リバタリアンとコミュニタリアンの論争に興味があります。リバタリアンとして名高いロン・ポールの刺激的な一冊を読んだので、読書メモをご共有。
リバタリアン思想を知る
・フランスの偉大な政治学者であり経済学者のフレデリック・バスティアは、これを「合法的な略奪(Legal Plunder)と呼んだのである。バスティアは、この略奪は三種類に分けることができると言っている。①限られた少数の人間が、多くの人々から略奪する。②すべての人が、他の誰かから略奪する。③全ての人が、誰からも略奪しない。現在、私たちアメリカ人は二番目の選択肢を選んでいる。誰もが政府を介在させて、隣人のお金で自分を豊かにしようとする。だからバスティアは、この状態を「自分以外の人のお金を使って楽して生きようとする、うまくできた作り話」と呼んだのである。
・ここで私は、極めて過激な考え方を提案する。それは、もし私たちが三番目の選択肢を選び、お互いに盗み合うことをやめたらどうなるか、だ。私たちが生活のなかで、他人から盗むのではなく、もっと道徳的な方法を選んだらどうなるか。社会福祉のように、政府が行えば問題なく受け入れられるのに、個人がやったら道徳的に許されない。この考えを、やめてみたらどうだろうか。
・現在、アメリカの平均的な国民は、税金として所得の半分を取られるので実質的に一年のうち半年をさまざまな形で、無報酬で政府のために働いている計算になる。今の制度を支持する福祉優先の人々は、自分が何を言っているのかよく考えるべきである。この考えは「政府は、国民の意志に反して国民を強制的に働かせることができる」ということである。これが所得税の行き着く結論である。「納税は社会への貢献である」などという社会科の教科書に出てくるような決まり文句を言うべきではない。決まり文句は人々を混乱させるだけである。
・「所得税を廃止すると、政府の収入がおよそ40%減ることになる。なんと過激な主張だ」という批判を、今までに私は何度も受けてきた。確かに私たちが見慣れて知っている、遅々として変わらない政府と比べれば当然だろう。しかし本当に、所得税の廃止が過激な主張なのだろうか。2007年の連邦政府の予算を40%削減した時代とは、いつまで歴史を遡ればいいのだろうか。答えは、わずか10数年前の1997年である。もう一度、1997年の頃の生活に戻すことは、それほど難しいだろうか。それよりも所得税を廃止すれば、経済は劇的に力強さを取り戻すだろう。
・あなたは今までよりも、フード・バンクや文化センターで、ボランティアをするようになるだろうか。もし、あなたが医師や弁護士だったら、無料のサービスを増やすだろうか。それとも減らすだろうか。私たちはこのような質問に「はい」と答えるだろう。だが、その後に、こうも考えるだろう。「今でも私たちは、税金を支払うことでボランティアを行ってきたではないか」「税金の申告書類を提出するだけで国民として義務を果たしたのだから、これ以上やる必要はない」。このように「誰かが自分の代わりにやってくれるはずだ」という福祉制度の心ない論理に私たちは引きずられるのである。だが、人間として、もう少し大きな責任を果たせるのではないだろうか。
・高齢者向けの医療保険制度や低所得者向け医療費補助制度が、まだ存在しなかった時代を例に考えてみよう。その時代の高齢者や低所得者は、今とほとんど変わらない負担で、実は病院で治療を受けられた。しかも、現在より質の高い治療を受けていたのである。(中略)医療に対する法律や規制が医療費を高騰させた。そして実情に合わないほとの高い賠償責任を医師に課した。医師が困っている人のためにボランティアで治療しても同様の法的責任を問われるので、無料の医療行為はリスクが大きすぎて行われなくなっていった。しかしアメリカが今ほど官僚的ではなかった時代は、無料の医療行為は普通のことであったのだ。
・国民から税金という名目で財産を強制的に没収し、海外の政府に再分配するなど、私にはとても道義的に正当化できない。そして援助金というものは、援助先の国民を貧困な目に遭わせている無責任な指導者の懐に入るのが一般的である。海外援助は、いわばアメリカ人を他国の政権のために強制労働させることであり、私はむろん賛同できない。しかし政府による海外援助は、このことと同じ意味なのである。
・連銀は「アメリカの通貨制度は世界で最も優れている」と言い張っているが、日に日にドル崩壊の危機が増し、自体は切迫してきている。現在のアメリカには、今までとは違う通貨制度が必要とされている。先入観を取り除き、理にかなった通貨制度を再検討し、導入することである。簡単に実行に移せる最初のステップとして、通貨の競争を法的に認めることだ。つまり国民が、金や銀などの実物を取引の媒体として使う権利を復活させるのだ。私たちが自由を信じるのであれば、これがもっとも簡単で道理にかなった第一歩と言えるだろう。欣哉銀を取引に使うと言う選択肢によって、国民は今の通貨制度から抜け出すチャンスが与えられ、金融危機から自分自身の身を守ることが可能となるのだ。
・問題を指摘することは、それほど難しくない。無謀な消費、無謀な借金、無謀な通貨創造、何兆ドルもの費用がかかる無謀な外交政策、無謀な年金や福祉制度。これらのすべてを永遠に続けることはできない。個人にしても国家にしても、自分たちの収入の範囲で身の丈に合った生活をしなくてはならない。今ほど、この昔ながらの一般常識がこれほど腑に落ちる時代はない。
気になった部分は以上。個人的に興味深かったのは、「(政府の社会福祉がなくなった場合、)もし、あなたが医師や弁護士だったら、無料のサービスを増やすだろうか。それとも減らすだろうか。私たちはこのような質問に「はい」と答えるだろう」という、ある種の人間性への信頼。過去には実現できていたから大丈夫だ、という考えなのでしょうか。
ここら辺はとても難しい未来予測です。僕もどちらかといえば「はい」と答えるタイプの人間ですが、それは「余裕があれば」という前提付きです。今、僕は業務時間のそれなりの割合(30〜50%程度)を割いて基本無償のNPO支援をしていますが、それは余裕があるからです。今よりも稼ぐのが難しくなったら、「はい」とは言えなくなるでしょう。
また、都市化が進んでいることも、「はい」と「いいえ」の境となるでしょう。同じコミュニティに住む人同士の顔が見えていれば「はい」と答え、ワンルームマンションのように顔が見えなければ「いいえ」という答えになるでしょう。ソーシャルメディアは都市化=孤立化という問題に対する解答にもなり得るので、その点の議論を深めても面白そうです。
というわけで、リバタリアン思想、知っておいて損はない感じです。もうちょっと類書を読んでみます。原文にもチャレンジしようかな…。
次はこっちを読みます。