日本の敗戦後も、強制徴用者の2世たちの暮らしは悲惨だった。09年に韓国に帰国したパク・イルソプさん(73)は「44年に炭鉱が崩れ、作業服姿のまま血まみれになった父が背負子(しょいこ)で運ばれてきたが、2カ月苦しんだ末に結局亡くなった」「母も病死し、11歳のころから材木の伐採地で働いた」と語った。パクさんは、月給もなく、パン一切れを昼食に、木を伐採して運ぶ仕事を続けたという。
韓国外国語大学のパン・イルグォン研究教授は「ロシア(旧ソ連)の文書を通じ、民間人虐殺が広範囲に行われていたという証拠が明らかになったが、虐殺被害者の数については、さらなる文書の入手が必要」と語った。
首相室所属の「対日抗戦期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会」は昨年1月、サハリン強制動員真相報告書を発表した。この資料によると、45年の終戦当時、南樺太に住んでいた朝鮮人は約4万3000人で、強制労働に動員された朝鮮人男性の数は3万-3万4000人と推定されている。朝鮮人を動員した企業は主に、三菱、三井、王子製紙、日鉄などだった。国家記録院は、日本軍による旧樺太朝鮮人虐殺に関する文書と共に、強制動員された朝鮮人約1万2000人の名簿や写真、家族に関する記録を入手した。これらの資料は、サハリン強制動員被害者の補償申請の根拠として活用される予定だ。