<武士道とは何か>シリーズ@
−組織と個人との関係性モデルとして−
国際日本文化研究センター
教授 笠 谷 和比古
武士道というのは、武士の社会の中で形成された行動の規範でありルールのことである。ただし「武士道」という言葉も、思想としての内容も、それが明確な形で歴史のうえに登場してくるのには、徳川時代を待たねばならない。
それ以前の中世・戦国時代においては、それらは「弓矢取る身の習い」とか「弓矢の道」と呼ばれていた。武士は、その発生時には騎馬・弓射という戦闘スタイルをもった専門戦士として認識されていたことから、そのように表現されたのである。
では「弓矢取る身の習い」、「弓矢の道」はと言えば、それは戦いの場において武士がわきまえておくべき作法であり名誉の観念に他ならなかった。戦場において正々堂々の戦いぶりを示し、敵の放つ矢玉をかいくぐって敵陣に一番乗りを果たし、なみいる敵を相手に天晴れ武勲・戦功をたてることをもって第一の名誉とした。須磨一ノ谷の逆落としで有名な源義経のような働きぶりが模範とされたのである。
中世社会で「弓矢取る身の習い」「弓矢の道」と称せられていたものは、戦国時代をへて近世に入るとともに「武士道」という新しい表現をとることとなる。「武士道」という言葉が登場してくるのは、だいたい一七世紀前半のあたりかと思われる。「武士道」という言葉も、当初の意味内容は、戦場における勇猛の振る舞い、未練、卑怯の態度が無く、一騎当千の武勲を意味していた。
しかしながら、徳川時代は武士が支配する時代でありながら、実に200年以上にわたって内戦もなければ対外戦争もまったく無いという、完全な平和を達成することになるのである。日本史上のみならず、世界の歴史を見渡しても実に稀有な完全平和の時代と言ってよいだろう。
今回のシリーズでもたびたび言及することになるが、徳川時代260年のうち、実に200年以上にわたって平和を持続していたという状態が、徳川武士社会に独特の性格を付与することとなり、引いてはその後の日本社会の性格を大きく規定することとなるのである。
このような持続的平和の時代の中で、「武士道」の内容は、単に武勇、勇猛一辺倒では不十分であり、領国を統治する治者、役人としてふさわしいような徳義を兼ねそなえたものでなければならないとする論調が次第に優勢となっていく。
一七世紀の半ばに出版された『可笑記』という題名の武士教訓書では、武士道の心得として、嘘をつかず、軽薄でなく、佞人でなく、胴欲でなく、無礼でなく、高慢でなく、誹謗中傷することなく、人との間柄も睦まじく他人を称揚し、慈悲深く、義理がたいことを肝要とし、単に命を惜しまぬ勇猛一辺倒では、良い侍とは言われぬとされている。
このように人格的な陶冶の精神が充溢していく中で、武士道の重要な要素であった「忠義」ということの内容も大きく変容し、深化していく。戦国時代から江戸時代の初め頃の武士道や忠義というのは、家臣が主君のために有利となるように取り計らい、走り回り、そして、主君の命令に無条件に服従することと考えられていた。
しかし武士道の思想が深化・発展していく中で、忠義の観念も次第に深まりを見せていく。徳川時代の武士道と言えば、かの三島由起夫も愛読した『葉隠』の武士道が周知のところであろう。これは一八世紀の前半、佐賀藩士の山本常朝が隠退後の一時に、同藩の若い武士の求めに応じて佐賀藩鍋島家の武士の心得の数々を口述した書物である。
同書の論述を読み進めていくならば、たしかに一方では、「主君の仰せつけとあれば、理非を問わず、謹んで命令を承わるべき」であるとしながらも、「さて気にかなはざることは、いつ迄もいつ迄も訴訟すべし」と主張する。
すなわち自己の信念に照らしてどうしても納得の行かない命令であったなら、主君に向かって、どこまでもどこまでも「諫言(諫め)」を呈して再考を求めるべきであるとするのである。そして更に進むと「主君の御心入を直し」、「御国家を固め申すが大忠節」というような表現も登場してくる。
もし主君が誤った考えにとらわれ、理不尽な命令や行動をとるようであるならば、そのような主君の間違った性根をたたき直して、「国家」すなわち藩とお家を堅固になるように行動することが大忠節だとする。たとえ主君の命令であっても悪しき命令に唯々諾々と無批判に従ってはならず、むしろ主君の間違った心構えを正しい方向にもっていくように奮闘努力することこそ大きな忠義であるという議論を展開しているのである。
それ故に、主命への事なかれ主義的な恭順ということは『葉隠』のもっとも嫌悪するところであった。「事によりては主君の仰せ付けをも、諸人の愛相をも尽くして」、おのれが信ずるままに打ち破って行動せねばならないこともある。畢竟は主君、御家のためを思う心さえ堅固であるならば紛れはないものとする。
『葉隠』における忠義の観念とはこのようなものである。それは一般に信じられているような主君への絶対服従を意味するものではなくて、自立した個人としての武士のあり方を第一義として、そのような武士の主体的な判断に基づく責任性の問題を、どこまでも追究していくような心構えを説くものであった。
このような武士の個人としての自立性を重んじる思想は、徳川幕府の儒者であった室鳩巣の『明君家訓』において、いっそう明確な形で論ぜられている。この本は、ある明君が臣下に訓諭するという形式に託して、あるべき主君の像、あるべき家臣の像を描き出した教訓書である。
まず主君の理想像であるが、「君たる道にはずれ、各々の心にそむくようなことを朝夕恐れている。私の身の行いや領国の政治について、おかしいと思ったことや改善意見があるならば、大小によらず遠慮なくそのまま私に直言してほしいと思う」と述べ、主君たる者は臣下の諫言、忠告に対して耳を傾ける寛容の度量が必須であるとする。
次に同書は臣下である武士に対して、「節義の士」であることを求める。室鳩巣の文章は実に簡明、的確に武士の理想像というものを描き出しているので、私は、「武士道とはどのようなものですか」という質問を受けるとき、『明君家訓』のこの箇所を味読してくださいと答えることが度々なのである。
すなわち、「節義の嗜みというのは、口に偽りを言わず、身に私を構えず、心すなおにして外に飾りなく、作法を乱さず、礼義正しく、上にへつらわず、下を慢らず、おのれが約諾を違えず、人の患難を見捨てず(中略)さて恥を知て首を刎らるとも、おのれがすまじき事はせず、死すべき場をば一足も引かず、常に義理(正義の道理)を重んじて、その心は鉄石のごとく堅固、また温和慈愛にして物のあはれを知り、人に情け有るを節義の士とは申し候」と。
『明君家訓』はこのように武士のあるべき姿として、主君、権力者に媚びへつらうことなく、自己の内なる正義の信念にどこまでも忠実であるような態度を求めるのであるが、しかしながら、もし主君から下された命令と家臣たる個々の武士の信念に基づく判断が、どうしても背反してしまうという場合にはどうなるのであろうか。
これについて同書は、きわめて興味深いことに次のように論断する。主君の側からの発言として、「総じて私の真意は、各自が堅持している信条を曲げてまで、私一人に忠節を尽くさなければならないとは少しも思ってはいない。たとえ私の命令に背くようなことになろうとも、各自が自己の信念を踏み外すことがないのであれば、それは私にとっても誠に珍重なことと思うのである」と。
同書における忠義論というのは、このようなものであった。それは主君に対する絶対服従の考えとは対極にある忠義観であり、絶対服従ではなく武士個々人の抱く信念、信条を尊重して、それに基づく抗命すら肯定する立場であった。徳川時代の武士道書でも、ここまで大胆に明言した書物は珍しいだろう。
どうして主君の命令に背くことが認められるのか。それは、このような自己の内なる信念に忠実であり、武士道的正義の原則に誠実な侍というものは、究極の立場において、主君と主君のお家に対する忠義の念を放棄したり、それらを見捨てて他に走るということは決してしないという深い信頼感が存在するからである。
むしろ、一から十まで何でも主君の言うままに従順であるような人間の方が、かえって油断がならないということだろう。そのような者たちは、主君やお家が強大で盛んな時には忠義顔をしているけれども、ひとたび落ち目となるや、さっさと優勢な大名のところへ鞍替えしていくようなタイプの人間である可能性が高いというのが経験の教えるところでもある。
徳川の武士道思想が有していた、このような組織と自立した個人との関係をめぐる考えは、現代の社会においてもなお検討に値するところがあるのではないであろうか。
さて『明君家訓』の議論は、なかなかユニークで鮮やかではあったけれども、それはあくまで一人の学者の見解にすぎなかった。ところが、この書物は次に述べるようなエピソードを通して、現実社会に対して重要な役割を果たすこととなったのである。
『明君家訓』は正徳五(一七一五)年に出版されたが、その翌年は享保元年で、幕府では吉宗が八代将軍に就任している。吉宗が将軍になって間もない頃のこと、吉宗に近しい人間がこの『明君家訓』を持参して紹介するということがあった。吉宗はこの本に目を通したところ、自分がかねて抱いている考えと一致するところがあると感じたのであろう、側近の小姓たち若い者に同書の一読をすすめたのである。
そうしたところ、これが口こみで広がって上様御推奨の本ということになってしまい、幕臣たちが競って同書を買い求めた結果、『明君家訓』は爆発的な流行を見せ、江戸城に登城する幕臣らは皆、これを懐中にしていたということである。
こうして室鳩巣の『明君家訓』の武士道論は、一人の学者の所説から、徳川時代の現実世界の生きた武士道へと昇格していくこととなった。それが幕府旗本たちの武士道ということになれば、これはもう一八世紀徳川武士社会における主流的な武士道となったことを意味している。武士道と忠義の観念は、一八世紀にはこのような地点にまで進化、発展を遂げていたのである。