※尊師實録(日蓮宗宗学全書・二巻四二○頁)
尊仰云、大聖人ノ御代二ヶ處ニ造[2]立シ之ヲ[1]給へり、一ヶ所ハ下總國市河眞 間富貴五郎入道常忍、ミソ木ヲ給テ造立ス、一ヶ所ハ越後國内善ノ淨妙比丘 尼ノ造立有[レ]之云云、御在世ニヶ處也、又身延澤ノ沸像等、聖人滅後様様異義有[レ]之、 記文相傳別紙ニ有[レ]之云云、 總ジテ三ヶ所有[レ]之、此等ハ畧本尊也、但シ本門寺ノ本尊造立記文相傳別ニ有リ[レ]之、 予カ門弟相構テ上行等ノ四菩薩相副ヒ給ヘル、久成ノ釋迦畧本尊、随テ[2]資縁ノ出來、檀越ノ 堪否[1]奉[レ]造[2]立シ之ヲ[1]曠宣流布ノ裁斷ヲ可[レ]奉ル[2]相待[1]也、
【訓読・文責在、法太郎】
(日)尊の仰せに云く、大聖人の御代に之れを造立し給へり、一箇所は下総の国、市河真間の富木五郎入道常忍がみそぎを給いて造立す。一箇所は越後の国内、善の浄妙比丘尼の造立これ有り云云。御在世二箇所なり、また身延沢の仏像等、聖人滅後様々に意義これ有り、記文・相伝、別紙にこれ有り云云。
総じて三箇所これ有り。此れ等は略本尊なり、但し本門寺の造立記文は相伝にこれ有り。余が門弟等、相構えて上行等の四菩薩を相副い給い久成の略本尊は資縁の出来、檀越の堪・否≠ノ随って之れを造立し奉り、広宣流布の裁断をあい待ち奉るなり。
【意訳・文責在、法太郎】
日尊師の仰せになるには、大聖人の時代にこれ(仏像)を造立したのである。一箇所は富木常忍のところ、もう一箇所は越後在住の浄妙比丘尼が造立している。大聖人の御在世には二箇所であった。また身延久遠寺の仏像は大聖人の滅後に種々の異論が沸き上がったが、それにまつわる書類や相伝は別紙にあるが総じて三箇所となる。
両尊四菩薩の造立は略本尊である。ただし、広布のとき本門寺に造立する記文は相伝に記されている。わが弟子らは上行等の四菩薩をあい副えること、久成の略本尊は造立する資力があって、信徒が認めるかどうかによってこれを造立し広宣流布の時の勅裁によって最終的な決定をすればよい。
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