 彼は警察で事情を説明してきたのだろう。
 そしてここにこうしているということは、表面上の疑いは晴れたということだ。
 まだその犯人である存在に狙われているという可能性も否定はできないまでも、脅迫していたのはあくまで亡き後輩であって彼ではない。

 全くの無関係であるなら、彼はそのうち日常生活に戻ることができるだろう。
 そこで、瑞希との縁は切れる。
 従兄妹という関係である以上完全に縁切りできるわけではないが、これまで通りすれ違って挨拶する程度の関係に戻るのだ。

 そうでなくてはならない。

 暫くすると、扉の前が静かになった。
 帰ってくれたか、とホッと息をついて瑞希は一人きりのベッドに潜り込む。

(あれ、足音は?)

 足音を立てずに静かに帰った、とも考えたが
 彼が履いていった革靴はカツカツといい音が響いたと記憶している。

 まさか脱いで帰ったわけでもないだろうし
 そう考えた時、あってはならない予感が脳裏に閃いて、
 慌てて扉を開けた、深夜2時。

 廊下は既に真っ暗に消灯されていて、その暗がりの中に【彼】はいた。

「なんでここにいるんですか」
「…………おかしなことを言うんだな……ここが俺の居場所だから、だろ」
「違う。あなたの居場所はここじゃない」
「違わないさ」

 お前が、俺に手を伸ばした。
 うちに来ますか、と俺の名前を呼んだ。
 その時、俺の居場所はここになったんだ。

 彼にとっても、ただ『他より興味がある変わった従妹』というだけの認識だった瑞希を、いつから『手に入れたい存在』だと思っていたのかはっきりとはわからない。
 だが、気がついたら彼女のマンションの前にいた。
 疲れ果て、座り込み、もし彼女に見つけてもらえなかったらここで夜明かししてもいいかな、くらいには執着を覚えていた。
 そして、無理やり同居してみて『手に入れたい』が『失いたくない』に変わった。


「あなたはもっと相応しいステージに戻るべきなんです。こんな貧相な部屋にいなくても、いくらでも贅沢な暮らしができるじゃないですか」

 だが彼は、わかってないなと言いたげに緩々と頭を振った。

「そこにお前がいなきゃ意味がない」


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