津波から逃げるために建てられた錦タワー=三重県大紀町で
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67年も前のことなのに、今もぽろぽろ涙が出る。「ばあやんを置いて逃げてな」。三重県大紀町錦地区の吉田五代さん(82)は、1944年12月の東南海地震の津波が忘れられない。
津波に襲われたのは15歳の時。家には寝たきりの祖母がいた。「ばあやんをリヤカーで運んで!」。何度叫んでも誰も足を止めてくれず、あきらめて高台に逃れ、ばあやんは波にのみ込まれた。
東南海の規模はマグニチュード(M)8。現在想定されている3連動のM8・7より小さいが、津波が集中するリアス式海岸沿いに民家が並ぶ錦地区は、64人の命が奪われた。この時の教訓が今、大紀町の防災方針に生きている。
「とにかく逃げる。5分以内に避難所へ逃げられるようにすることです」。町防災安全課の谷口三十二課長は言う。その象徴が、1998年に錦地区日の出町に建設された避難塔「錦タワー」だ。
町は山沿いの高台を中心に、5分で逃げられる避難所を整備してきた。だが、川に囲まれた日の出町は、橋が落ちると住民が孤立し逃げ場もない。
海抜4・2メートルに立つタワーは、高さ21・8メートルの鉄筋コンクリート製。想定8メートルの津波の力を分散するため円柱形にした。避難所は海抜12メートルの4階と5階屋上で、500人の収容が可能。500ミリペットボトルの水100本と自家発電装置も備えた。
東日本大震災後、タワーの視察に訪れる自治体が倍増した。魅力は建設費1億3800万円の低コスト。先細りする財政では、少なくとも数百億円規模の防波堤整備は負担が大きく、その効果も大震災にかき消された。
大震災では、錦地区2200人のうちタワーなどに逃げた人は300人。避難意識の徹底が今後の課題だ。「悲劇を繰り返さないためにも、訓練を重ねるしかない」と谷口課長は話した。 (中村禎一郎)
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