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下の文章

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 8月18日(土)23時34分53秒
返信・引用
  何度か書き直した間にアクセスが増えていたのでちょっとだけ。

体験的に私が知っているのは、原始仏教支持派には諦観主義が非常に多いということです。
菩薩という概念は大乗仏教から生まれたものですが、これは簡略化すると原始仏教の流れが難解なアカデミズムに傾倒していったことへの批判から生まれたものです。さらに原始仏教といっても釈迦自身が本当に言った言葉は何経のどこに残っているかも厳密にはハッキリしていません。

原始仏教研究の大家・中村元は、涅槃とは迷いの無い安定した心境、ぐらいに思えばいいと書いていた記憶があります。じゃ、一喜一憂がダメかとなりますが、私はそうは思いません。
 日蓮は覚者ですが、怒ったり嘆いたり、実に人間的で冷たい身延山で酒を飲んだ勢いで法華経を唱えていますね。

座禅を組み禅定のときに無念無想となり、生死を越えた法悦境に身をゆだねるのは当然ですが、人生の瞬間瞬間には悩み苦しみ笑い楽しむのは当たり前のこと。見性という大爆発のあとはごく普通の人、むしろそれ以下の愚者のようになり、町へ出て行くのが私の理想ですし、十牛図の示すところだと思います。

あと、私は異端思想、危険思想が好きなので、自然と極論を紹介したり解釈したりしますが、これは思考実験ですので無視していいです。悪いことをすればそれなりに報いがあり、善行をすればそれなりにいいことがある。因果律は生きている。という前提で、果たしてそんな単純なものか?と
疑問を抱くと、案の定同じような疑問を抱いた人が過去にいる、というまでです。

 

(無題)

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 8月18日(土)21時56分58秒
返信・引用 編集済
  悟りに到る十牛図瞑想 - www.kundalini.jp/
「禅の十牛図」の新解釈(技術編) 祗管打座と身心脱落の奥義とは
_________________________________
これは今現在、この掲示板に載っている広告の一つです。

実に面白いと思いました。私の見性体験記が一度目は出版の約束を社長本人としていながら妨害が入りダメになり、有名なヒット作を生み出す自費出版の会社が月に4本の作品として選んでくれたのですが、普通は自費出版は300万前後かかり、その融資のお手伝いをとのことでした。絶対に売れるポップな本は会社が出版代金を持つわけです。
 しかしとても無理と断ったところ、わりと最近また手紙が来て、大ヒット作で利益が出た記念に50万で出版する、という話でした(これは物凄く良心的な低価格です)。名前は出しませんが、テレビドラマや映画になったりする作品を売り出してくれる有名な出版社です。それで、ある年長のアドバイザーに相談したら「黙っていたら相手のほうから頭を下げて執筆依頼にくる日が来るよ」と言われ見送りました。非常に低姿勢で、あの文章はぜひ世に出したいと言ってくれたので申し訳なく思っています。

そういう経緯のあと、こんな禅の本を学研が出版するんだ、ちょっと打診してみようと思って学研のHPを開いたところ、なんと池田大作(代作)の絵本を出版しているじゃないですか。見性体験記は創価批判をしている部分があるので絶対無理だな、と諦めました。
 数日後、今度は小学館の出している愛国的な雑誌「sapio」が、突然ネット右翼批判を特集しはじめたとの情報が瀬戸弘幸さんのブログに取り上げられていました。

分かるでしょ。この構図。

無関係な話ですが、私がこの掲示板で禅の問題に関してアレコレ書いているのは、微笑禅の教義を固めているわけでも何でもありません。ときどきこういうことを考える、程度のエッセーです。色んなサイトを見ていると、特に原始仏教派は「生への愛着こそが煩悩である」と言いたがります。空病同様に、これも涅槃病ですね。見性体験のないまま文献ばかり読んでいるとこうなる、という典型例です。
 生きつつ死に、死につつ生きている人生の中で、楽しいときには笑い、悲しいときには涙する、というのが人間のあり方です。悟りきって涅槃に安住することの罪に関しては見性体験記に書いています。
 

続き

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 8月17日(金)20時04分18秒
返信・引用
  そこで、言わば怨霊信仰のようなものが生まれてきます。
 宗教と哲学の違いは簡単に言えば永遠の生命を主張するかどうかですので、あの世で差が生まれる、という考え方になり、輪廻転生とか、天国・地獄、という世界を想定します。日蓮も霊山浄土という一首の浄土思想を持っていました。禅宗の場合は輪廻転生を信じる人もいるし信じない人もいます。が、個我が消えて天地と一体になるのが基本ですから、宗教の中ではもっとも神秘主義的要素がない考え方でしょう。

災難に逢う時節には災難に逢がよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候。

これは良寛の有名な手紙の一節です。手紙を出した相手の友人は地震で息子を失っています。
 さて、この境地になれるかどうか、ですね。
善悪、貧富、幸不幸に関わらず、死は万人に平等に訪れます。山本玄峰師は「無常観から入った人は悟るのが早い」と言っていますが、まず死を想定して生き方を決める。何の見返りも無く、むしろ被害に会うけれど、敢えて菩薩道に一生を捧げる。そう決心したいものですね。
 
 

(無題)

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 8月16日(木)22時06分49秒
返信・引用
  今日は、毎日といえば毎日ですが、用事に忙殺されたので簡単に一言。

善悪の問題と、生死はクールに言えば無関係ですね。
誰でも死ぬのだから、死んだから悪い、とは言えません。問題は、罪も無い人が殺されたり、追い込まれて自殺したり、天災で悲惨な死に方をした場合、よくあることですが、何故こんなことが起きるのか、という不条理感が沸いてきます。神も仏もあるものか、道徳も意味がない、というやり場の無い鬱憤です。

続きは明日。



 

(無題)

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 8月15日(水)20時18分45秒
返信・引用 編集済
  久々に座禅を試してみました。
以前のように最初の一呼吸から脳内快感物質があふれ出て嬉し涙が零れる、というわけには行きませんでした。最初の30分ほどは非常に微妙な呼吸の切り替えのタイミング(丹田に息を落としてから出す瞬間のギアチェンジの滑らかさ)などを試行錯誤し、腰の骨が痛くなったところで一旦休憩。2度目からは上半身が快感に溢れ、それを見つめているうちに電話が鳴ったので打ち切りました。

今日はこんなところでいいと思います。足は常に痛い、手にも時々痛みが走る状態で、それらを無視しての座禅ですが、昔取った杵柄です。

ちなみに、脳内快感物質で検索していたら、女性は(男性も一部)恋をすると座禅と同じようにモルヒネの6倍ぐらいの快感に包まれるそうです。手っ取り早いですね。でも快感の追求だけなら禅僧もセックスとか麻薬で済ませていたでしょう。事実功利主義だけのアメリカではLSDをインスタント禅といって盛んに60年代に使われたようです。
 世の中を正しく見て救済する意思、菩提心を追及する過程で快感が生まれるのであり、ただ快感だけを追求するなら禅の修業をする必要はありません。

たまに病院などに行くと、女性週刊誌が置いてあるので何度か目を通しましたが、1ページとして読むに値する記事はありませんでした。あの手の雑誌は、根本に女性蔑視思想があり、この程度の話題なら飛びつくだろう、という方針で編集会議を開いているはずです。
 ああいうのを悪書追放の対象に何故しないのでしょう?恋愛感情も性欲も、生命の源のエネルギーですが、下品すぎです。

この歌でも聴いて心を清めましょう(マジです)。http://www.youtube.com/watch?v=Tzp6d31Q5S8
 

(無題)

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 8月15日(水)14時10分45秒
返信・引用
  13時間寝ました。
最近禅というか仏教の問題について書いてますが、これは微笑禅の教義、というわけではありません。この会は宗教ではなく、色んな宗派の人も受け入れますから、キリスト教の方なら天国を信じてもいいし、禅で健康になりたい人は健康法としてもいいし、生まれた限りは見性体験を味わってみたいと思う人は、そのノウハウは「見性体験記」とDVDに非常に具体的方法と理論が載っているので参考にしてもらえれば有難い、私個人は今こんなことを考えているというのみです。

私は新潟の東山寺の故川上雪担老師から電話で点検を受け、「暫く修行を止めて、入院して体を治すように」と助言されてから、本格的な座禅も歩行禅も止めて寝禅だけにしてきましたが、歩行禅は無理にしても胡坐をかいた状態での座禅を今日から試してみます。

 

(無題)

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 8月14日(火)21時22分8秒
返信・引用
  昨夜は寝る前にあることでネット検索をし続けたためか、朝の10時まで眠ることが出来ず、3時間で目が覚めました。いま目を開けているのも辛いです。
 やっぱり寝る前のパソコンは脳に異常な刺激を与えますね。

寝禅の工夫が進み普段は寝付けますが、昨夜は蒸し暑く、ビールと、飲む点滴といわれるアクエリアスを飲みすぎて、眠りそうになるとトイレに起きて、の繰り返しでした。

 自戒。水分取りすぎに注意。
 

魔境

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 8月13日(月)21時13分45秒
返信・引用 編集済
  昨日はマニアックな話題を書いたのと、今日は重要な件で来客があったので、簡単に。

魔境というのは禅用語で、修業の途中で自我の万能感が強くなり釈迦や観音様などの幻覚を見るというのがよくある解説です。が、一度目の見性で大悟徹底する場合はともかく、数回の見性体験ではこの魔境に包まれて狂人のようになります。自分を殺し、大死一番を繰返して、悟後の修行(これが一番難しいです)を完成し、辛いときには辛いといい、疲れたら休み、凡人からは愚かな人間のように思われるぐらいでないとだめですね。wikiでも
____________
魔境(まきょう)とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のことを指す。ユング心理学で「魂のインフレーション」と名づけられた状態だという指摘もある。
臨在は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えている。これは、瞑想中に神格を持つものとの一体感を持った結果「自分はすごい人間だ」と思い込んでしまい、エゴが肥大してしまうのを防ぐ、すなわち魔境に入ってしまう状態を防ぐための教えだとされている。
実際に光のようなものが現れても、それは単なる脳内の視覚野の発火現象であるという意見もある。
_______________________
と端的な解説があります。ちなみに私の場合はそういう幻覚は一切見えませんでした。代わりに見性後は頭がターボ状態になり、一人では無理なことをやろうとして危篤に二度なりました。
 一度目の危篤のときは2週間意識が消えていましたが、お花畑も三途の川も見ず、ただ海と砂浜の近くにあるコンクリートの穴から脱出できずにもがいていました。
 で、疲れたので今日はこれぐらいにします。
 
 

野狐禅

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 8月12日(日)16時05分2秒
返信・引用 編集済
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%8B%90%E7%A6%85
有名な公案で、因果を否定したために狐に生まれ変わったたとえ話から、我流の魔禅を差す。

が、以前も書いたように、善因善果、悪因悪果、善因悪果、悪因善果、というのがリアルな現実で、普通に言う因果は、そうあるべき論、つまり戒律と考えるべきだろう。
 輪廻転生は善因悪果、悪因善果を解決するにはいい側面もある。
つまり、善をなし不幸に死んだ人も来世で幸福になり、悪い事をして一見幸福な一生を送った人は来世で報いを受ける、という論法だ。

ところがこの論法の裏側には、生まれつきの障害者など不幸を背負った人間は前世で悪い事をした業だ、という理屈が隠れていて、実際そういう解説はよく見かける。

私は「今はこう思っているが明日になると違うかもしれない」という考え方なので、いまのところは慧可のように、善行をしても善果を期待せず誤って悪い事をしてもクヨクヨせず、全て「我」の分別した妄想と思って生きる、というのが一番新鮮に思える。

「痴人は亦た言う、我は罪を作れりと。智者が言う、汝の罪は何物にか似たる、と。此れは皆な縁より生じて自性無し。生ずる時に既に我無きことを知れば、誰か罪を作り、誰か受けん。経に云う、凡夫は強いて分別 して、我は貪り、我は瞋恚すという、是の如き愚痴の人は、すなわち三悪道に堕つ、と。また経に、罪性は内に非ず外に非ず、両つの中間に非ず、というは、此れは罪の処所無きことを明かすなり。処所無しとは、即ち寂滅の処なり。人の地獄に堕つるは、心に我を計して憶想分別 し、我は悪を作して我が受け、我は善を作して亦た我が受くと謂うに由る。此れは是悪業なり」

言うまでも無く、これはあくまでも純粋な理論としての話で、如来蔵思想や唯識の性善説の部分だけを強調すればこうなり、空病と表裏一体だから、道徳、宗教、法律全てを無視しかねない。つまり慧可ぐらいの心境になればこういうことが言えるわけで、一般化すればとてつもない虚無主義になってしまう。

私がこういう根本的な問題に関心が向かったのは東日本大震災からで、当然の結果として罰・功徳論に疑問が生じてくる。
 ちなみにそれを全否定しているのではない。確信犯的な悪党が不思議な死に方をした例は数多く見ているし、私は普通の日蓮宗の檀徒でもある。日蓮密教と言われるように祈祷、罰・功徳を日蓮宗は肯定する。

そういうようなことを時々考えている、ということでいずれ続きを書きます。



 

(無題)

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 8月11日(土)18時06分31秒
返信・引用
  ネコが餌を食べなくなり、毛玉ではなく水のような嘔吐を繰返すので、メーカーに問い合わせたら7歳以上はシニア用の缶詰を、と教えてくれた。
 そういえば約12歳になる兄弟ネコだ。里親を世話する市民団体に頼んで、子供たちへのサプライズと思い、生まれたばかりの黒猫を一匹買うつもりだったが、会長さんが2匹連れてきて、兄弟だからぜひニ匹一緒に、と泣き落とされた。余りに小さいので時々家の中で行方不明になったものだ。家族旅行で一泊した翌日は、すねて半日姿を見せなかった。兄弟で飼ってつくづく良かったと思う。退屈なときはじゃれて喧嘩している。

7歳でシニアか。しかし上手に買うと30歳ぐらいまで生きる。せいぜい我侭を聞いてやろう。
 

以上は、新着順1番目から10番目までの記事です。 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  |  《前のページ |  次のページ》 
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