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風塵山荘
この掲示板は仏教者の視点から時事を語る掲示板です。宗教・宗派を問わず、特に正系六門下の日蓮主義≠謔閧フ時事評論は歓迎します。また十数年の長きにわたり特定の人物を誹謗・中傷してきた冨士尻学研究≠ニ称する不倶戴天≠フ邪妄団とは情報交換を通してともに闘う掲示板である。

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日蓮宗祖は本仏≠ゥ余仏≠ゥ、 返信  引用 
名前:北の被告松木@原告森常男く550万請求    日付:08月20日(月) 21時24分

この表題については、あらためて一論として考察したい。

現在、まとめている最中なのですが、じっくりやりたいと思っているので、

いましばらく、お待ちを。

 

随宜論にまつわる参考文献、 返信  引用 
名前:北の被告松木@原告森常男く550万請求    日付:08月20日(月) 21時22分

※尊師實録(日蓮宗宗学全書・二巻四二○頁)

尊仰云、大聖人ノ御代二ヶ處ニ造[2]立シ之ヲ[1]給へり、一ヶ所ハ下總國市河眞
間富貴五郎入道常忍、ミソ木ヲ給テ造立ス、一ヶ所ハ越後國内善ノ淨妙比丘
尼ノ造立有[レ]之云云、御在世ニヶ處也、又身延澤ノ沸像等、聖人滅後様様異義有[レ]之、
記文相傳別紙ニ有[レ]之云云、
總ジテ三ヶ所有[レ]之、此等ハ畧本尊也、但シ本門寺ノ本尊造立記文相傳別ニ有リ[レ]之、
予カ門弟相構テ上行等ノ四菩薩相副ヒ給ヘル、久成ノ釋迦畧本尊、随テ[2]資縁ノ出來、檀越ノ
堪否[1]奉[レ]造[2]立シ之ヲ[1]曠宣流布ノ裁斷ヲ可[レ]奉ル[2]相待[1]也、

【訓読・文責在、法太郎】

(日)尊の仰せに云く、大聖人の御代に之れを造立し給へり、一箇所は下総の国、市河真間の富木五郎入道常忍がみそぎを給いて造立す。一箇所は越後の国内、善の浄妙比丘尼の造立これ有り云云。御在世二箇所なり、また身延沢の仏像等、聖人滅後様々に意義これ有り、記文・相伝、別紙にこれ有り云云。

総じて三箇所これ有り。此れ等は略本尊なり、但し本門寺の造立記文は相伝にこれ有り。余が門弟等、相構えて上行等の四菩薩を相副い給い久成の略本尊は資縁の出来、檀越の堪・否≠ノ随って之れを造立し奉り、広宣流布の裁断をあい待ち奉るなり。


【意訳・文責在、法太郎】

日尊師の仰せになるには、大聖人の時代にこれ(仏像)を造立したのである。一箇所は富木常忍のところ、もう一箇所は越後在住の浄妙比丘尼が造立している。大聖人の御在世には二箇所であった。また身延久遠寺の仏像は大聖人の滅後に種々の異論が沸き上がったが、それにまつわる書類や相伝は別紙にあるが総じて三箇所となる。

両尊四菩薩の造立は略本尊である。ただし、広布のとき本門寺に造立する記文は相伝に記されている。わが弟子らは上行等の四菩薩をあい副えること、久成の略本尊は造立する資力があって、信徒が認めるかどうかによってこれを造立し広宣流布の時の勅裁によって最終的な決定をすればよい。
 

随宜論略解-(付) 日蓮本仏論という錯誤(十二)、 返信  引用 
名前:北の被告松木@原告森常男く550万請求    日付:08月20日(月) 21時14分

【随宜論・本文】
日代上人の御書に云く、佛像造立の事は夲門寺建立の時なり。未だ勅載無し。国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御夲尊の図は其の為なり文。此の文、実録の内に興師の御義に符合す。然らば富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて、而して後に三ケの大事一度に成就を為す可きなり。

【通解】
西山の日代上人のお書き物には(三浦阿闍梨御返事)「仏像を造立する時期は本門寺の建立のとき、即ち広宣流布の暁に勅裁をもって造立しうるのであり、国主が妙法を信仰してはじめて本門の戒壇を建立して化義の広宣流布が成立するのであります。御本尊の図はそのたである」とあり、日大実録に書かれた興師の御義に符合します。しからば富士の教義は造仏はつくらず、戒壇の勅許が下ってから化義の三大秘法の成就とすべきである。

【解説】

日代師が、上行院(後の要法寺)に於いて造仏がされたとき、見知らぬ三浦阿闍梨なる尊門の出家から造仏の可否について問い合わせを受けたので、面食らったであろう。(笑)、富士の法門では、基本的に造仏は広布の時の造立となっている。

当時、本尊といえば仏像であり、ややもすれば日蓮宗祖の大曼陀羅を粗末に扱う傾向があり、これを危惧された興師は特に強く造仏を控えられたものと拝察する。しかし、仮に興師が造仏を嫌われても、天皇家の持仏堂にあたる紫宸殿には阿弥陀如来が安置されており、勅願寺は叡山であった関係で、たとえ法華に帰依しても紫宸殿には必ず釈迦像は安置されたはずである。

また、重須学頭・日順師、西山貫主・日代師、日尊門流・日大師と、それぞれ違う立場で一致した見解が広布造仏である。これは、五人所破抄における興師の御指南もそうであり、消極的ながら四菩薩を副えて久成の釈迦像と為すのであれば、許容範囲としている。


【随宜論・本文】
若し此の義に依らば、日尊の夲門寺建立の時に先きんじて佛像を造立して給ふは一箇の相違なり、罪過に属す可しと云はば未だ本門寺建立の時到らず夲門寺と号するは又一箇の相違なり、罪過に属す可きや。此の如きの段今の所論に非らず。願くは後来の学者、二義を和會せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期するのみ。

右の一巻は予、法詔寺建立の翌年佛像を造立す。茲に因つて門徒の真俗疑難を倒すが故に朦霧を散ぜんが為、廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり。


【通解】
もし、順・代・尊等の義によれば、日尊上人が本門寺建立以前に仏像を建立したのは一種の違法行為であり仏の御罸を受けることとなる。仏の御罸に匹敵すると云うのであれば西山本門寺が広布以前に『本門寺』を号するのも一種の違法行為であります。どのような仏の御罰を受けるかは今の所談ではありません。

願わくば後代の学者はこの二義を和合して考えあわせ、広布以前の造仏という違法、広布以前の本門寺号という違法について熟慮いたし、富士の伝統化義にしたがって永く謗法を停止し、自他ともに即身成仏の修行に邁進しようではないか。

この書は法詔寺建立の翌年に私が仏像を造立したことで門下の真俗が疑難を倒すに至ったが、この事件を忘れないために書き記したものである。


【解説】
随宜論の結論部分である。日精上人は広布以前の造仏を謗法と決判し、また広布以前の本門寺号も謗法と決定された。ここに日精上人の本心が顕れているのである。法詔寺で造仏が為されたときは、精師は沼田檀林で番頭の地位にあり、法詔寺は建立から法要まですべて日舜師が取り仕切っておられた。

故に法詔寺の造仏は、もともと要法寺の信徒であった敬台院大姉が造立したものである。鎌倉の敬台寺はまったく敬台院大姉の建立された寺院であり、大曼陀羅のほかに両尊四菩薩≠フ仏像が安置されており、これは後に細草檀林に移されたものである。

新進の新興都市である江戸≠ノおいて富士門徒の代表的な大伽藍であった法詔寺には大勢の富士門徒の出家・在家が参詣していたであろう。また、出家にとって法詔寺に参詣して出仕することは重要な御供養の収入源となったであろう。

特に西山系と尊門系(要法寺)の僧侶にとって拠点であった芝の上行院から法詔寺への出仕は慣例ともなっていたものと拝察される。ところがある日突然お釈迦さま≠ェ鎮座したので、大騒ぎとなったことは当然である。(笑)、

特に西山系から敬台院さまに対しての批判は先鋭的なものがあったのである。故に敬台院様も激怒され、「われわれが一致派に帰ろうとしていると云う(趣意)」と不快感を吐露され、たとえ幕府によって一門が罰っせられようとも最後のひとりに至るまで屈するなと決意を披瀝されている。

徳川家康と織田信長の曾孫であり、徳川宗家に正式な養女となって蜂須賀家に嫁いだ立場を考えても絶大な権力者の地位にありながらこのような発言がでたほど法詔寺批判は手厳しいものがあり、富士系の出家たちは法詔寺に対する出仕を拒絶したものであろう。

沼田檀林で教授位にあった日精上人は養母敬台院に対する擁護は出来なかったことから隙を生じたが、後年に和解している。随宜論は造仏家の養母敬台院に対する造仏制戒の書であるとともに敬台院を攻撃した西山に対する弁駁の書でもあったのだ。

随宜論に表題が無いのは、この書は論文ではなく敬台院に対する教導のための教義書という性格を有しているのである。故に下種を論じながら文底下種三段にまでは至っていない、その必要が無かったからである。

日精上人は養母の敬台院が造仏の謗法者と罵られることに対し、養子の立場からその罪のすべてを自ら負ったのである。封建時代のこの時期、親の罪を子が背負うことは美徳であり当然であった時代である。

また、日精上人が造立したという寺院で新寺は法詔寺のみであり、他はすべて要法寺系の寺院であり、もともと仏像が安置されていたものである。ただし日蓮正宗の古刹である常泉寺は天台系寺院であり、これももともと仏像が安置されていたものと拝察される。

広布以前の造仏は謗法≠ナあると断定している精師が自ら造仏を為すことはあり得ないのである。

研究発表読ませて頂きました 返信  引用 
名前:お尋ねします。    日付:08月20日(月) 04時55分

>「日蓮非*{仏論」については私の独創ではなく、まったく松本和道居士の研究と日精上人の御指南によるものである。松本和道居士が​他門の本因妙軽視と大石寺の本果妙軽視を「ともに僻論といふべきだ​」と富士門徒の沿革と教義で述べられ、日精上人は随宜論において日蓮宗祖を余仏≠ニされその論理を披瀝されている。

まず、松本和道居士は存じ上げませんが「他門の本因妙軽視と大石寺の本果妙軽視を「ともに僻論といふべきだ」これには感ずるところ​がございます。ですから、私も一宗に傾倒することに迷うのです。

>大石寺の上古の代から少なくとも日精上人の代までは日蓮本仏
論≠ヘ存在しなかったことを物語っているのである。これは随宜論​の論述中であきらかにしていきたい。

これは、日蓮本仏論は上古のうちどの派にもないとは、一般的で日​蓮
→日寛系宗派を知った時から存じております。
そのようなところから、ご存じかと思いますが、他の日蓮系は、日蓮→日寛系を毛嫌いし、見下しています。

>日精上人の随宜論は、あまりいい印象を与えない箇所(それはち​ょっとな?)と思うところや、論理的に納得できるところ、と複雑です​。また日精上人の振る舞いも怪しげに思うところもあります。
(例えば、法詔寺など、十個寺を超える寺に仏像を建立したなど。​)
ですので鵜呑みにはできません。

論理的に納得のできる箇所は↓
【通解】
次に本因妙抄については、おおよそ熟脱の教主は久遠元初の本因妙による成道已来の化導による二番以後の仏であり、正法時代に出現した釈迦牟尼仏については尽未来際の応身位をもって熟脱の仏と為すのであり、宗祖が大曼陀羅に勧請された釈迦牟尼仏は脱仏に非ずして​久遠実成(元初)の自受用報身をえがいたものである。法華本門の寿量品の釈尊は始成の仏を見ることなくただちに久遠実成の教主釈尊であるから天台は法華文句において「正在報身」と説かれたのである。

この自受用報身如来である釈迦牟尼仏は自らの九界たる本因を上行と示し神力品の結要付嘱をもって別付嘱としたのであるがこの時の体を今御本尊に書き記したのであり、五人所破抄に説かれた御義であり​興師の御指南である。また一体仏たりといえども四菩薩を副えて大曼陀羅の御前に安置するときは久遠実成の釈迦仏であり自受用報身如来となるのであり、色相荘厳であるから脱仏であると云うのであれば、​百六箇抄には「下種の法華経の教主の本迹自受用身は本、上行日蓮は迹なり」とあり、三十二相八十種好の釈迦像なりといえども下種の仏たりうるのである。ゆえに御本尊に勧請された南無釈迦牟尼仏≠ヘ脱仏ではなく久遠実成の本果妙である。

また、この法太郎さんの「解説」の箇所にありました通り、久遠元初の自受用報身如来に人格を付与することはは法身に人格を認めるもので​あり仏教を越えているとは。同感です。

余談ですが、平成13年日本仏教學曾年報代67にて祖師神話につい
ての論考がありました。
面白かったので、いずれ、また、そのままの文を抜き出してよろしければ書かせて頂きます。江戸時代というのは祖師神話が高まった時代​だそうです。
ところで富士門流には、高座説法、繰り弁、というものはあります​か?。



Re: 研究発表読ませて頂きました
名前:北の被告松木@原告森常男く550万請求    日付:08月20日(月) 21時20分

大石寺に高座説法≠ヘあります。

所化様の修行がすすんで三衣(房数珠・衣・袈裟)の免許を受けた後に
高座免許の儀式があり、はじめて住職の資格が与えられます。

大石寺門流でも寺院の住職の座は高座≠ナあり、ここから一席ぶつ
こととなりますが「繰り弁」というのは知りません。

 

憚りながら波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 へ 返信  引用 
名前:お尋ねします。    日付:08月19日(日) 00時59分
申し遅れました。初めまして、憚りながら波木井坊竜尊@日蓮宗葵講さん。
過去ログ読ませて頂いきました。
日蓮本仏論についてのお書き込みで、波木井さん(すいません略させて頂きます)曰く

>日蓮をムリヤリ本仏に仕立て上げようとするとことに無理があり限界がある。

私も、このお勉強のきっかけは、まったく、直観的にここの部分なのです。
現在、専修唱題の実践(まだ23年程)を通し、生活をし様々な事柄を乗り越えてまいりました。もちろん化他行ありきです。
最初は信のみで突っ走りました。石の上にも三年です。信心を知っているいる人は御存じだと感じていることは。結句は専修唱題がすべてと。
その経験の上で、自分自身、今、思うことは。
1、久遠元初の南無妙法蓮華経。か、文底まで掘り下げずに寿量品16における久遠実成の釈尊。南無妙法蓮華経如来。
これも、まだ答えが出ません。
もともと、うちは身延派の家系です。
身延のそれと、日興→日寛の文底。そこも迷っています。
ただ、20年以上の積み重ねで、身に沁みこんでいるのは文底です。
本因妙の仏法です。
どうあがいても、結局はこの本因妙の仏法は離れることが出来ないでしょう。

法身に人格を与えること、ここの引っかかりは半端でありません。身延派一族ですのでそれもあります。

法身に人格を与えるとは鎌倉以前にも、当然にあった思想と認識しています。
これは日本の思想史も関連していることは確かだと考えます。
法華系の宗教学者の卵の方が本居宣長などを通して、日本の思想について講演されたことがあります。
日本の仏教はこうした背景も視野にいれて多角的な知識も入れていかなければ、ならないようです。
学識のある方は様々な角度から研鑽されているようです。
ただ、あまりにも煩雑ですので、学問の専攻に励む姿勢でしょうね。

>興風談所あ正信会の学識ある一部の人達が集まって作っている研究会です。
ひじょうに高いレベルの研究がなされています。

情報、ありがとうございます。正信会のかたの一部は学識のある方がいらしているようですね。

ともあれ、まずは、法太郎さんの論文読みます。大変な基礎知識がいりますね。かなり大変です。
ただ、その裏付けを模索し調べていく中、分かってきたこともあります。
今後とも、宜しくお願いします。



Re: 憚りながら波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 へ
名前:憚りながら波木井坊竜尊@日蓮宗葵講    日付:08月19日(日) 09時20分
私は逆の発想をするんですわ。
日向師は何故に宗祖本仏論をお取りにならなかったか。
もちろん日向師も宗祖本仏論は知っていた。
しかしそうならなかった。

宗祖本仏論は天台でも真言宗でも念仏系でもあるのです。
富士派はひじょうに日蓮のおっさんへの注目度が厚く宗祖本仏論にたどり着く
には難しくなかったでしょう。
岩本山実相寺で日興は日蓮のおっさんのお稚児さんだった可能性もある。
だとしたら身も心も日蓮に傾倒するのは当たり前だし神格化するのも当然
でしょう。

ま、ふつーに考えてください。日蓮法華系は当初から多くの殉教者をだしました。
日蓮のおっさんの罪はすごーく重いのです。そう簡単に成仏されて本仏になってしまう
のでは殉教死された信者に顔向けできませんよ。

私も日蓮のおっさんは好きですが、だからと言ってやみくもに神格化してしまう事はしたくない、と考えているのです。

風塵山荘の皆様へ、 返信  引用 
名前:黒川和雄@ロス講頭詐称@信徒除名    日付:08月18日(土) 18時06分
残暑お見舞い申し上げます。

さて、遅ばせながら当方明日、日曜日より木曜日までお盆休みを取ります。東京に在住する娘(れいな)と5月のGW以来の再会です。今度、娘の「れいな」がテレビの取材で放映さる予定です。(ワールド ビジネス サテライト 放映未定)。また大功徳を頂きました!! やはり母も申しておりましたが、「この御本尊、絶対 離したら あかんで・・! 凄い御本尊やで・・!」死ぬ前、数週間前の母の遺言です。

この言葉、生涯忘れないでしょう。では!

以上、




以上、

一参考程度のものですが、そもそも、この問題の一つとして遡ること日蓮と釈迦仏について考えてみました。 返信  引用 
名前:お尋ねします。    日付:08月18日(土) 02時21分
日蓮の終生所持していた立像釈迦仏。この立像釈迦仏と日蓮の出会いについては「船守弥三郎許御書」の中に記されており、これは日蓮の弟子・六老僧(分かり切っていることですが日興も含む)の​各門流で語り継がれ定着しているとのことの感があるらしい。
その御書の一節とは、「海中いろくずの中より出現の仏体を日蓮にたまは​る事、此の病悩のゆへなり」(此の病とは、地頭・伊東祐光の病。要するに日蓮はその病に対し祈念したところ病が治まった。それに​より海中より引き上げられた仏像を日蓮に与えられたということ )
先程も書いたように、このことは六老僧の各門流に語り継がれてるということにおいて定着している感があるとはよくいわれることのようです。しかし、富士門流の★「日興高弟」★の文献によれば今日定着している話とは違うものがあり、検討を要する事項となっていると​いう人がいました。
富士門流のことを書くことは皆様方を前にして、書き込みできない​。だって知らないから。と思いつつも、書かざるを得ないので恥ずかしながら書かせていただくと、
重須談所・日代筆の「五人所破抄」においては「一体仏を刻んだ」
重須学頭・日順の著「日順雑集・法花観心本尊抄見聞」には「聖人​が一体仏を造った」とあるようですね。その日蓮の依文となる御書は知りません。
話を変えますが、日蓮宗宗学全書・興尊全集P83 「五人所破抄​」
「又五人一同に云く、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻​み、」と釈迦仏を刻むろありますが、
同じ「五人所破抄」ながら「平成新編日蓮大聖人御書」(大石寺版​P1879)では、
「一、又五人一同に云はく、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔​より弘安帰寂の日に到るまで随身せり、」
要するに、「之を刻み」から「昔より」に変わっているとのこと。
「刻む。造る」、のニュアンスと「昔より」のニュアンスは違います。
どっかで、不具合とみて変えたのでしょうか。
ともあれ、また、ちらっと富士門流の説明も見ましたが、やはり富士門流におかれましては非造仏論のようですね。
しかし、ポイントはこれは★「日興高弟」★の書かれたものということ。
日興上人におかれましては、どうなのでしょう?謎です。
興風談所というものがあるようですが、誰が書いたものかも、私、知りませんからひとまず置いときます。

日興門流といっても、派が分かれる。この一つみても理解ができるようです。
とは、いっても刻む。とか、造る。とかそのように長らくの期間、そのような言葉があった。
これはなんとも微妙で、曖昧で、考えさせられるものがあります。



ともかく
名前:お尋ねします。    日付:08月18日(土) 06時35分
ひと眠りしました。
かなりの労力がいるようです。

これから本題。法太郎さんの論文、読ませて頂きます。
日数かかるやもしれません。
まずはありがとうございます。


興風談所
名前:憚りながら波木井坊竜尊@日蓮宗葵講    日付:08月18日(土) 07時53分
興風談所あ正信会の学識ある一部の人達が集まって作っている研究会です。

ひじょうに高いレベルの研究がなされています。
北山の上杉なんぞは彼らを理解できないでしょう。

オスプレイという狂乱、(笑)、 返信  引用 
名前:北の被告松木@原告森常男く550万請求    日付:08月17日(金) 21時53分
米軍のオスプレイの墜落事故は、副操縦士の操縦ミスが原因で、オスプレイに責任は無い、

という、日本国政府の公式見解が発表された。(爆笑)、


むかしの零戦や隼は、片翼でも飛行士の技術で飛行ができ、無事に帰還した日本兵がいた。


ほんの少しの誤りでも墜落するようなバカ飛行機など造るものではない。(笑)、


オスプレイの発着のときの下には、飛行機の値段より重い沖縄県民がいるのだ。

配備を許すべきではなかろう。



Re: オスプレイという狂乱、(笑)、
名前:憚りながら波木井坊竜尊@日蓮宗葵講    日付:08月18日(土) 07時47分
この飛行制御はリアルタイムで処理できるコンピューターがあってこそ成り立つ
航空機なのです。

これは機械的と言うよりもそれを制御するソフトウエアの問題でしょう。

この航空機は通常の航空力学の運動性能域を超えるために、緻密でリアルタイムなコンピューター制御で成り立っている航空機なのです。

つまりこの航空機はこの緻密でリアルタイム制御しているコンピューター制御が
なければ成り立たない航空機なのです。
それもかなりソフトウエアに依存している航空機なのです。

随宜論略解-(付) 日蓮本仏論という錯誤(六)、 返信  引用 
名前:北の被告松木@原告森常男く550万請求    日付:08月17日(金) 19時28分

【随宜論・本文】
次に本因妙抄の事。凡そ熟脱の教主は第二番成道已来、今日の釈迦応身は尽未来際の応身仏を指し熟脱仏と為すなり。宗祖勧請の釈迦は敢て脱仏に非ざるなり。如何が寿量品の時、近成の門を開いて今日の釈迦応身佛を見ずして直ちに久遠実成の自受用報身如来を拝見す。是の故に天台大師の如来寿量品を釈する時「若し別意に従へば正しく報身に在り」と云は亦此の意なり。

此の自受用報身如来、上行等を召し出し別付属なり。是れ神力品の形なり。此の時の体を今夲尊に顕わす故に脱仏を存す可からず。一体佛と雖も四大菩薩を脇士と為すは自受用報身如来なり。是れ五人所破抄の指南興師の御義なり。亦一体佛たりと雖も日蓮聖人の御夲尊の前に造立する釈迦は、久遠実成の釈迦如来報身如来なり。若し亦久成の報身と雖も三十二相八十種好ならば脱仏なりと云はば、一百六箇に云く「下種の法華経の教主の本迹自受用身は夲、上行日蓮は迹なり」文。是れ即ち相好を具すと而も下種仏なり。是の故に本尊に勧請の釈迦牟尼仏は脱仏なる可からずと得意するなり。

【通解】
次に本因妙抄については、おおよそ熟脱の教主は久遠元初の本因妙による成道已来の化導による二番以後の仏であり、正法時代に出現した釈迦牟尼仏については尽未来際の応身位をもって熟脱の仏と為すのであり、宗祖が大曼陀羅に勧請された釈迦牟尼仏は脱仏に非ずして久遠実成(元初)の自受用報身をえがいたものである。法華本門の寿量品の釈尊は始成の仏を見ることなくただちに久遠実成の教主釈尊であるから天台は法華文句において「正在報身」と説かれたのである。

この自受用報身如来である釈迦牟尼仏は自らの九界たる本因を上行と示し神力品の結要付嘱をもって別付嘱としたのであるがこの時の体を今御本尊に書き記したのであり、五人所破抄に説かれた御義であり興師の御指南である。また一体仏たりといえども四菩薩を副えて大曼陀羅の御前に安置するときは久遠実成の釈迦仏であり自受用報身如来となるのであり、色相荘厳であるから脱仏であると云うのであれば、百六箇抄には「下種の法華経の教主の本迹自受用身は本、上行日蓮は迹なり」とあり、三十二相八十種好の釈迦像なりといえども下種の仏たりうるのである。ゆえに御本尊に勧請された南無釈迦牟尼仏≠ヘ脱仏ではなく久遠実成の本果妙である。

【解説】
この段ではよくよく気を付けなければならない。今日の釈尊(釈迦仏)とは法華経を説いた釈尊であるが、寿量品では久遠実成の成道をただちに開き本因妙所具の本果の実仏を見ると述べられているのである。

即ち、始成正覚を破った釈尊の久遠実成はなお久成に非ずして、久遠実成の成道の時に見た本因妙の自受用報身がただちに法華本門を説かれたと論じられているのである。これ、日蓮本仏論の基本的な論理構造である。

今日の釈尊が二番仏であれば、一番最初の仏位とは、久遠元初の本因所具の本果をもって最初成道と受け取る以外にはなく、これは久遠元初の自受用報身如来に人格を付与するものである。だがこれは法身に人格を認める真言密教と同次元であり仏教を越えているものではなかろうか。

本因所具の本果とは、本因を覚って修行に入った菩薩行(我本行菩薩道)の当初に成仏を認めるものであり、れっきとした本因妙思想であり、成仏(我実成仏已来)の五百塵点劫顕本を二番成仏と御指南されていることに留意すべきである。再度云うがこれはれっきとした日蓮本仏論なのである。

大石寺では日寛師が日蓮本仏論の理論的体系を整えたとされているが、実は既に日精上人が確立されていたのである。つまり日寛師の日蓮本仏論は、日精上人の二番煎じ、もしくは論理の補強と捉えても差し支えがない。違うのは最後の結論なのである。(後述)

余談だが、報身は仏の智慧身であるから応身に具わった法であり、応身を無視して報身に人格を与えたら法身にも人格を与えることとならなければ三身は三分解して応身は勝ってに走り回り、報身は静寂に落ち着き、法身が説法をしだして三身は支離滅裂となる。これを解決するために「自受用法身」を創出したのが日寛師であるが、今の所談ではない。
 

随宜論略解-(付) 日蓮本仏論という錯誤(五)、 返信  引用 
名前:北の被告松木@原告森常男く550万請求    日付:08月17日(金) 19時26分

【随宜論・本文】
答て云く、聖人御在世に佛像を安置せざることは未だ居処定まらざる故なり如何。鎌倉比企谷は転法輪の地、名越松葉が谷は安国論の作窟なり。共に以て国主の為に破却せらる。或は伊豆・佐渡の遠島より適(たまさか)帰ると雖も、旧里亦法敵隙をうかがう故に未だ片時も安堵せず、国主帰依なき故一歩地も領無く何処に居をトせん。亦身延山蟄居は且らく居処を定むるに似たると雖も勅裁無き故に夲尊造立も及ばず。

【通解】
答えます。日蓮宗祖の在世に仏像を造立しなかったのは未だ居所が定まっていなかったためという説があります。鎌倉の比企谷は初転法輪の地であり、名越の松葉が谷は安国論の執筆地であり、ともに権力のために破却されました。もしくは伊豆伊東・佐渡よりたまさか帰るとも旧宅は敵が狙っており片時も安住の地はありませんでした。国主の帰依がなく広布以前にはいづくに居をさだめるか未だ決められておりませんでした。身延の地は仮住まいであり広布の勅裁が無いゆえに仏像の造立に至りませんでした。

【解説】
この段に於ては極めて留意すべき内容がある。「身延山蟄居は且らく居処を定むるに似たると雖も勅裁無き故に夲尊造立も及ばず」とは、まさに造仏は広布の暁に造立すべきであると、富士の古伝(順師・代師・尊師)を論じられている。日精上人はまさに広布以前の造仏は違法であることは日蓮宗祖の行体に現れていることを述べられているのである。


【随宜論・本文】
次に立像釈迦に四菩薩を加えられざること。是れ又宗祖の本意に非らず。故に若し遺告無くんば誤りて立像の釈迦を以て末代の本尊と為して聖人出世の本懐三箇の秘法の本尊を棄て置く可し。故に預て「墓所の傍に立て置くべし」と示す云云。

御遺言の上、猶以て執する者は立像釈迦を以て夲尊と為すべし。是れ則ち五人所破抄に禁制する所なり。此の義を以て不造佛の現証と為すは会するに足らざる者歟。

【通解】
つぎに宗祖の一体仏に四菩薩を添えられなかったことは、これもまた宗祖の本意ではなく興師の御遷化記録に遺言が示されなければ釈迦像をもって末法の本尊とし日蓮宗祖の出世の本懐である三大秘法の御本尊を捨ておく者が出たでしょう。故にかさねて墓所のかたわらに立ておくべしと、日蓮本・釈迦迹の現証と示したのであります。

宗祖の御遺言ゆえに広布以前の造仏は違法となるが、それでもなお仏像に執着するものが帰依をしたいと云うのであれば、四菩薩を添えて久成の釈迦とするのであれば許容の範囲とします。五人所破抄の当該箇所の文をもって不造仏の文証とするのは解釈が間違っているものです。

【解説】
この一段もうっかり読むと精師が大御本尊を捨てて釈迦像を本尊とすべしと間違う表記である。「故に若し遺告無くんば誤りて立像の釈迦を以て末代の本尊と為して聖人出世の本懐三箇の秘法の本尊を棄て置く可し」とは「そうしなさい」との指導ではなく「そうなる」と云う言い回しである。

ゆえにうっかり読むと精師が三大秘法の本尊を否定して釈迦像を本尊と為すという誤った読み方になってしまうのである。これについては後段に「次ぎには法宝最勝の事、誰か此の事を論ぜんや。是れ即ち宗家(大石寺)の本尊なり。弥(いよいよ)御書の如く仰いで信ずべきのみ」とあることで明確である。
 

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