慶応大学DP研究所ホームページより
<引用開始>
討論型世論調査(deliberative poll: DP)とは、通常の世論調査とは異なり、1回限りの表面的な意見を調べる世論調査だけではなく、討論のための資料や専門家から十分な情報提供を受け、小グループと全体会議でじっくりと討論した後に、再度、調査を行って意見や態度の変化を見るという社会実験です。
<引用終了>
http://keiodp.sfc.keio.ac.jp/?page_id=22
日本でも原発問題でこの討論型世論調査が行われたようですが、私はこの手法で民主主義の精度を高めていくには無理があると考えています。もちろん現行の世論調査よりは「まし」ですが、「決定打」にはなり得ないと思うのです。
民主主義における政策決定は多数決をもって行われますが、多数決の前に守らなければならない原則が2つあります。そのひとつは少数意見の尊重です。そして、もうひとつは、多数決を行なうにあたって必要な、正確な情報が有権者全員に与えられなければならないということです。
脱原発問題は、関係者と国民の利害がぶつかり合う大きな問題です。討論型世論調査を行うにあたってどれだけ正確な情報が参加者に与えられたのでしょうか。その討論内容と結果を全有権者が共有しているのでしょうか。それ以前の問題として、行政(内閣と官庁)や東電から発せられた情報を「正しい」と考えている国民はどれだけいるでしょうか。
お分かりだと思います。今「橋下大阪市長とポピュリズム」という問いが活字化され報道されていますが、世論調査にしろ、討論型世論調査にしろ、日本国憲法も読んだことがない日本人が占めるこの国では、資本主義の維持には役立つものの、民主主義の発展には役立つことはないのです。
さて、そもそも論として「世論」とはいかなるものかを学んでみたいと思います。
筑紫哲也著 ラストメッセージ 若き友人たちへ 集英社新書
<引用開始>
世論調査の嘘
皆さんは絶えずマスコミに世論調査の結果はこうだ、などと聞かされているわけですが、実は世論調査なるものはそうとうに嘘です。嘘だというのは、調査している側が嘘をついているのではなく、むしろ答えている人が本当のことを言っていない場合が多いということです。あるいは、どちらかと言えば、と問われて、深く考えていないけれど世間常識から言えばこうだろう、と思って答えているというバイアスがかかっていると見たほうがいい。
何パーセントが支持しているか、というような形で調べるのを定量分析といいます。マーケットの世界では、そんなものは当てにならないということがとっくに経験ずみなんですが、新聞やテレビなんかは相変わらずこの定量分析という方法を中心に世論調査している。分析の仕方は定性分析、クオリティを調べるというマーケットの世界では移行しているんですが。
この世界では伝説的な話があります。アメリカで、ある香水メーカーが定量分析の手法で、女性たちに「あなたはどんな香水を望みますか」という調査をした。圧倒的多数が「清潔感のある匂いの香水」と答えた。そこで希望通りの香水を作ったらまったく、売れなかった。
明らかに調査対象の女性たちが嘘をついていたんですね。香水を使うのは、男たちをなんとか匂いで誘おう、誘惑してやろう、そういうときでしょう。香水とは本来そんなものですから。そこで爽やかで清潔な、なんて嘘に決まっていたんです。
この例からも分かるように、定量分析が当てにならないということで、マーケットの世界は定性分析の方向へ進んでいきました。しかし、マスコミの世界ではいまだに定量で物事を見ている。定性分析をやるには、いろんな手数がかかるから、なかなか変えられないんですね。
<引用終了>
佐藤卓己『輿論よろんと世論せろん日本的民意の系譜学』
<引用開始>
(2008 年・新潮社) は, まさしく「目から鱗が落ちる」思いをさせる本であった。そこには, 次のように書かれている(16〜39 頁)。
現在では輿論と世論は一般に同じものを指しているが, 歴史的には別物である。かつては, 「輿論よろん」とは「公論」「公開討議された意見」(public opinion)であり, 「世論せろん」とは公論の対極にある「世上の雰囲気」「私に論ずること」(popular sentiments)であった。「納得と輿論によって世論を動かす民主主義の原則」といわれたのである。しかし, 1970 年あたりから, 「世論」がセロンでなくヨロンとよばれるようになり, 「輿論」は忘れられてしまっている。
<中略>
前記の『輿論よろんと世論せろん』の著者は次のように言う(315 頁)。「輿論= 公論」と「世論= 私情」を意識的に使い分け, 「輿論の世論化」に抗することが必要である。公論と私情とは現実には入り混じっており, きれいに腑分けすることは不可能である。にもかかわらず, というよりは, だからこそ, いま目の前にあるものを輿論と書くべきか, あるいは世論と書くべきかを絶えず自らに問いかける思考の枠組みが不可欠なのである。
http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2009/11/pdf/001.pdf
<引用終了>
「メディア社会の輿論と世論」 「よろん」と「せろん」
【 やさしい経済学「21世紀と文明」08.07.11日経新聞(朝刊)】
<引用開始>
現在では輿論(よろん)と世論(せろん)は一般に同じものを指すが、歴史的には別物である。明治維新のスローガンだった公議輿論の「よろん」とは、五箇条の御誓文の「広く会議をお輿し、万機公論に決すべし」にも連なる尊重すべき公論のことである。一方、同じ明治天皇が発した軍人勅諭のなかで「せ(い)ろん」は「世論に惑わず、政治に拘(かかわ)らず」と書かれていた。
初めて両方をともに収載した『漢英対照いろは辞典』(1988年)では、「輿論(よろん)=public opinion」と「世論(よのひとのあげつらひ)=opinion of the time」、またF・フランクリー編『和英大辞典』(1896年)でも「輿論=public opinion」と「世論=popular sentiments」は訳し分けられていた。つまり、明治期には「輿論=公的意見、世論=民衆感情」の語義が定着していた。
<中略>
「輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たとひピストルを用ふる代わりに新聞の記事を用ひたとしても」
今日のメディア報道被害を連想させる文章である。だが、芥川がこのアフォリズム(警句)で批判したのは、世論と輿論を混同してゆく社会の現実ではなかったか。その後の昭和史は理性的輿論が感情的世論にのみ込まれていった過程ともいえるだろう。もちろん、「輿論の世論化」はファシズム体制に特有な現象ではない。むしろ、第一次大戦に始まるメディア社会、すなわち、広告媒体社会の発展においては、米英がはるかに先行していた。
それをいち早く指摘したのがW・リップマン『輿論』(1922年)である。リップマンも小文字複数public opinionsと大文字単数Public Opinionを個人の認知心理学レベルと集合的な社会学レベルとで書き分けていた。
私たちは未だに「輿論の世論化」という前世紀潮流に漂っている。だが、インターネット全盛の現在、「不惑世論」と「公議輿論」はもう一度掲げるべき標語ではないだろうか。
<引用終了>
国家の品格 藤原正彦著
<引用開始>
検察も裁判所と同じです。最近、鈴木宗男氏の事件に絡んで逮捕された外務官僚の佐藤優氏の「国家の罠(新潮社)」を読みました。佐藤氏を追及する検事が「マスコミの反応を見ながらの国策捜査」をあからさまに認めているのでびっくりしました。民主国家では国民の声すなわち世論をうかがうのは当然、とこの検事は信じているから、恥ずかしくもなく「国策捜査」を認めたのでしょう。民主国家では現実として世論こそが正義であり、必然的にマスコミが第一権力になるのです。
<引用終了>
世論調査とはマスメディアという利益団体の「武器」であり、情報商品を生産するために必要な「手段」なのです。私は、テレビを見ませんが、情報の収集には困りません。「知」の衰退からいかに脱出するか?で著者の大前研一氏も同様な内容を記しています。
この国に必要なのは、精錬された正しい情報の提供であり、読売新聞が発するような腐った情報ではありません。
ドリーム党は、生活現場に則した、現場からの正確な情報を提供していきます。そして修正民主主義、修正資本主義という議論の土俵を生み出し、自由闊達な討論会が日本中で行われる、ポピュリズムとは異なる参加型民主主義を目指したいと考えます。