3.1 結社の成立
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3.1.3 都市民権派ジャーナリストの活躍

(1)嚶鳴社の活躍

 当時,東京には都市に居を構え,新聞,雑誌,演説会を言論の武器として活躍していた民権派ジャーナリスト=都市民権派知識人がいた.彼らの多くは,弁護士,新聞記者,教員といった自由業的性格を持ち,言論機関をバックに反政府的論陣を張り,演説行動を主体に地域啓蒙に専心する.日本における最初の近代的インテリゲンチャと呼ぶことのできる運動家たちであった.

 民権派ジャーナリストの系譜として嚶鳴社,共存同衆会,交詢(こうじゅん)社,国友会,北辰(ほくしん)社などが挙げられる.これらの組織は,言論団体として,独自に,しかも東日本を中心にそれぞれの性格を持って演説活動に,討論会に,遊説にと積極的な啓蒙運動を展開していた.

 そうした中でも,東京に本社を置き1877年(明治10)ごろから活発な啓蒙活動を行っていた民権派ジャーナリストの代表的な演説団体,東京嚶鳴社の活躍には目を見張らせるものがあった.嚶鳴社は1874年(明治7).民衆の政治意識の昂揚を図って沼間守一(ぬまもりかず)やその同志たちが,東京下谷摩利支天(まりしてん)当所に開いた法律講義会がその起源であるといわれている.ここには肥塚龍,田口卯吉(うきち),堀口昇,島田三郎,末広重恭(しげよし),野村本之助といった,当代一流の進歩的な知識人が出入りしており,盛んに討論会や演説会を開催していた(参34).

 沼間守一は1879年(明治12)11月,第2回愛国社大会に呼応するかのように,東日本に組織の拡大を図っていった.まず同年10月『嚶鳴雑誌』を発刊した.そして11月には1872年(明治5)神奈川県で発刊された日本で最初の日刊紙「横浜毎日新聞」を引き継ぎ,本社を東京に移して「東京横浜毎日新聞」と改称,嚶鳴社の重要な言論機関とした.さらに地方との連繋による自由民権運動の拡大を求めて,また啓蒙手段の一環として各地に嚶鳴社支社を設立する.その数は東日本に29社といわれている(参35).

 1879年には,東京本社をはじめとして3つの支社(福島県石川郡,群馬県前橋,神奈川県横浜)が設立されていたが,その後も続々と誕生し,現在判明しているだけでも27社を教えることができる(参36)(2社は不明).東京嚶鳴社はこの支社を中心にして地方の組織化,啓蒙運動を展開していったのである.

(2)嚶鳴社と多摩

 神奈川県がその影響の下に,民権運動を展開するのは,1880年に入ってからである.「横浜毎日新聞」が沼間守一によって引き継がれると同時に横浜に第4櫻鳴社が設立された.その影響を受けていた八王子では1880年1月7日,第15嚶鳴社を誕生させる.このことによって三多摩一帯の民権運動は大きく刺激された.すなわち,三多摩地方はこの嚶鳴社主導の下に民権運動を発展させていったのである.まず,西多摩郡五日市では,八王子第15嚶鳴社に刺激されて,2月ごろから活発な動きをみせ始めた.「町会は去る十六日を以て初めて五日市字猪野開光院に開きたり.議長は旧多摩郡の書記たりし馬場某氏なり

 傍聴に出席せし人の咄(はなし)に僻地幼稚の会議にも似ず随分議事の体裁も能く整備し場中実に静かなり 這(これ)は全く県会議員土屋勘兵衛氏の誘導教示に依るなりと云ふ 目今有志輩五六名相謀り嚶鳴社員四五名を聘し演説会を開かんと各東西に奔走して尽力中なり」と「東京横浜毎日新聞」2月26日号に見られるように,結社の準備に入る.そして4月「学芸講談会」と呼ばれる学習結社が組織され,さらに同じころ,五日市嚶鳴社が発足したのである.この学芸講談会は後述するように,多摩の民権運動における最大の成果,「五日市憲法草案」起草の中心となった結社である.

 また,町田の南部では細野喜代四郎,井上光治らによって琢磨(たくま)会が結成された.もっとも町田地域では,1879年(明治12)5月,石坂昌孝,橋本政直,若林有信ら19名の豪農層,地方名望家層の手によって,責善(せきぜん)会と呼ばれる結社が誕生していた.嚶鳴社の積極的な啓蒙活動によって多摩の民権運動は,その発展が約束されたとき,前述したように集会条例が発布されたのである.すなわち明治政府は,第一回国会期成同盟大会の活況(国会開設請願運動が大きく昂揚しようとしていた)に驚き,太政官第12号布告をもって,これを発布したのである,

 この集会条例の施行は,多摩においてもかなりの打撃を与えたことば,この節の冒頭にも述べたとおりである.また,嚶鳴社をはじめとする民権派ジャーナリストの演説,啓蒙活動にもこの時期一時的に停滞したことはいなめない.しかし,こうした弾圧に屈服するほど,武相の民権運動は弱くはなかった.現に五日市の学芸講談会には,その規則において「第三条 本会ハ日本現今ノ政事法律ニ関スル事項ヲ講談論義セス」と集会条例に対する防備を固めつつ,内では活発な政治,法律,憲法の学習を展開させていた.その証明として,この地域で完成した憲法を後に見るであろう.以上のように,愛国社潮流,都市民権派ジャーナリストの潮流による啓蒙は村を基盤とする在村的潮流の成長を約束するものであった.



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3.1 結社の成立