2012年08月18日

日本人と朝鮮人、助け合ってきた歴史を直視しよう

まず、脳内に蓄えられた歴史認識フォルダへ接続する「スイッチ」をオフしてください。言い方を変えれば、「コンピュータのファーストフォーマットを実行する」ということです。こうしないと、新しい書き込みが古い「作り話」により邪魔され、正しい情報がインストールできないからです。

次に、「日本人」の定義を整理しなくてはなりません。そのためには「アメリカ合衆国」という国に暮らす人々を正しく定義する必要があります。

ご存知のようにアメリカは移民の国です。清教徒が「エデンの園」を本気でつくろうとするイギリスからの「渡来人」たちが新天地を求めやってきたことが、アメリカの原点です。
日本という国も同じです。蒙古判を有するオリジナルの日本人が暮らす土地に、紀元前400〜300年前に、中国から稲作と高床式住居を携えてやってきたのが弥生人です。ここから壮大な日本の歴史のストーリーはスタートします。

簡単に言えば、アメリカン・インディアンがアメリカ人のオリジナルでないのと同様に、オリジナルの日本人だけが日本人ではないということです。手塚アニメの「火の鳥」などにも示されているように、原始の時代から日本へは、たくさんの渡来人がやってきて住み着いています。朝鮮半島から渡来した人々、南の国から黒潮に乗り日本にたどりついた人々など、日本はアメリカ同様にさまざまな人種が平和に暮らせる、迫害からの避難民国家であったのです。

このように考えないと歴史の謎は解明できません。

「倭」の国から「和」の国へ、そして「大和」の国へ

日朝間に横たわる問題のすべてが誤った歴史解釈から生じています。
鳥越憲三郎著「古代朝鮮と倭族(中公新書)」によれば、倭族とは揚子江流域の高床式住居に住む一族です。水稲栽培にいち早く成功し、紀元前300〜400年前に朝鮮半島を経て日本に入り、それまでの縄文方式の日本を弥生方式に塗り替えた一族です。
彼らの価値観は「征服」ではありましたが、日本で米などの「価値あるもの」を作らせ、本国に持って帰るということは、しなかったようです。なぜならば、中国の国土は広いうえに、現在のタイやカンボジアなどの「沃土の国」の存在を知っており、実益のない植民地化は国益にそぐわないと判断したのでしょう。
それでも、征服した地(西日本や日朝間の島々)を「倭国」と名付け、時々見聞に訪れては「倭人伝」なるレポートを時の皇帝に提出していました。

日本の歴史を知るうえでの大切なポイントは、古代朝鮮を苦しめた「倭の国」は日本人ではなく、中国の倭の国の出先機関である日本や対馬列島などの島々、朝鮮半島の南部海岸線地帯を「縄張り」とした「海賊集団」たちであったことです。つまり、この時代に日本が朝鮮民族を苦しめた、という韓国側の歴史認識は間違っているのです。

朝鮮民族は常に「隋」や「唐」などの中国の強敵に対抗してきた民族です。日本は島国ですので、民族としての種の防衛にあまりに無関心ですが、朝鮮民族の遺伝子には「侵略からの防衛」が色濃く書き込まれていることを忘れてはなりません。

朝鮮の歴史的書物や記録は14世紀初頭にすべて焼き尽くされています。このことも、現在の日韓の関係を複雑にしている理由の一つであると考えられるのです。

歴史は場所です。場所、つまり現場から東西南北の方向を見ないと何も見えてきません。
東洋史を単純化して見た場合、2つの重要な地点があります。一つは古代にエジプト文明やメソポタミア文明が栄えたアラブの「豊かなる三日月地帯(ナイル川上流からメソポタミア文明が栄えた現在のイラク南部まで)」の中心地点であるイスラエル辺りです。もう一つはシルクロードの長安(西安)です。

歴史を正しく認識することは先を読むことにもつながりますが、現代社会は新約聖書によるキリスト教(ユダヤ人と呼ばれている人によれば、キリスト教は「ユダヤ・キリスト教」でしかなく、旧約聖書教、つまりユダヤ教という分母の上に、キリスト教が成り立っているのだそうです。このことから類推すると、ユダヤの謀略がはっきりとみえてきます。)が基本のソフトウエア(OS)になっています。アラブの世界で発生したキリスト教は、北へ流れイギリスという島国で進化していきました。

キリスト教は、「洗脳思想」「侵略の根拠思想」と考えるべきです。本来「思想」とは「宗教観」と「哲学」の組み合わせにより生み出される発想のことですが、一神教であるキリスト教が「人間」という残酷な生物に利用されると、「神の下に戦う」「聖戦と決めつけ爆弾を落としまくって良い」というような、まさに哲学なき人間を大量に生み出してしまうのです。(そこを分からないように利用しているのがユダヤです)

このキリスト教は、東に流れ中央アジアの国々や中国の長安に伝道されました。

ここで、日本の奈良時代以前に話を戻します。

時は流れた紀元後500年頃、日本に移り住んだ朝鮮民族も日本民族も相変わらずの中国からの干渉に困り果て、日朝共同プロジェクトで「和」の国、つまり「日本民族」+「朝鮮民族」の「和の国」をつくることになり、中国から「和の国」を守るための「府」を設営することになりました。それが九州の大宰府です。大宰府づくりには、中東や中国を経て朝鮮に渡ってきた大陸の文明力が大いに活用されました。

「府」とは主を守る最前線の本陣の意味です。
「府」の中心が「府中」であり、現在も東京と広島の交通の拠点に地名が残っています。ちなみに小田原の中村原の近くに鎌倉幕府の「国府」が設けられ、今でも「国府本郷」という地名が見受けられます。

そして、聖徳太子の登場です。聖徳太子が実在したという見方と実在しなかったという見方がありますが、どちらでも良いことです。歴史を知る上で必要なのは、その時に「国家」という民族が生き延びるためのシステムがはじめて構築されたという事実を知ることです。集団を構成する人々がしてはいけないことやしなくてはいけないことが決められ、天皇を中心とした政治体制が築き上げられたことです。「和をもって尊しとなす」とは「波風を立てずに妥協し調和すること」ではなく、「異見を尊重し調和すること」であり、算数の「和」と同じ、足し算をすることなのです。これを今のことばで表すと、「WIN―WIN」するということになります。

さらに年月は流れ、「オリジナルの日本人(蒙古斑を有する人々)」「中国からの渡来人」「朝鮮からの渡来人」の交配が進み、言葉や文化も一体化してきたところで、時のリーダーたちは「和の国」から、さらに一体化を進める「大きな和」つまり「大和」の国づくりを国策として実行に移すことになったのです。

そして、大化の改新という大改革が行われます。ここで理解しておかなくてはならないのは改新と改革の違いです。改善と改新は、過去の延長線上で新しくしたり、良くしたりすることです。一方の改革は、過去を否定して(スクラップして)全く新しいことを始めるということです。

歴史を知るには、改革したり倒幕したりした人たちの思想を知ることが極めて重要です。なぜならば、全ての改革は変える決定権のある人々の思想からなされるのですから。分かりやすく言えばディズニーランドづくりと同じです。ウォルト・ディズニーの思想が旧来のアミューズメントパークを否定したテーマパークをつくった、ということです。

歴史上では大化の改新とは、「戦い」の一つのように書かれていますが、重要な視点が抜け落ちています。それは、大化の改新により主要道路の整備と16キロごとの駅馬の設置です。その理由は当然京都へ「租庸調」を届け易くするためです。(この政策は鎌倉時代に徹底されました。鎌倉街道を鎌倉を拠点に北に16キロづつ進むと必ず「宿」があり、それが現在の主要都市となっています。例えば「府中」から16キロ先に「所沢の宿」があり、さらに16キロ先に「川越宿」があります。当然ですが、東海道を初め日本の主要街道も同じ法則が成り立っています。)

最初に「頭脳をリセット」してくださいと記しましたが、ここで一つの大切な法則をインプットしてください。それは、すべてを京都中心に考えないといけないという法則です。法則から「公式」が生まれます。16キロごとに駅馬を設置という公式が分かれば、人・物・カネ・情報を日本中にいかに流通させるかという国づくりの要諦が見えてきます。

どこに誰(駅馬管理集団)を配置して、どのような役目を担当させるかを決め、京都を中心に東西南北に政権の拠点をつくっていく、この方式は大陸の方式に従ったものであることは容易に推察されます。

さて、さらに時は流れ、日本の歴史で一番重要なまさに佳境の時代の話に進みます。

666年、高句麗(現在の朝鮮半島北部と中国北西部を支配していた朝鮮民族国家)から、ある集団が渡来してきました。その集団は668年に唐と新羅に亡ぼされた王族一行です。繰り返しますが、日本という国はオリジナルの日本人と朝鮮等の渡来人の「和」でなりたっている国です。この点が理解できないと日本の歴史は決して理解できないばかりか、感情的な「日本人優位論」に発展してしまいます。

当時の日本には、663年に滅ぼされた百済からの渡来人が相当数存在していました。もともと、日本という国は渡来人の文化力を吸収して発展してきた国ですから、当然朝廷も快く受け入れました。高句麗人は666年に時の高句麗王の王子「若光」一行を日本に避難させ、以降もぞくぞくと日本へ帰化したものと考えられます。

さて、この高句麗からの王族集団の知恵がその後の日本をつくる「源」になりました。それは、実にシンプルな法則です。

不運にも高句麗は滅亡しましたが、長く強敵の唐を退けてきた実績がある国です。その「勝利の公式」が清野作戦です。野を清くする、つまり敵が来ても米一粒も野に残さずに山にこもり、敵の消耗を待ち続けるという極めてリーズナブルな作戦です。

10年かけて704年に完成したいわゆる「藤原京」がなぜ、710年に平城京に移されたのでしょうか。理由は簡単です。666年以降の高句麗からの渡来人は東の国に移り住んでいましたが、完成した「藤原京」を見て、「この都は危ない、平野にあり囲まれたら逃げ場がない、容易に火をつけられる、後ろに高い山を頂く狭い地域に再遷都すべき」と進言したのでしょう。この提案に賛同した当時の指導者は、すぐにこれを実行に移しました。

渡来人の集団は、「日本に住ませていただいています。私たちの有する技術を提供するとともに再遷都の役務につかせてください」と語ったに違いありません。

筆者の木工の師に西野和弘氏という高名な木工家(現在は二胡作者)がいます。西野氏が教えてくれたのは、西野氏の祖先は、この時に朝鮮から渡ってきた建築や製鉄などの技術者集団であるということです。そして、平城京の西側の野に居を構えた集団が、以降、西野姓を名乗り、北の野に居を構えた集団が北野姓を名乗ったというのです。

地図で平城京を確認すると、青野作戦を可能とする場所に位置しています。その後、長岡京を経て794年には、さらに攻められにくい京都に遷都されました。この法則は鎌倉幕府でも取り入れられています。

平城京づくりに大きく貢献した高句麗からの渡来人集団には、朝廷から奥武蔵の高麗郷が与えられました。王族のどなたかが亡くなったのでしょう。その方の墓が高松塚古墳であることは疑う余地はありません。
そして716年、平城京遷都から6年後に、王族一行は奥武蔵に移り住んできたのです。平城京遷都1300年のイベントが2010年に奈良で行われましたが、2016年には高麗遷都1300年記念イベントが催されます。それまでに、日韓両国は、このように「お互いが協力し合って国を発展させてきた事実を共有する必要があると筆者は考えます。

もう少し高句麗からの渡来人の話をします。結論から記しますと、高麗郷に移住し、その地を開拓してきた渡来人一行はその後に母国に帰っていった、ということです。
高麗神社に隣接する聖天院にはなぜか「弘法大師」の像があります。羊(キリスト教)のスフィンクスもあります。なぜか、その答えは「渤海」という国が誕生したことから導き出せます。

「世界の国々の歴史・8 朝鮮・韓国」著者 岡百合子 岩崎書店より
<引用開始>
さてここで滅亡した高句麗のその後を見ておきたい。
 七二七年のことである。日本の出羽の国(秋田)の港に「渤海」といういままできいたことがない国のつかいがやってきた。三ヶ月後、平城京に入ったつかいは、王からの国書をさしだした。
 「渤海国は、高句麗の旧領土を回復しました。私たちは昔の夫余(ぶよ民族)の風俗をまもっているものです」国書にはそう述べてあった。
 このときから、渤海と日本の交渉が始まる。七二七年から九二七年の滅亡まで、渤海は日本に三五回も使節を送っている。それにこたえて日本からも、遣渤海使が一三回、海を渡った。遣唐使として無事にその役目を果たしたものは一五回だったというから、日本の海外交流史のなかで、これは決して少ない数ではない。
<引用終了>

実際に空海が渤海経由で長安に入ったかどうかは分かりませんが、高麗郷から帰国した王族は自分たちが日本で受けた厚遇に感謝し、日本からの来客を厚くもてなしたことは想像に難しくありません。

666年に子どもだった若光王子は、727年には「白髭」が生える年齢になっていました。たった十数年の高麗の地の生活でしたが、感謝の品々が高麗地方にはいくつも残っています。一つが「白髭神社」という神と出会える場所づくりです。もう一つは、巾着田の曼珠沙華です。彼らは現在2万本の曼珠沙華うちの1万本を植えていったそうです。反対に、現在の高麗郷地域には、高句麗文化はまったく残っていません。あるのは、近年創作された「高麗なべ(キムチなべ)」くらいでしょうか。

彼らにとっても、日本側にとっても、十数年で帰って行った事実は秘密にしなくてはいけないと考えたのでしょう。現在の高麗神社は変わらずに存続していきましたが、高句麗からの渡来人の墓はないといっても良いほどです。(裏山にカモフラージュ用の墓は用意されています)

ここまで記してきたように、朝鮮民族には偉大なる文化があったのです。しかしながら、その後激しい侵略を受け、歴史と文化を失ってしまったのです。

まだ勉強中ですが、日韓併合前の朝鮮は現在の北朝鮮より貧しく、道路も産業もなく、文盲率も高かったそうです。写真も残っています。私たち日本人は「悪いことをしてきた」と教えられてきましたが、どうやらそうではなさそうです。子どもたちの未来のためにも、世界の人々が共有できる本当の歴史を探求していきたいと考えます。
posted by M.NAKAMURA at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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