私の「石橋湛山論」(9 )
「平和共存・平和競争」・・・・真の意味でのプラグマ
ティスト
石橋内閣は、1956(昭和31)年12月23日に発足した。
(*右下の写真)
この船出を、日本国民は、心から歓迎した。
国民の期待に応えるべく、石橋湛山は、同年12月、首相として、
東京日比谷公会堂において、全国遊説の第一声をあげた。
そこで彼は、次の
「五つの誓い」を表明した。
2.政界および官界の
綱紀粛正
3.雇用の増大
4.福祉国家の建設
5.世界平和の確立、
である。
実は、第5番目の
「世界平和の確立」こそが、
湛山の最大の課題であった。
それを、裏から言えば、”自主独立外交の推進”ということである。
「日米軍事同盟」
に左右されない
視座である。
当然、この視点は、
根っからの英米主
義者である吉田茂
には、まったく
見られない。
(*上の写真は、日比谷公会堂)
“独立不羈の精神”こそ、吉田ではなく、湛山が堅持したものである。
また、湛山の中国への愛情と関心は、政治家、ジャーナリストの誰より
も古く、かつ首尾一貫していた。
「ナショナリズム」を
じゅうぶん理解した
代表的日本人とい
っても、決して過言
ではない。
中国問題に当たる
人として、彼以上の人
物は考えられなかった。
(*右の写真は、1963年
10月1日に、毛沢東主席
を表敬訪問した石橋夫妻)
もし、そんな彼に類する人を、敢えて挙げるならば、それは、吉野作造
博士( 1878~1933 *下の写真の人物)であろう。
中国を取り込んだ「平和
共存・平和競争」でなけ
れば、もはや先進国の
経済も、”持続可能な
発展”は保障されない。
この言葉は、今では、
陳腐に聞こえよう。
だが、彼のこの主張は、
日中復交に先立つこと
16年、今からすでに
56年も昔のことである。
むしろ、日中問題が極めて厳しい今日、我々は改めて石橋湛山の視座
から、日中間の問題を冷静に見つめ直す必要があるのではないだろうか。
とはいえ、それは決して、中国に無条件に〝平伏する”ことではない。
あくまで、言うべきことは言わねばならない。
1961年に、湛山が平和憲法の精神を堅持して、「日中米ソ平和同盟」を
提唱したのも、地球破壊の可能性をはらむ核戦争を回避して、共存共栄
の世界の建設を求めたものだった。
長幸男氏によれば、民主主義・自由主義・平和主義を標榜した湛山の
思想は、ひとまとめにすれば”個人主義”である。
ただし、個人主義といっても、今の日本にはびこっているエゴイズムや
ナルシズムではなく、徹底した”インディビデュアリズム”であり、かつ
「人類主義」でもある。
つまり、あらゆる人間は、個人としての人格的尊厳と、それにふさわしい
人間としての“生きる権利”を持つべきだという考え方である。
そういう意味では、湛山は、18世紀の啓蒙主義やフランス革命以来の
近代思想を受け継いでいる。
換言すれば、湛山の理論や政策は、その時々の問題に応じて、”人間の
立場に立ったら、どういう解決方法がいいか”ということを基準にしている。
そして、彼にとってイデオロギーは、あくまで人間に奉仕するものである。
決して、その反対ではない。
「有髪の僧の宗教家たるの志」を捨てたことのない湛山は、その認識
方法においては、ジョン・デューイ(*右下の写真の人物:1859~1952)、
田中王堂の流れを汲む、真の意味でのプラグマティストだった。
とりわけ、「言論の自由
こそ民主主義の要であり、
それは何物にも代えがた
いものである」ということ
こそ、湛山が命を賭けて
主張し続けてきたものだ
った。
この信念を彼は、生涯
を通して守り抜いたと言
える。
この彼の不屈の「信念」
こそ、今日のアメリカ隷属政治を見慣れた我々が、石橋湛山から真に
学ぶべきものではないだろうか。 【つづく】