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10月, 2004:

羅漢を支えた人たち

今日のご紹介は、長きにわたり両羅漢を支えてきてくれた方々を。まずなんといっても殊勲はお二人の奥方ー浦野夫人田鶴子さんと分島夫人せい子さん。このお二人の支えなくしては、羅漢といえども今展を迎える事はできなかったであろう。両夫人とも学生時代からのお付き合い。田鶴子さんは浦野氏の学部の先輩にして、泣く子も黙る才媛。民俗学の教科書などもかるーく執筆しちゃう学者さま。また、せい子夫人は、な~んと分島氏予備校時代から彼を食べさせていたという。彼女が弾くチェンバロを作ろうと学生時代頑張っていた分島氏を思い出す。(ちなみに彼は悦子の多摩美ーズ同級生)。しかもそのチェンバロに絵を描いていたというのが、また今回の漆の仕事に繋がってくるのが凄い。多分貧乏だったその頃、奨学金を注ぎ込んでの製作だったというから、愛情のいかばかりだったかいわずもがな。
また、岡山から分島氏妹さん・お父様のご来廊。お祖父さまの代には瀬戸内に島も持っていたという家系だけあって、美男美女の一族だ。
むし関係では、伊藤弥寿彦氏が伊藤博文氏のひ孫、大久保氏は大久保彦三衛門の直系とか。なんだかすごい方たちに応援してもらってお幸せなお二人を。

羅漢の恩人たち

羅漢工房は、仏像や伎楽面など文化財の修理と出土漆製品や土器などの埋蔵文化財を主に手掛ける浦野氏が立ち上げた会社である。
翌年、屏風や襖絵などの文化財の復元修理や模写に携わった分島氏が入社し、それぞれの分野をいかした作品づくりをしていこうと、共通する漆の師をもつ二人の共同作業による作品制作が始まったのだという。
漆芸家・村井養作氏のもとで、浦野氏は1987年から変わり塗りを、また分島氏は1992年から蒔絵を学び、今展では下塗りまでを浦野氏が、蒔絵を分島氏が受け持つ形で制作した。
工房として発表する初めての作品展となった今展のテーマは厨子と龕(がん)。お母さまを亡くした分島氏が長年暖めていた思いから構想は始まったのだという。本来は正倉院の玉虫厨子にみられるように、神仏を納める函といった意味合いのものだが、彼等の意図はそれに留まらず、大切なものとの「対話装置」として企図したもの。
古典作品の復元模写を通して培った美意識と技術を生かし、現代の感覚で作品を創造するというチャレンジに二年を費やした二人は、今、満身創痍ながら大きな喜びにつつまれているようだ。
おおげさにいえば、彼等の今までの人生の集大成ともいえる作品は、それぞれの生き方を反映して美しく凛然と画廊にあって訪れる人の目を奪い、驚かせている。
厨子の中の宇宙は、それが空洞であることでさらにその奥行きをひろげ、華麗に施された外側の装飾にいっそうの荘厳さをあたえている。
一体ひとは函を開ける時、心のなかに何を思うのだろうか。そして、この宇宙になにを置きたいと念じるのだろうか。この厨子を見る人たちの背中に、そんな問いかけをしてみたくなる。
今日はお二人の漆の師・村井先生のご来廊を得た。また、卒制も買い上げてくれたという分島氏奥様のご両親、虫好きのお仲間で、10代から兄弟のような親交という伊東弥寿彦氏とお母さまもご来廊。長い間、そしてきっと今もお世話になっているに違いない方たちに、今回の成果を見て頂く両氏の恍惚と不安の表情を御紹介

怒濤の初日ー羅漢様たちの饗宴

案の定、初日だというのにぎりぎりの時間に滑り込む悦子。画廊の前には心配そうに佇む浦野羅漢とそのいとこさんで北海道でギャラリーどらーるを営む坂本氏の姿が。
大車輪で開幕した画廊には続々と今回の羅漢様たちのためにお祝いにかけつけてくれた。中野でシルクラブという呉服ギャラリーを経営なさっている西村氏はいきなりのお買い上げ。浦野羅漢の地元加須からは内田様ご夫妻も迎え、分島羅漢もアドレナリンが出っぱなしのご様子。
浦野羅漢は縄文時代出土漆製品や仏像修理を、分島羅漢は瑞巌寺の障壁などの復元模写を中心に、数多くの文化財を手掛けて来たエキスパート。かねて旧知のふたりが、羅漢工房として、初めて作品を発表する今展。はやくもそのただならぬ技量と美学に注目が集まりつつある。
怒濤の初日はやはり怒濤だけあって、お二人の広い交際範囲を示すかのように各界の方が多数ご来廊。詳しくはあとで述べるとして、今日は画像でその一端を。

めくるめく搬入作戦ー初日にたどりつくか?

明日からの第一回羅漢工房展。搬入日にいたる道のりは遠かった。まず、23日の宮永画伯搬出日の中越地震。震源地であのような事になっていたとは露しらず、赤帽さんの待つ前で梱包作業。なんとか絵を支えつつ無事送り出した頃、羅漢工房ではまさに展示台の制作中。埼玉は加須という関越に近い場所だったため150年の古民家に住む浦野家はゆれにゆれていたらしい。
浦野氏は最後の作品の仕上げに徹夜作業、分島氏は初めての展覧会に興奮気味で一睡もできず搬入の日を迎えたという。
浦野氏夫人田鶴子さん、両氏の元同僚・伊東尚子ちゃんなど三人のお手伝いで侃々諤々、喧々囂々、阿鼻叫喚、疾風怒濤の搬入作戦は無事終了。これで悦子が明日の朝ちゃんと起きれれば初日が迎えられる、と一息ついた頃、初日と間違えてご来廊のご家族連れが。
こういうところがさすが多摩美ーズてなことで、同級生には超うけそうなお方の名は永本君。奥方と一粒種のお嬢ちゃまの御披露目も。悦子は卒業以来会ってなかったが、分島氏の初展覧会とあって勇み足もヤムを得ず。
一足早く同僚会と同級会となって、早くも初日前に宴が催されることになった次第で、ますます明日ちゃんと起きられるか危ぶまれる事となった。お父さんの事が心配そうな、分島画伯令嬢・花音(かのん)ちゃん16才とともに今日のご報告。

宮永展最終日

ポーランドから婚約者アガタさんを伴って帰国の画伯は、来年の結婚をひかえてご郷里へご挨拶に。お留守を預かる悦子は、色んな方と初顔合わせ。とはいえ、みなさんすでにウェブページを閲覧済みーコスプレページ見ました、といわれると身もすくむ思いだが、話は早い。
是非ページにご登場を、ということで横浜の吉田ご夫妻を御紹介。やはり、ポーランドで画伯の親切なアテンドを受けて、東京での初個展のお祝いに。また山形からはやはりテンペラ画家のサイトユフジ氏が。画像はないが福岡教育大時代の恩師でニ紀展の滝純一先生や、諏訪中央病院の蒲田先生ご夫妻など遠方から多数のお客さまをお迎えした。
最終日の画廊は、駆け込みのお客様が次々といらしたが、群馬からは若林加代子ちゃんがわざわざ。画伯は不在だったが、作品を鑑賞しつつ最後の宴。なにせ初日ワイン15本が空になった今展、さしもの悦子酒蔵も在庫薄。とはいえ、珍味役員杉田氏が千葉の焼きハマを買ってご来廊とあれば、秘蔵のお酒を出さない訳にはいかない。俳句仲間の誠子さんやななめちゃんなど、イケル口の面々もいて加代子ちゃんもうれしそう。名残はつきないが、重厚華麗な作品たちともお別れ。日本に残る事になったポーランド生まれのワンコたちよ、画伯にかわるご主人様のところで可愛がってもらうのよ~!

ありがたや父母の恩

大分は国東半島のご出身の宮永画伯。遠方のため上京かなわぬご両親にかわって、お父様の恩師・溝辺先生ご夫妻と、お母さまの幼なじみという水谷さん親娘のご来廊。
豊後水道の豊かな恵みに育まれすくすく大きくなったとおぼしき画伯も、お父様お母さま御縁の方々の前では、幾分身を縮めてご対応を。
お父様のこどもの頃の恩師である溝辺先生、初めて赴任した頃の国東は、ほんとに鄙びたところだったらしく教え子宅に下宿しての通勤だったという。今でこそ磨崖仏で有名な場所になったが、その頃は行ったこともなかったというから、時代といえば時代。今は空港も側に出来て便利この上ないとか。
九州男児とはいえ、武張ったところがなく実に礼儀ただしい画伯の性格は、こののどかな自然がつちかったのかも。
また、日曜日の昨日は、結婚式かえりの面々がくしくも画廊で鉢合わせ。福岡からはテリーの若いお弟子・原口綾花ちゃん、金沢芸大出身のお二人、金沢の稲熊君と姫路の北川君はともに彫刻家。宮永画伯の同級生河野君ともども、若い方たちの会話もはずんでなによりなにより。

どのくらい大きいか、というと

ポーランド関連のお友達が大勢駆け付けてくれて大にぎわいだった昨日に引き続き、悦子関係の方では京都のマカロン落合画伯ご夫妻、ムラコ村越画伯、武大人画伯、府中美術館館長の本江邦夫氏などの方々が次々のご来廊。多摩美の教授でもある本江氏を囲んで、宮永画伯の御縁の現役多摩美ーズ・片山真妃ちゃんや卒業生が学校では聞けない色々なお話を。
また、養清堂画廊で個展中の筆塚稔尚氏や、同じく版画家の遠藤竜太氏も、国際版画トリエンナーレのあるクラカウ御縁のお方。かの地で、宮永画伯にマージャンを仕込まれたという。
さて、宮永画伯アガタさんがどのくらい大きいか、という話も以下の画像で一目瞭然。大きいちゃんクラブとちっちゃいちゃんクラブの共演をとくと御覧あれ。なんか、サウンド・オブ・ミュージックみたいでしょ。

宮永匡和展ーN.Yの後はポーランド

イザベル画伯の搬出に、沖縄展の荷物の整理、宮永画伯の搬入と大車輪で働いた昨日。なんとかセーフに漕ぎ着けて、怒濤の初日と相成った次第。
N.Yの里佳画伯から、沖縄展、またN.Yのイザベル画伯ときて今日からはポーランド・クラクフ在住のテンペラ画家、宮永匡和画伯と海越えの企画は続く。
台風22号が東京に上陸した日、奇跡的に成田に到着した画伯とパートナーのアガタさん。嵐のなか作品満載の車で高速を飛ばして来てくれたご両人、宮永画伯194cm、アガタさん180cmというビックなカップルにつき、目の前に壁ができたよう。今年34才になるという画伯は、いかにものびのび育った好青年。大分で1970年に生まれ、福岡教育大学から筑波大学大学院芸術科修了。その後JICAの派遣でポーランドに行き、古都クラクフの美術アカデミーを卒業した。日本ではニ紀展に出品し、1992年に大賞を受賞している。主にヨーロッパでで発表し、地元大分のみさき画廊さんで日本初個展。東京では悦子画廊がデビュー戦という。
アガタさんは鹿児島大学に留学して日本文化を専攻した才媛。今はカールスバーグというビール会社に勤めている。
今展では101匹ワンちゃんならぬ14匹の犬が勢揃い。几帳面に左をむき整列している。なぜか画伯に面差しが似ていて、飼い主はアガタさん?ってちゃちゃを入れたくなる感じ。
初めての東京個展という事で、ポーランドで画伯の親身なアテンドを受けた方々が多数お見えになった。劇団木山事務所の方々や、日本に留学中のポーランドのお嬢さんたち、クラカフ国際版画トリエンナーレで受賞し、個展もなさった片山憲二画伯ご一家など大勢の方々がお祝いに駆け付けてくれた。悦子関係では、ご存じテリー&佐名ちゃんご夫婦、宮永画伯を悦子に御紹介下さった野地練馬の守、佐藤美術館学芸王子・山川君、ウェブリニューアルで大忙しのマスター大里っち、銀子、トシ君キリン両画伯などのご来廊。とり急ぎ、大にぎわいの初日の模様を緊急アップ!!来て下さった皆様、有難うございました。

イザベル・ビゲロー展

最終日の沖縄、八時三十八分に怒濤の梱包作業を終えて九時発の東京便に乗れたのは、まさしく奇跡だった。翌朝はイザベルの初日、いない訳にはいかない。泥縄とはいえ根性の帰還作戦だった。
すでに留守中、スタッフの美智子ちゃんが搬入を済ませてくれていて、完璧な準備態勢だったが無事初日が終わった時にはさすがにほっとしてへなへな~。
ニューヨークから届いたばかりの作品は、バーチャル展で御覧のようにビビットな色彩なのに、落ち着いた印象を与える平面。パネルにオイルで描いたというが、一見型染めの布を思わせる質感をもつ。また、龍安寺の石庭の印象を強くイメージさせるRed rocks と題された三点は、微妙に描き方捉え方をずらしながら面から線へと作品を抽象化させている。また、琳派的表現としての波や草への意匠的チャレンジも、イザベル画伯独特のマチエールとあいまって、なんとも不思議な空気を醸し出している。
2000年末初めて日本で個展をした折には、微妙な陰影を柔らかな色調のトーンで描いていたイザベル画伯、約四年の歳月の折々、送ってくれる個展のカードに「八ツ橋」のシルエットなどを認め、来日が彼女の中にひき起こした一種のカルチャーショックをうれしく思ったものだったが、今展でいよいよ本格的に自分のモティーフとして取り込んでいるのを確認し、粛然と対峙させていただく事となった。
伝統的な日本画の様式を当たり前のように享受し、あたかも自分のもののように感じながら、伝統的といわれる画題を伝統的な様式で、しかも自分のものとして描く人が今日本にはいない。本物が凄すぎて描けないのかもしれないが、海の向こうから王手!っと言う感じでイザベル画伯の「石」が届いた時、何か忘れていた宿題を目の前に出されたような感じがしたのが面白い。
もちろん違和感もあるし、表層的すぎると思わなくはないが、画伯の表現したかった世界は、ある種静謐な詩的イメージだろうから、その印象を第一義に味合わうとにわかに赤い石が奥行きをもち始めた。フラットな平面に心を寄せていくと、その磨かれた表面のにじんだような線が動き出すー前作の陰影シリーズの影のように。石たちを彩る赤も静かにその吸引力を強めていくかのようだ。一度この前で座禅でもしてみようか。
板東里佳画伯との御縁で、ギャラリー上田の上田恵社長を画廊にお迎えした。御同席は戦う精神科医・ドクター山下。この日は名誉の負傷を追って現れ、ここでは語れないその顛末などを夜中まで。また、現代美術の宴三君も共感をもって鑑賞してくれた。以下画像でご紹介。

無敵の後発隊・那覇を行く

色々な組み合わせの画伯たちと取材同行したが、こんな濃いのはない、と思われる武大人VSりえぞー画伯。台風で鹿児島に足止めされていた作品も無事届いたギャラリーにご到着あそばした。連日の御仕事疲れもものともせず、早速モデルになってもらった大城美佐子先生のお店にご挨拶を。
すっかり那覇の裏道にも通じた武大人、昨日までここに居たかのような雰囲気で先導を。またりえぞー画伯はどこに居ても堂々となさっているお方につき、な~んにも心配いらない。大城先生のところで別動隊の牧ちゃん、セイヤと合流、今宵も楽しく盛り上がる。
NHKの取材があり、ニュースで紹介されたせいか、翌日の会場は日本画というものを見ようと大勢の人が押しよせ、十人十色の画家の個性に驚いている様子。日本画の、しかも若い画家たちの作品が沖縄で発表される機会は稀だという。『見なれない表現だが、きれいだ。イメージが変わった』というご意見が多かったのは有り難いこと。生きて動いている日本画の佳さが伝われば今展の甲斐はある。
新潟からは池田美弥子画伯の御両親もお迎えしてうれしいこと。悦子の好物の珍味みやげつき(珍味堂の噂は鳴り響いているに違いない)。沖縄で食べる新潟の枝豆、大変おいしゅうございました。御礼を。
このように、色々な人と出会わせてくれた、二年越しのー美ら島を描く展ー、開けたのはひとえに沖縄のベースとして、画家たちのサポートをしてくれたセイヤ役員のおかげ。もうこなくていい、と言われそうだが、これでようやく一歩が記せたところにつき、まだまだよろしくねっ!そしてありがとう!沖縄ぬカヌシャマヨ~!

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