2012年8月21日 (火)

私の「石橋湛山論」(9 )

  「平和共存・平和競争」・・・・真の意味でのプラグマ

ティスト


  石橋内閣は、1956(昭和31)年12月23日に発足した。

(*右下の写真)

 この船出を、日本国民は、心から歓迎した。

  国民の期待に応えるべく、石橋湛山は、同年12月、首相として、

東京日比谷公会堂において、全国遊説の第一声をあげた。

 そこで彼は、次の

「五つの誓い」を表明した。

 つまり、Photo_2

1.国会運営の正常化

2.政界および官界の

  綱紀粛正   

3.雇用の増大      

4.福祉国家の建設 

5.世界平和の確立、

  である。

 

  実は、第5番目の

「世界平和の確立」こそが、

湛山の最大の課題であった。

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  それを、裏から言えば”自主独立外交の推進”ということである。 

  Photo_3
 それは、既存の

「日米軍事同盟」

に左右されない

視座である。 

 当然、この視点は、

根っからの英米主

義者である吉田茂

には、まったく

見られない。

(*上の写真は、日比谷公会堂)

  “独立不羈の精神”こそ、吉田ではなく、湛山が堅持したものである。

 

  また、湛山の中国への愛情と関心は、政治家、ジャーナリストの誰より

も古く、かつ首尾一貫していた。 

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  湛山は、中国人の

「ナショナリズム」を

じゅうぶん理解した

代表的日本人とい

っても、決して過言

ではない。

  中国問題に当たる

人として、彼以上の人

物は考えられなかった。

*右の写真は、1963年

10月1日に、毛沢東主席

を表敬訪問した石橋夫妻)

 

 もし、そんな彼に類する人を、敢えて挙げるならば、それは、吉野作造

博士( 1878~1933 *下の写真の人物であろう。

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  湛山の言葉で言えば、

中国を取り込んだ「平和

共存・平和競争」でな

れば、もはや先進国の

経済も”持続可能な

発展”は保障されない。 

  この言葉は、今では、

陳腐に聞こえよう。 

 だが、彼のこの主張は、

日中復交に先立つこと

16年、今からすでに

56年も昔のことである。

 

  むしろ、日中問題が極めて厳しい今日、我々は改めて石橋湛山の視座

から、日中間の問題を冷静に見つめ直す必要があるのではないだろうか。 

  とはいえ、それは決して、中国に無条件に〝平伏する”ことではない。 

あくまで、言うべきことは言わねばならない。



  1961年に、湛山が平和憲法の精神を堅持して、「日中米ソ平和同盟」を

提唱したのも、地球破壊の可能性をはらむ核戦争を回避して、共存共栄

の世界の建設を求めたものだった。

 

  長幸男氏によれば、民主主義・自由主義・平和主義を標榜した湛山の

思想は、ひとまとめにすれば”個人主義”である。 

  ただし、個人主義といっても、今の日本にはびこっているエゴイズムや

ナルシズムではなく、徹底した”インディビデュアリズム”であり、かつ

「人類主義」でもある。

  つまり、あらゆる人間は、個人としての人格的尊厳と、それにふさわしい

人間としての“生きる権利”を持つべきだという考え方である。

 

  そういう意味では、湛山は、18世紀の啓蒙主義やフランス革命以来の

近代思想を受け継いでいる。 

  換言すれば、湛山の理論や政策は、その時々の問題に応じて”人間の

立場に立ったら、どういう解決方法がいいか”ということを基準にしている。 

  そして、彼にとってイデオロギーは、あくまで人間に奉仕するものである。 

決して、その反対ではない。



  「有髪の僧の宗教家たるの志」を捨てたことのない湛山は、その認識

方法においては、ジョン・デューイ(*右下の写真の人物:1859~1952

田中王堂の流れを汲む、真の意味でプラグマティストだった。

Photo_8
  とりわけ「言論の自由

こそ民主主義の要であり、

それは何物にも代えがた

ものである」ということ

こそ、湛山が命を賭けて

主張し続けてきたものだ

った。 

  この信念を彼は、生涯

を通して守り抜いたと言

える。

 この彼の不屈の「信念」

こそ、今日のアメリカ隷属政治を見慣れた我々が、石橋湛山から真に

学ぶべきものではないだろうか。 【つづく】

2012年8月20日 (月)

私の「石橋湛山論」( 8 )

   吉田茂の信仰心



  それでは、石橋湛山の法華経信仰に比して、吉田茂はいったい、いかな

信仰を持っていたのだろうか? 

  それについての考察は、彼の精神性の深浅を知る上で貴重な参考となろう。



  余り世間には知られていないことだと思うが、吉田茂は、カ トリック だった。
 

だが実は、彼は死後、カトリックの洗礼を受けた。 (*下の写真は、東京カテ

ドラル・関口教会)  Photo

 それは、先に天

に召された雪子

夫人を、彼が心底

愛していたがゆえ

行為かとも思う。 

 なぜなら、牧野伸

(のぶあき*下の

写真の人物:1861

~1949 )愛娘

(長女)であり、

大久保利通の孫娘

でもあった雪子夫人

は、敬虔なカトリック

信者だったからだ。 

  吉田は、信仰を同じくする者でないと、後の世(天国)で会い見(まみ)

えることは出来ないとでも思ったのかも知れない。  


  Photo_3
 生前、彼がカトリックの

洗礼を敢えて受けなかっ

たのは、「尊王の政治家」

としての彼のプライドが許

さなかったからだろう。 

  それに何より、彼には、

カトリックの政治指導者

(=首相)が、戦後間も

ない日本で認知される

思えなかったに違いない。

 そこには、吉田の冷徹

な計算あったと思われる。

 

  実は、あの麻生太郎氏が、カトリックとして日本の総理大臣となった、

唯一人の政治家である。 

 「フランシスコ」という洗礼名を持つ太郎氏の受洗(*多分、幼児洗礼だと

思われるが)こそは、まさに同氏祖母・吉田(旧姓牧野)雪子が、麻生家に

蒔いた信仰の種によるものであろう。


  だが、彼の祖父・吉田

茂の信仰は、Photo_4麻生太郎

氏のそれのような家庭内

の信仰に基づく“継承的

(あるいは、伝統的)”

なものではない。 

 また、心底、深い葛藤

の末に到達したものとも

思えない。 

  むしろ、吉田は、石橋

湛山のような真剣な信

仰とは対極的な“白けた”

パーソナリティの持主

だったように感じる。

 それを、人は、”ニヒル”

と感じるかも知れない。

 

 しかし、私には、それは、単なる”無感覚”としか思えない。無感覚で、

心に”神や仏がいなかった(=まことの信仰が無かった)”がゆえに、

吉田は、石橋湛山や鳩山一郎だけでなく、後世のわれわれ日本国民をも、

シレーッと裏切れたのと思うのだ。 

 正直、吉田には、信仰に伴う真摯さや真面目さが、私には、殆ど感じら

れない。

 

 もし、彼が深い洞察と改心の末にカトリックへの入信・受洗を願ったので

あれば、首相の座を去った後、大磯に隠棲していた時にでも、じゅうぶん

出来たはずだ。 

  だが、彼は、この人生の“実りの秋”に受洗したわけではない。むしろ、

臨終期の、まったく意識不明の状態の中で、受洗したと言われている。

 この臨終間際の受洗の司式を担当したのは、若き日の浜尾文郎司祭

(のちの枢機卿:1930~2007 )である。 

  Photo_5
 ところで、死の直前、

入信し洗礼を受ける

ことを、信徒(信者)間

では、よく冗談に、「天国

泥棒」と言う。 

  その意味で言えば、

吉田は、「天国大泥棒」

(?)ということになろう。

 明確な意識がある内に

受洗したわけではない

からだ。

   正直、「死後の受洗」

など、実に虫のいい話

だと思う。

 入信や改宗には、それなりの決断を要し、時には、多大の犠牲を伴う

ものだ。

  だが、このような一事に、私は、吉田茂の本質的な”いい加減さ”がある

と感じる。その点で、彼は、石橋湛山の宗教性や精神性に比べて、まさに

「月とスッポン」だと思うのだ。 

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 このような軽薄、かつ

思想性の浅い指導者を

珍重するところに、特に

日本人の絶ちがたい

”軽薄さ”があると思う。 

  かつての小泉純一郎

と日本国民の関係を

れば、一目瞭然では

いか。―


 実は、岸信介(*下の

写真の人物)も、吉田

と似たところがあった。

 かつての政治評論家

細川隆元の言によれば、

岸は、”安保条約が通るか通らないか”ということが、非常

に気になり、藤田小女姫(こととめ)に訊ねている。 

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 この問いに対して、

藤田は答えた。 

「断固としておやん

なさい。通ります。

 その代わりに、通っ

た後、あなたの内閣

は、長くはもちません

よ」と。 

  それ以来、岸は、

藤田の信者となる。

 岸は、統一教会や

創価学会との関係が

密であったが、判断に

窮した時は、藤田小女

姫に頼ったのである。

 

  だが、藤田自身は後年、ホノルルで息子と共に、息子の友人によって射殺

され、部屋を燃やされた。 

 ちょうど、私が住んでいたコンドミニアムの最上階(ペントハウス)での惨劇

だった。


  信仰は、確かに、個人の自由である。吉田が、どんな形で受洗しようと、

岸が誰を信じ、かつ頼ろうと、それは、政治そのものとは、まったく関係ない、

と考える人も多いことだろう。

 だが、私は、この程度の精神性や宗教心である以上、真に“独立不羈の

政治指導”などできないと思う。

 

  吉田はかつて、白馬にまたがって、外務省に出仕したという。

彼は、「自意識過剰の男」だったと思える。

  だが、岸も中曽根も小泉も、まったく同じではないか。このような人々は、

真の謙遜さとは無縁である。そのような彼らに、真に国民の立場に立つ

政治など土台無理だと思うのだ。 むしろ、アメリカ隷従型の「売国政治」

こそが、彼らの本領だったと言えよう。

  因みに、吉田茂の愛読書は、岡本綺堂(1872~1939)の『半七捕物帳』

だった。

 この作品は、江戸情緒溢れる描写で、長く人気を得たと言われる。      

あるいは、池波正太郎(1923~1990)の世界に通じるものがあったのかも

知れない。

  だが、この事実は、「マンガが趣味」という彼の孫に通じる、ある種の

“軽さ”とは言えまいか。

 多分、吉田は、哲学や経済学、さらには政治学などを、真正面から真摯に

研究したことなどなかったであろう。

  その点では、彼は、ウィンストン・チャーチルはおろか、石橋湛山などと

本質的に違った「政治的人格」だったと言えよう。


 
  大久保利通  vs  西郷隆盛、吉田茂・岸信介 vs  石橋湛山。―

 ある意味で、前者は「勝者」である。

だが、彼らは後者に比べ、本質的に宗教とは無縁で、真に謙遜な信仰心を

持ちえず、万物への畏敬心のない「無明」の人々だったと思う。

 このような“精神性無き”人々を、戦後の日本人は心底信頼し、その結果、

彼らに、したたかに裏切られたのである。 【つづく】

2012年8月18日 (土)

私の「石橋湛山論」(7 )

   湛山と吉田茂

 

 
  湛山と吉田茂が初めて出会ったのは、昭和14年12月12日、清沢洌

(きよし:下の写真の人物:*ブログ『シニア・中高年の「元気が出る

ページ」』より転載:1890~1945)の紹介で、吉田邸においてだった。 

Photo
 だが、戦後、両者間に

共同戦線が組まれる

とはなかった。

 その政治信条や価値

観が、余りにも隔たって

いたからである。  

  湛山は、戦後第一回目

の総選挙(1946年)に、

東京から立候補して落選

する。 

 その際、湛山は、社会党

ではなく、鳩山一郎の

党を選択した。 

  「なぜ、社会党に入らないか?」と人から聞かれると、湛山は、「社会党

には、社会主義というイデオロギーがあって自由がない。自由党は、日本

の政党では、一番自由がある政党だから」と答えている。



   この総選挙で、自由党が第一党になり、鳩山は、念願の総理の座を手中

収めようとした。 

  だが、彼は占領軍により追放を受け、彼の身代わりに吉田が総裁、総理

となり、第一次吉田内閣が成立した。

 

  湛山は、落選者にも拘わらず、民間出身として大蔵大臣に起用され、腕を

振るうが、占領軍に反抗的とみなされて理不尽な理由で追放されてしまう。 

  この時の理由が、GHQ(占領軍総司令部:下の写真)に注がれる国家予

算の3分の1の「縮減策」を、当時の石橋大蔵大臣が大胆に提起したことが

挙げられる。 

  この時、吉田は湛山に対して、「犬に噛まれたと思って、諦めてくれ」と言っ

ている。

 

 何と薄情、かつ心ない言葉だろう。だが、どおってことはない。現実は、

その吉田が、GHQの諜報部(あるいは、直接マッカーサー)に、湛山の

ことを、不当に告げ口していたのだ。

Ghq 

  より具体的に言えば、増田弘氏の著『公職追放論』が、その重要な参考

文献となろう。同氏は、占領中の三大政治パージとして、鳩山一郎、石橋

湛山、それに平野力三(*下の写真の人物:1898~1981)の公職追放を

採り上げ、アメリカ側の資料を中心に、実証的研究を行なった。 

  Photo_2
  彼は、そこで、日米双方

の関係者の証言を集めて、

その実像に迫り、その

“吉田の果たした役割”

分析している。

 

  その中で、増田氏は、

「石橋湛山の公職追放は、

本来の公職追放の法的

規範外に位置した

きわめて不正常な

形態として生じた

ばかりでなく、追放の経緯、結果および影響いずれかの面でも無数の

追放事例の中で特筆すべきもの」であり、「湛山の追放は、概して公平

Photo_3に実施されたと思われ

る公職追放に悪しき足

跡を印し、ひいては

占領史上に汚点を残す

こととなった」と結論づけ

ている(*傍線、筆者)。

  だが、その本質は、

増田氏の言う、単なる

「汚点」などというもの

ではないと思う。

 今回、孫崎氏が、

ご高著『戦後史の正体』

の中で、明確に論じて

おられるように、まさに

確信犯的な「自主・独立派」潰しだと思うのだ。

  つまり、湛山と吉田との対立関係には、この公職追放という問題の中に、

「自主・独立派」に対する「隷米・従属派」による追い落としの策動があった。



  河上氏によれば、湛山の公職追放の時期に、彼の周辺にいた人々から

間接的に言説を聞きつつも、今ひとつ納得のいかない場合が多かったと

いう。

  彼は“もの凄く大きな存在”が、そこにあるという実感を持った。

思うに、それこそ、寡頭勢力や「アメリカ・影の政府」と言われるものの

存在だったに違いない。


  Photo_4 
 彼らにとって、湛山

は、“最も注意すべき

存在”だった。なぜな

ら、彼が、真の「愛国

者」だったからだ。

 彼らの“意志”を体し

て、吉田は、湛山を

排除することに尽力

したと言える。

  追放中、湛山は、

東洋経済新報社に立ち寄ることも許されず、別に事務所を持ち、

そこで不遇をかこっていたが、河上の知人、延島英一が話し相手を

勤めていた。

  Photo_5
 この石橋湛山追放

の期間は、ちょうど、

日米安保条約が発

効し、GHQが廃止

される二日間前ま

で続いた。

  寡頭勢力と吉田が、

いかに湛山を警戒し、

彼の言動を封じ込め

たかが、よく理解でき

よう。

  湛山の言動を封じる

上で、まさに、アメリカの忠実なポチだった吉田は、米国にとって、

最も好都合な人物だった。

  因みに、吉田は、大の「愛犬家」で有名だった。

だが、彼自身が、まさにアメリカ金融資本の忠実な”愛玩犬”だったので

ある(*上の写真は、1954年11月5日、マンハッタンにある高級ホテル、

ウォルドルフ=アストリアにて、Wikipedia 参照 )

 次に、吉田茂の「信仰心」について、論じたい。 

  【つづく】

 

2012年8月17日 (金)

私の「石橋湛山論」(6 )

  「大日本主義の幻想」



  事実、小島直記氏の記述によれば「中国における利権の拡大と

確保」。― 

 これが、日本参戦の目的であり、日英同盟の「よしみ」などでなかった

ことは明白である。

 

  周知のごとく、この青島陥落が「対華21ヶ条の要求」という、現在でも

日中関係に癒しがたい刻印を残している外交上の〝失策”へと発展した。 

Photo この誤った日本外交

に対して、湛山は、

「所謂対華21ヶ条 

要求の歴史と将来」

書いて、中国ナシ

ョナリズムの存在を

述べ、同国への愛情

と関心を世に示した。

(*写真は、この

「対華21ヶ条」を中国

に要求した当時の

総理大臣、大隈重信

:1838~1922 と、

外務大臣、加藤高明

:1860~1926:左下の人物)

Photo_2
  この湛山の視点や姿勢

こそ、今日の日本人が模

範とすべきものではな

だろうか。

 

 われわれは、この「対華

21ヶ条の要求」の認識なし

に、今後の「日中関係」

云々することは出来ない

と思うのだ。 

  われわれが、もし彼ら

の立場に立たされたら、

如何であろう? 

 湛山は、この時の中国人の屈辱感を、他の日本人の誰よりも強く、

かつ敏感に理解していた。 

  この時の湛山の中国人に対する同情・共感・関心が、戦後の「日中復交」 

への政治活動へと繋がる。

 

  誇り高い民族は、何も大和民族としての日本人だけではない。中国人を

始め、いかなる民族も、それぞれに誇り高いと言える。 

  この各民族の誇りと矜持を、充分に理解すべきである。湛山は、これを

充分理解していたと感じる。

 

  なぜなら、彼には、キリスト教と法華経に基づく深い精神性と「平等感

それに不変の人間愛があったからである。 

  彼の、この「小日本主義」が「大日本主義の幻想」へと発展する。それは、

次のような次第である。

 

  河上民雄氏によれば「大日本主義の幻想」は、「一切を棄つるの覚悟」

の主張を裏付けるために、朝鮮・台湾・関東州との貿易統計に基づき、

植民地支配は、思ったほどの利益が上がらず、他方で、支配地域の民心

を失うなど政治的損失も大きく、植民地を得るために軍備も必要となり、

要するにワリに合わぬ事業であることを論証している。

  加えて、アジア諸民族の自由を求める運動は、必ず目的を達成するま

で止むまいと適確に予測し、どうせやがて立ち上がるアジアの人々に

よって独立をもぎとられるなら、こちらから進んで植民地を棄て、彼らの

信頼をかち得た方がはるかに得ではないか、と呼びかけている。



  このように湛山の「植民地放棄論」は、イデオロギーからではなく、損得

―もちろん、きわめて高度な損得―を土台としたプラグマティズムを特徴

としている。

  大日本主義は小欲にとらわれたもので、最終的にはすべてを失うと予測し、

自らの植民地放棄論を大欲と称し、自信を示している。

  なお20世紀初頭、ほぼ同時代の帝国主義批判者、ジョン・A・ホブソンの

『帝国主義論』(1903年)と比べると、間尺に合わぬという点で、湛山は、

その系譜に属する。

Photo_4 だが、湛山の植民地

放棄の意志はより強烈

であり、レーニン(*右の

写真の人物:1870~

1924)の『帝国主義論』

(1917年)が最高段階

の資本主義は必然的

に帝国主義となり、

植民地の反乱帝国

主義打倒に導くと考え

たのに対して、湛山は、

結論が逆で、植民地を

棄てた方が繁栄する

なっている。



  長幸男氏によれば、この思想・提言を現代風に言い換えれば「サスティ

ナブル・ディベロップメント(持続可能な発展)」ということになる。

  例えば、先進国が自分の成長のために南の発展途上国をむやみに

収奪していったとする。

  一方、発展途上国の人口増加によって世界の人口は、どんどん膨れ

上がる。

 すると、発展途上国の資源が枯渇し、その乱開発の結果が、今度は、

世界的なコストとなって跳ね返ってくる。


  Photo_5
  だが、それらはすべ

て先進国が背負うしか

ない。つまり、環境破壊

は、相手の国を壊すだけ

にとどまらず、自分の国

も壊しつつあるということ

を、日本をはじめとする

先進国は自覚しなけれ

ばならない。

 これは、現代の中国

についても、言えること

である。

  また、発展途上国が貧しいままでおかれれば、先進国はどのように

世界貿易をやっていくのかという問題も出てくる。

  先進国と途上国の不均衡により生じるツケは、めぐりめぐって先進国に

回ってくるのである。善因善果、悪因悪果は、地球的規模でも言えよう。

Photo_6
 湛山は、領土を拡大し、

政治的に圧迫し、無理

やり相手国の住民を

貧困にし、土地でも何

でも奪い取るという

「大日本主義」は、

実際には採算に合って

いないということを盛ん

に言っている。

 彼にとってこれは、

何より人倫、加えて

「ものの理」に反する

ことなのである。

  けだし正論であり、地球環境を共有する世界の国々は、先進国も発展

途上国も、大国も小国も、これからは、均衡的に成長発展していくことが

求められる。

  次は、湛山と吉田茂について論じたい。 【つづく】

2012年8月16日 (木)

私の「石橋湛山論」(5 )

    湛山の「小日本主義」

 

  この彼の信念を政治的に発展させ、かつ徹底させたのが、彼の「小日本

主義」である。 

  大正デモクラシー期の湛山は、東洋経済新報社の論説責任者として、

「一切を棄つるの覚悟(大正10年7月23日号「社説」)と、それに続く

「大日本主義の幻想(同年7月30日、8月6日、13日号「社説」)の連載を

もって、社是であり、かつ湛山生涯の主要テーマとなった「小日本主義」

の立場を鮮明にした。

 

  彼は、これを体系化して、デモクラシー陣営の陣頭に立った。 

この「一切を棄つるの覚悟」の結びに湛山は、キリストが”思い煩うな!”

と厳しく教えるくだり(先述した「マタイによる福音書」第6章と「ルカによる

福音書」第12章)を引用して、自らの主張を際立たせた。


  河上氏によれば「一切を棄つるの覚悟」の論旨は、今日では多く知ら

れたところである。 

  つまり、それは、朝鮮・満州・台湾を棄てよ、支邦(中国)からも手を引け、

そのとき初めてアジアの人々の信頼をかちえ、また米英など西欧列強に

対しても堂々とものが言える、という当時としてはまことに大胆な主張で

あった。

 

  特に、この社説は、ワシントン会議(1921~22年:下の写真)に、日本が、

どう対応すべきかを論じたものである。

                        Photo_2
  事実、英米を中心とし

「寡頭精力(=「影の

アメリカ政府」)は、同

会議を契機に、日本へ

の締め付けを強化し

始めた。

 1902年以来の「日英

同盟」が解消されたのも、

その一環と言えよう。

 

  思うに、湛山は、この

ような“巨大パワー”の

存在を、直感的にも経験的にも十分、理解していたのではあるまいか。 

  私は、彼の洞察力、認識力の深さの源に、彼の”宗教性”を置きたい。 

彼を通して思い出す日本史上の存在が、まさに「日蓮」である。


  「そんなことで、どうして日本は生きて行けるか」という当然予想される

反論に答えて、「何を食い、何を飲み、何を着んとて思い煩うなかれ、

汝らまず神の国とその義を求めよ、しからば、これらのものは皆、汝らに

加えらるべし」という、先述のイエス・キリストの説教の一節を持ち出して

いるのである。

 

  湛山は言う。 

  「以上の吾輩の説に対して、あるいは空想呼ばわりする人があるかも

知れぬ。

小欲に囚わること深き者には、必ずさようの疑念が起こるに相違ない。

  朝鮮・台湾・満州を棄てる、支邦から手を引く、樺太も、シベリアもいらない、

そんな事で、どうして日本は生きて行けるかと。

  キリスト曰く『何を食い、何を飲み、何を着んとて思い煩うなかれ、汝ら

まず神の国とその義とを求めよ、しからばこれらのものは皆、汝らに加え

らるべし』と。

  しかし、かくいうだけでは納得し得ぬ人々のために、吾輩は更に次号に、

決して思い煩う必要なきことを、具体的に述ぶるであろう」と。

  この記述が、後の「大日本主義の幻想」へと繋がるわけである。

 だが、ここで一つ、付言したいことがある。

  Photo_3それは、上記の社説が

上梓される7年前に、湛山

が発表した社説「青島

断じて領有すべからず」

(大正3年11月15日号)に

ついてである。

  本論は、日本が第一次

世界大戦時、「日英同盟」

を拡大解釈し、対ドイツ

参戦して青島を領有

しようとした時に、当時   Photo_4

の政府の方針に明確に

反対の意を表明したも

のであった。

  湛山の考えは、当時

の日本政府の方針に

対してばかりか、日本

の領土拡大と、それに

伴う国威発揚を潜在的

に切望していた国民の

思いに、反省を促すも

のだった。

(*右の絵は、「日英同盟」

締結を祝したさし絵)

  だが、彼の主張は、国民には、なかなか理解されなかった。

  湛山は、1914(大正3)年11月15日の社説「青島は断じて領有すべから

ず」において、次のように主張した。

  「戦争中の今日こそ、仏人(フランス人)の中には、日本の青島割取を

正当なりと説くものあるを伝うといえども、這次(しゃじ・・「この度の」の

意味)の大戦もいよいよ終わりをつげ、平和を回復し、人心落着きて、

物を観得る暁に至れば、米国は申すまでもなく、我に好意を有する英仏人

といえども、必ずや愕然として畏るる所を知り、我が国を目して極東の平和

に対する最大の危険国となし、欧米の国民が互いに結合して、我が国の

支邦における位地の転覆に努むべきは、今より想像し得て余りあり、かくて

我が国の青島割取は実に不抜の怨恨を支邦人に結び、欧米列強には

危険視せられ、決して東洋の平和を増進する所以にあらずして、かえって

形勢を切迫に導くものにあらずや(*下の写真は、「東洋新報」時代の

湛山)

       Photo_6

  這回(しゃかい・・・「今回」の意味)の戦争において、ドイツが勝つに

負くるにせよ、我が国がドイツに開戦し、ドイツを山東より駆逐せるは、

我が外交第一着の失敗なり。もし我が国がドイツに代わって青島を領有せ

ば、これ更に重大なる失敗を重ねるものなり、その結果は、あにただ我が

国民に更に限りなき軍備拡張の負担を強めるのみならんや。青島の割取は

断じて不可なり」と。

  しかし、史実は、残念なことに、この湛山の勇気ある、正当な主張に

反して推移した。

 青島陥落後、日本政府は、中国政府との協定を無視して、山東鉄道を

奪い、その管理運営にあたったのである。 【つづく】

 

2012年8月14日 (火)

私の「石橋湛山論」(4 )

  石橋湛山の、生涯を通した「信念」


   湛山は生涯、日蓮宗徒であり、戦時中、軍閥の圧力が高まるに従って、

説話の中で、日蓮(*右の肖像画の人物)Photo_11

「我れ国家の大船と

ならん、柱石とならん、

眼目とならん」を、

しばしば語った。

  湛山がいかに日蓮を

愛し、彼を尊敬してい

かを示す証左であ

ろう。

  石橋湛山は晩年、

病に倒れ、惜しくも

二ヶ月で首相の座を

潔く去った後、利か

なくなった右手に代えて、

不慣れな左手で筆をとって書をしたためた。

  先述したごとく、その時、湛山が好んでしたためた言葉は「明日の事を

思いわずらうな  湛山」であった。

 Photo_12

  これは、『新約聖書』

の「マタイによる福音書」

第6章34節にあるイエス・

キリストの言葉である。

 イエスは言う。

  「あなた方のうちだれ

が、心配したからといっ

て、自分の命を少しでも

延ばすことができますか。

  なぜ着物のことで心配す

るのですか。野のユリ

がどうして育つのか、        Photo_13

よくわきまえなさい。

働きもせず、紡ぎも

しません。

  しかし、私はあなた

方に言います。栄華を

極めたソロモン(*下

は、ソロモン神殿)でさ

え、このような花の一つ

ほどにも着飾っては

いませんでした。

Photo_15 今日あっても、明日は

炉に投げ込まれる野の

草さえ、神はこれほどに

装ってくださるのだから、

ましてあなた方に、よく

してくださらないわけが

ありましょうか。信仰の

薄い人たち。

  そういうわけだから、

何を食べるか、何を飲

むか、何を着るか、などと

心配するのはやめなさい。

  こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、

天の父は、それがあなた方に必要であることを知っておられます。

  だから、神の国とその義(=正義)とを先ず第一に求めなさい。そうす

れば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

  それゆえ、明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配 

します。労苦は、その日その日に十分有ります」と。

  河上氏は問う。湛山が病床の人となってから、この聖書の一句を好ん

で書にしたためたのは、何故であろうか?と。

  同氏によれば、湛山は、この句に格別の愛情を持っていたようだ。

あるいは、彼は、この一句に言論人としての生涯を凝縮させていたのかも

知れない。

  あるいはまた、日本や世界の将来を、この一句に託したのかも知れない。



  とりわけ湛山は、1921(大正10)年7月に、社説「一切を捨つるの覚悟」

発表した時、このキリストの言葉を引用して、自らの主張を際立たせた。

  この視点こそ、湛山が生涯を通して保持した信念であった。

この彼の信念を目にする時、私は、最澄(伝教大師)の言葉「道心の中に

衣食(えじき)有り、衣食の中に道心無し」という言葉を思い出す。

Photo_16
  先述した通り「道心」

というのは、仏の教えを

本気で求めて、菩薩に

ろう、人々のために

なろう、という気持ちで

ある。

  そういう気持ちであれ

ば、人間の生活は、

何とかなるものである。

 しかし反対に、人が

衣食や金、物だけの

ために働いても、仏心

や菩提心得ることは

出来ない、というものである。

  キリストも最澄も、そのような人間の“心の在り方”の大切を説いた。

石橋湛山も、彼らの真意を十全に理解していたと言えよう。 【つづく】

2012年8月13日 (月)

私の「石橋湛山論」(3 )

  石橋湛山の生い立ちと、不屈の在野精神

  ここでは、湛山の生い立ちと、彼の「不屈の在野精神」について論じたい。 

彼は、1884(明治17)年9月25日、最後には身延山久遠寺(*下の写真)

法主となった杉田湛誓   Photo_8

長男として、東京・

芝日本榎(都麻布区

・・・現、港区)に生ま

れた。 

  母の名は、「きん」と

いう。事情で母方の姓

を名乗り、父の転住に

際し、父の判断で、

信頼する友人、望月

日謙師(湛誓の弟弟子

・・・・当時、山梨在住)に預けられた。 

  河上民雄氏(元衆議院議員)によれば、湛山自身、この望月師による

訓育を受けたことを感謝している。

 

  「湛山」という名は、僧侶として得度してからの名前であり、それ以前は、

「省三(せいぞう)」といった。 

  望月日謙上人は、のちに身延山の最高位に達し、名力士双葉山が、

最盛期に傾倒した名僧でもあった。


  ところで、そのような環境に育った湛山がキリスト教に接したのは、山梨

県立第一中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に学んだ時である。 

 彼は、素行不良で、一年落第した。だが、この落第が幸いして、湛山は、

新任の校長・大島正健(まさたけ:*下の写真の人物:1859~1938)

邂逅した。 

  Photo_4
 その大島が、かつて札幌

農学校で、「少年よ、大志

を抱け」の言葉を残し

ウィリアム・S・クラーク

博士の教えを受けた

キリスト教徒であった。 

  そのため、若き湛山は、

大島校長の感化を強く

受けた。大島は、内村鑑三

新渡戸稲造の親友でも

あった。

                        

  旧制中学校を出た湛山は、

早稲田大学で哲学を専攻、

明治40年に首席で卒業した。

 

  早稲田で、湛山は、終生の師ともいえる田中王堂(本名、喜一:*下の

写真の人物:1868~1932に出会う。 

Photo_5 王堂は、アメリカの

シカゴ大学で、ジョン・

デューイ教授に師事

して、「プラグマティズ

ム」を学び、帰国後、

この新しい哲学を、

日本人に紹介した

人物である。 

  湛山が大学で哲学

を学んだ頃は、哲学

界の主流は、イマヌ

エル・カントを代表

するドイツ観念哲学

であった。それに関心     Photo_17

を示さず、湛山が、

プラグマティズム

傾倒したことは興味深い。

  大学を卒業すると(*右の

写真は、卒業時の湛山)

彼は本来、宗門に入る

環境にある人となりであっ

が、彼は、ジャーナリスト

を志し、島村抱月(*左下

の写真の人物:1871

1918)紹介で、東京毎

新聞社に入社した。 

Photo_6
 しかし、半年ほどで退社

した彼は、1909(明治42)年

12月から一年間、東京麻布

歩兵第三連隊に入隊して

兵役を終えた。 

  湛山は、1911(明治44)年に、

東洋経済新報社に入社し、

主幹・社長を歴任した。 

  哲学を専攻した彼が経済

の知識を習得したのは、

まったくの独学による

ので、湛山は、経済

学の原典を読破して行った。



  東洋経済新報社では、戦後の昭和21年に、吉田内閣の大蔵大臣に就任

して、社長を辞任するまで30余年、幅広い評論活動を精力的に展開した。 

  その積極財政論(厳密には、ケインズ流の「完全雇用論」)、反戦反軍思想、 

小日本主義で、“野に石橋あり”の評価は、大いに高かった。 

  大正13(1924)年に同社主幹になった頃から、折悪しく政治情勢は軍国主

義化の勢いを強め、湛山は、時の軍閥政府との対決を強めて行った。

 

  河上氏によれば、湛山は、部下の高橋亀吉と共に、経済論壇の一翼を

担い、金解禁に当たっては、新平価での金本位復帰を主張した。 

  湛山は、旧平価での     Photo_10

復帰・財界整理を主張

した勝田貞次・堀江帰一

らや、大蔵大臣として

金解禁を旧平価で行っ

た井上準之(*右の

写真の人物)らに対し

て果敢に挑んだ。 

  欧米列強の巨大金融界

からの圧力で、たとえ、

その実現が困難だった

とはいえ、その後の日本

経済の疲弊を思うと、

湛山らの考えは、

まことに正当なものだった。

【つづく】


 

 

 

 

2012年8月11日 (土)

私の「石橋湛山論」(2 )

   “本物の“政治指導者、石橋湛山



  それゆえ、われわれは、よくよく、その“実”を把握しなければならない。
 

なぜなら、現代は「偽物の時代」だからである。真に本物の「政治」、

本物の「愛国(あるいは、祖国愛)」を吟味しなければならない。

 

  その点、湛山のそれは、まさに“本物の思想、本物の生き方”だった。 

われわれは、もっと深く彼の思想や生き方を学ぶべきだと思う。 

  私が”本物の政治指導者”だと思えたのは、かつてのジョン・F・ケネディ

とミハイル・S・ゴルバチョフ、それにマハトマ・ガンディーぐらいである。 

 そう思うゆえに、私は、彼らの「民主的」リーダーシップの起源にあるも

のが、いったい何かということを、自らの”研究対象”とした。


  日本で、本物の政治家と思える人は、本当に少ない。私にとって、そう

思えるのは、明治

時代の伊藤博文、Photo

大正期の原敬

(たかし(*右の

写真の人物:1856

~1921)それに

昭和の石橋湛山

ぐらいである。 

  とりわけ、湛山

の政治思想の

広大さと深遠さ、

それに経済思想

の的確さと普遍性

は、他を圧している。




  周知のごとく、戦後の

歴代総理の中で最も

在職期間が長かったのは、

Photo_2佐藤栄作(*左の写真

の人物:1901~1974)

7年8ヶ月(2798日)

である。

 次が、吉田茂の7年

2ヶ月(2616日)で後、

小泉純一郎、中曽根

康弘、池田勇人、

信介、橋本龍太郎、

田中角栄の順となる。

 

   


  だが、巨漢のパンツの紐

じゃあるまいし、長ければよいというものではない。 

その点、石橋湛山は63日と、2ヶ月ほどの短命政権でこそあったが、その

退き際の見事さと国民を思う“考えの深さ”では、まさに特筆すべきものが

ある。

 
  彼は、かつてジャーナリストの立場から、浜口雄幸首相が暴漢に狙撃さ

れた後、適宜に退陣すべきところ、長く在職したことが、当時の経済混乱

に拍車をかけたことを批判した。

  その浜口の悪例を冒すまいとして、彼は余力があり、かつ側近のたって

の忠告も無視して退陣したのである。

  つまり、彼には、自分より先に、まず公である「国民」があった。


  この彼の行動に表われているように、湛山の思想や生き方は、あくまで

「公」の観念に貫かれたものだった。

  幕末から近・現代にかけて、この公」の観念に生きた政治家や思想家

は、決して多くはない。

  ほとんどの政治家たちが結局、自分の地位や名誉のために政治を私

(わたくし)し、多くの富を蓄えた。まさに政治家と言うより政治業者、ある

いは「政治屋」である。

  古くは、山県有朋や井上馨(*右の写真の人物:1836~1915 )から、

今日では、かなりPhoto_4

多くの政治家が、

そのような傾向に

あると言える。

明治の初期、

西郷隆盛は、

井上馨に、こう

ねた。

  「おまさぁは、

三井の番頭で

ごわすか?」と。

 これには、あの

井上も返答に窮した。

 

 ただ、数少ない英傑たち、

例えば、吉田松陰、Photo_5

横井小楠(*左の

写真の人物:1809

~1869)西郷隆盛、

勝海舟、徳富蘇峰

(*下の写真の人物:

1863~1957)内村

鑑三といった人々

が、ひたすら「公」

ため、国民のために

生きたと言える。

 


 徳富や内村は、

決して政治家では

なかったけれど、

真に祖国日本を

愛し、人々のため                 Photo_6

に生き抜いたと言

えよう。

  そして、石橋湛山

も、まさにこの系譜

に連なる人だと思う。


  とりわけ、石橋湛

山の生き方こそは、

現代、そして未来に

求められるべ

日本人の「理想的な

生き方」なのでは

あるまいか。

  そろそろ、われわれは、無知や悪酔いから覚めるべきなのではないか

と思うのだ。

 

   次に、湛山の「生い立ち」などについて、論じたい。 【つづく】

 

2012年8月10日 (金)

私の「石橋湛山論」(1)

   【はじめに】 

 孫崎氏が強調されている通り、日本の戦後史の中で、石橋湛山氏の

存在は、限りなく大きい。

  もし、彼が健康に問題なく、思う存分、政権を担当できていたら、戦後の

日本政治は、今とは、全く違っていただろう。 

  これが、日本国民のために、どれほど有益なものであったか、想像に

難くない。


  Photo
   これからの日本

政治について語る

上で、石橋氏が最

理想的な政治指

者であることを、

私は、6年前に上梓

した『ケネディ vs  

二つの操り人形  

小泉純一郎と中曽根

康弘』中(第八章)

(*右の写真)で、

具体的に論じた。

 

 
  拙著を、すでに

ご購読下さった方々には、誠に恐縮だが、今回、それを、本ブログで、

改めて強く訴えたい。それは、具体的に、次のようなものである。



 
現代、そして未来に求められるべき「石橋湛山」

 

  昨年(2005年)9月11日の衆議院総選挙以来、政治(厳密には、選挙)

が面白くなったという雰囲気(あるいは、風潮)がある。 

 確かに、投票率の上昇や国民の政治への関心の高まりなど、プラスの

もあろう。

  だが、少し頭を冷やして考えれば、昨年からの政治状況は、単なる

”空騒ぎ”に過ぎないのではないか。

  Photo_2
 小泉総理はじめ

現代の日本人は、

いつから、あんなに

軽薄になったのだろ

うか?

 自らの”存在

軽さ”に、心底、

耐えていられるの

だろうか?

  「小泉チルドレン」

という言葉が、一世      Photo_3

を風靡した。

  しかし、彼らの”存

在”の何軽いことか!

  この言葉は「ケネディ

の子供たち」という語に

淵源を持つ。

 しかし、あれは本来、

1960年代のアメリカの

若者たちが「平和部隊」

の隊員として、貧困、

かつ不便な発展途上国

で尽力・活躍した労を

ねぎらって与えられた

言葉である。

  Photo_4
  この部隊は、

ケネディと彼の

義弟シュライバー

(*写真、左側

の人物は、晩年の

シュライバー氏。

 彼は、昨年の1月

18日に、95歳で

逝去)が、世界平和と

南北格差の是正を

目指して創設した

のである。

 自ずと、その言葉の成り立ちや重みに、まさに月とスッポンほどの

違いがある。

  昨年から見られる、あの”見せ掛けの明るさ”とは裏腹に、現代日本は、

Photo_5自死直前の芥川

龍之介(*右の

写真の人物:1892

~1927)予感し、

夭折した石川啄木

が実感したような

”閉塞感”が、重く

社会を覆っている。

  その危機的状況

は余りにも重く、

かつ暗い。

 確かに先回、自民

党の圧勝に終わった

総選挙は、そういった閉塞状況の”ガス抜き”の役割を果たしたとは

言えよう。


  しかし、それは単なる一時的なカタルシスに過ぎない。むしろ、さまざまな

不平や不満、あるいは「精神的飢餓感」が、今日の日本には、ますます

鬱積しているように思われる。

  だが今日、日本人が失っているもの(特に、精神的側面)のすべてを、

石橋湛山は持っていたような気がする。いや私には、彼の“知的遺産”

無尽蔵とさえ思える。


  私は、初代の伊藤博文以来、第87代の小泉純一郎に至る歴代総理の

中で、石橋湛山ほど深い精神性、並びに深遠な思想と該博な知識を持っ

ていた総理大臣を知らない。

  Photo_6
  彼は、まさにプラトン

(*左の人物:BC427

~BC347)が理想と

した「哲人政治家」

そのものだった。


  しかし、彼の偉大さ

は、単に「経済」に関

する豊富な知識だけ

に由るものではない。

 むしろ、彼が生涯、

「真理(あるいは、

真実)」と「正義」

愛し、いかなる迫害

や困難に対しても、

決してひるむことなく

果敢に挑戦した。

 その勇気と高邁さにあったと言えよう。 加えて、彼の無欲で恬淡と

した生きざま”だったのではあるまいか。

  湛山の生き方こそは、まさにイエス・キリストの言う「神の国とその義

(=正義)」求めたものであり、最澄(伝教大師)の説く「道心」に生きる

ものでもあった。

  ところで、湛山の生き方や思想は、決して「私心」に基づくものではなく、

あくまで「公」の観念に基づくものだった。

  今日の日本では、国民や「公」のためと言いつつ、結局、「私利・私欲」を

満足させるために政治活動を行う人が多い。また、自ら「愛国」と語りつつ、

それに酔い、結局、「売国」に堕する人もいる。

  その意味で、「愛国」と「売国」は、時に紙一重でさえある。【つづく】

 

 

 

2012年8月 9日 (木)

孫崎享氏『戦後史の正体』を語る(完)

  (*孫崎氏は、続けます。)

 日本の多くの人は、戦後の歴史の中で、日本の人々が、戦争の後、

飢え死にしなかったのは、米軍が助けてくれたお陰だと思っているん

ですけれども、事実は、それとは違ってね、あの厳しい折、日本人が

飢え死にするかと思われた時において、日本の国家予算の30%ぐら

いが、米軍の駐留経費に要っていたんですよ。

Photo_15
  それを、(当時、

大蔵大臣だった)

石橋湛山(*右の

写真は、蔵相に

成り立ての頃の

湛山)”軽

する”というこ

を、米国に通

する。

 これに対して

=これを理由に)、

石橋湛山は、大蔵

大臣を降ろされる。

  その時に、石橋

湛山が、こういうことを言うんです。

  「俺は、殺られてもいいんだ。

しかし、それに続く大蔵大臣が、また俺と同じように、米軍の経費縮小と

いうことを言えばいいんだ。(あるいは、)それも、殺られるかも知れない。

  しかし、そういうような事を、2年3年続ければ、アメリカも諦めて、日本の

言う事を聞くようになるだろう」 と。まあ、石橋湛山は、そう言うんですよね。


 じゃ、それに対して、日本の政治家が、どう対応したか?

石橋湛山が切られる前に、石橋グループが、30名ぐらい集まるんですよね。

そして、“この時代に、どう対応しようか”ということを協議する。

 しかしながら、石橋湛山が切られてしまうと、どうなるか?

集まってきた(石橋氏を)支持する代議士は、3名なんですよね。

  だから、この、米国に何かされた時に、しかし、それと同じ事を、もし繰り

返して行けば、結局は、米国も、日本側の言い分というのが有るというの

が分かって、”訂正”してくるんじゃないかと思います。


  しかし、残念ながら、この流れと同じ事が、「普天間問題」で起こったわけ

ですよね。

 Photo_16

  鳩山首相は、

「最低でも、県外」。

   ”沖縄県民が反対

している以上、これ

は実施できない”と

いうことで、「最低で

も、県外」と言った。

(*写真は、辺野古

海岸。同海岸は、”海洋

資源の宝庫”だと言われ

る。)

  しかし、結局、その(=米国の)圧力でもって、鳩山首相は辞めるんです

けどもね。

 じゃ、その後、日本の首相が、どのような対応をとったか?

  同じように、沖縄県民の意向で、実施できないと、鳩山首相と同じような

形を主張したか?  全く、そうじゃないんですよね。

Photo_17
 今度は、手のひらを

返したように、「対米

追随」をするというこ

とが、自分たちの

き残りであるという

ことで、菅首相、

それから典型的な

のは、今日の野田

首相、この方が、

「対米追随」路線を、

今までの、どの首相

よりも、強く打ち出して来ている。

(*写真は、2010年4月22日、米国のアーリントン墓地を訪問し、

献花した菅氏。だが、同氏は当時、国家戦略相ではあっても、

まだ総理ではなかった。そんな彼が、なぜ国賓待遇?・・・・

 写真は、「共同通信」)

  しかし、こう見て行きますとね、これは、単に、野田首相一人の「個性」の

問題じゃないと思うんです。


  長い歴史の中で、「対米追随」ということを主張する首相が、生き残れる。

そして、もしも、「自主」というものを強調しようとする人がいると、それは、

日本の組織全体が、一緒になって、これを潰していく。

  その「組織」というのは、メディアであり、検察であり、政治家であり、

財界であり、官界である、と。


 かし、もう、こういうようなものは、日本の行きべき

道筋ではないんだと、もう一回、われわれが、アメリカ

との関係を、どうすべきかということを考える「時期」に

来ているんだと思うんですよね。

  Photo_18
ちょうど、それ

は、今、”われ

われが正しい

と思ってい

「原発」という

ものを、もう

一度見直そう!”

という思いと連動

しています。

 *写真は、国会 

議事堂前に集結し 

た脱原発デモの 

人々


  それは、大手新聞社が言ったから、”そうしよう!”と

言うんじゃないんですよね。

 あるいは、官僚が、”そうしよう!”と言ったから、そう

するんじゃない。

 政治家が、”そうしよう!”と言ったから、そうするんじ

ゃない。

 

  むしろ、既存の勢力、財界を含めて、既存の勢力が、

”原発を推進する”と言ってもね、多くの国民は、

”そうではない!”と、やはり、違ったものの考え方が

あって、それに向かって行く時期に来ているんだと思っ

たと同じようにね、私たちが、この日米関係の在り方と

いうものを問い直して、本当に、従来、アメリカに追随

しているのが、日本の利益になるのか、多分、そうでは

ない、ということで、日本の歴史を見直して「自主」

動きというものを、打ち出す時期にきているんじゃない

かと、まあ、そのために、戦後の日米関係の歴史を扱

った今回の本が、皆様のお役に立つんじゃないかと

思っています。

  どうも、有難うございました。  【了】 

  (後記:次回は、私の「石橋湛山論」を、掲載いたします。)

 

 Photo_14

 

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