性善説と性悪説


 この言葉は高校時代の倫理社会の時間に初めて耳にしました。単純に善だ悪だと決められる程、人間は単純なものなのだろうかと、可成り懐疑的にこの言葉を受け取っていた覚えがあります。

 ところが、教育を考える場合、人間に対して性善説の立場を取るか、性悪説の立場を取るかは大問題です。何か問題を起こした子どもを前にして、その問題をどう理解するか、それに対して大人がどう対処すべきか、結論が全く正反対になるからです。

 予め明らかにしておきますが、私は性善説の立場を取ります。ですから、この後の話の展開の中で、性悪説に対する部分は可成り辛辣な表現になるでしょうし、対して性善説に関する部分は良い事しか書かないだろうと思います。そのzもりで読んで下さい。

 性悪説の立場でいうならば、子どもは邪悪さの権化です。子どもが本来持つ性質は我が儘で、怠け者で、自己中心的で、欲張りで、嘘つきで、狡賢く、隙を見せればつけ上がり、甘い大人に対しては幾らでも増長するどうしようもない生き物です。

 このように邪悪な生き物を立派な人間に成長させる為には、大人の厳しい指導によって子どもが本性として持つ悪い性質を抑制する力を身に付けなければなりません。そして、立派な大人になるために必要な正しい行いを一つ一つ大人から学び、身に付けていかなければならないのです。

 対して性善説の立場で言えば、子どもは本来良い性質だけを、正しい性質だけを持って生まれて来るものです。

 もっとも、成長のある時期に於いて、大人にとって好ましからざる行動パターンを子どもが見せる事があります。しかしそれがある発育段階の特徴として現れたものであるならば、その時期が過ぎれば自然に元に戻ります。

 性善説の立場からすると、問題となる悪い性質は全て後天的に誰かから学んだものです。人間は生まれながらに悪い人間として生まれるのではなく、後から学んで悪い人間になるのです。 

 ここで一つ例を挙げましょう。

 A子さんは友達と歩いています。その友達は、道ばたで綺麗な花を見つけてそれを摘み取りました。A子さんはその友達に「見せて。」と頼み、その友達は素直にA子さんに花を渡します。

 ところが、A子さんはその花を自分のものにしてしまって、友達に返そうとはしません。むきになって花を取り返そうとする友達の頬を、突然A子さんは平手打ちにし、そして泣き出した友達を尻目に走っていってしまいました。

 これを見ていた性悪説を信じる大人はこう考えます。

 「 まあ、なんて我が儘な子どもだろう。きっと随分甘やかされて育ったに違いない。何かが欲しいとなったら自分のものでも他人のものでも我慢が出来なくなるんだ。人のものを取ってはいけないという当たり前過ぎる事さえ、この子の親は躾けていないのだろうか。

 可哀想に。もっときちんと躾が出来る親に育てられたなら、あの子もあんな風には育たなかっただろうに。 」

 対して性善説を信じる大人はこう考えるでしょう。

 「 多分、この子はこんな経験をしたのではないだろうか。もっと小さい頃のこの子が何かで遊んでいる。それは、危ないものか、大切なものか、ひっくり返すと辺りをすっかり汚してしまうものか、いずれにせよ、子どもには持たせたくない何かだ。

 親はそれを取り上げようとするが子どもはどうしてもそれを手放そうとはしない。そこで、親は戦法を変えて、後で返すから一寸見せてごらん、と言ってみる。取り上げられるのは嫌だが、後で返してくれるならと子どもはそれを手渡す。親はそのまま取り上げてしまう。

 驚いた子どもは泣きながらそれを取り返そうとするが、親はそれを返そうとしないし、だました事を謝ろうともしない。余りにしつこく食い下がる子どもにとうとう腹を立てたこの親は、子どもを叩くと、二度とこれに手を出してはいけないと叱りつけて行ってしまう。

 そんな経験を何度かしているのではないだろうか。つまり、この子は親から学んだ行動パターンに従って行動しただけなのだろう。 」 

 性悪説の教育観が何時生まれたのかは知りませんが、このような考え方は先ず欧米で生まれました。アリス・ミラーが「魂の殺人」の中で紹介しているJ・ズルツァー「子どもの教育と指導の試み」が1748年の出版ですから、この頃に生まれた考え方かもしれません。(原型となるものは、既に旧約聖書の中に記されているらしいのですが。)そして、このような考え方は今現在でも生き残っています。

 一方でルソーの『エミール』が出版されたのは1762年ですから、もしかすると、性善説の教育観と性悪説の教育観はほぼ同時期に生み出されたのかもしれません。ですが、性悪説が世間一般に広がったのに対して、性善説は余り一般化しなかったように思います。性善説の教育観が一般に広がったのは、アリス・ミラーが幼児期の虐待体験とその後の性格形成の因果関係を解き明かした後だと思いますし、何より子どもの権利条約が世に生み出された後ではないでしょうか。

 性善説の教育観と性悪説の教育観と、どちらが正しいかの論争はまだまだ続くでしょう。ですが、私は性善説の正しさを確信しています。性悪説の観点からでは説明のつかない子どもの心の闇を、性善説の観点からなら明確に読み解く事が出来る。そういうケースが非常に多いのです。


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