元オウム教団幹部 野田成人のブログ

原則1日コメント3個迄 これまでの賠償額448万円 

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 「五輪考」続き。ガッツポーズの問題を書こうと思っていたら、先にコメントに出てしまいました。そのまま導入としてガッツポーズ問題に入らせてもらいます。最近のスポーツの問題としてこのガッツポーズが気になってました。しかしそれが現代では「当たり前」となっている。

 記憶に新しいところでは、昨年沢村賞を受賞した田中将大選手のガッツポーズ。堀内恒夫氏ら沢村賞の選考委員が、受賞者の楽天・田中選手に対して、「派手なガッツポーズや雄叫びを控えるように」と注文を付けた。
田中将大

 これに対して世間一般の声は、

 「ガッツポーズして何が悪いの?」
 「ガッツポーズで品格云々言うのは、時代遅れの老害」
 「ガッツホーズに苦言する選考委員の方が品格がない」

 等々。アンケートでは9割近くがガッツポーズ問題なし。

 ガッツポーズ否定派の人達の少なからぬ人は、日本古来の武道の精神論を背景にしていると思われる。剣道、柔道、合気道、空手道など、「道」がつく競技は、礼に始まり礼に終わる。相手に対する礼儀を重んじるため、勝った時も喜びを露わにしてはいけないと指導される。コメントにもあったが、剣道では「残心」を重んじる。「勝った!」と思ってもそこで油断してはいけない、という意味合いでもある。

 しかし野球などはファンあってこそ成り立つエンターテイメント。手に汗握る勝負どころで、「やったぁ!」と選手共々感情を共感出来た方が面白かろう。サッカーなどではゴール後に喜びを表現するダンスやバック転などもあり、それが競技のウリの一つにもなる。

 このようなパフォーマンスが「道」の精神にそぐわないのは明確である。「道」を付けては余り呼ばれないが、日本伝統文化の一つである相撲においてはこのコントラストが際立つ(写真は朝青龍)。

朝青龍


 小生は「ガッツポーズは望ましくない」という見解だが、その理由は「我を確定させてしまうから」である。ガッツポーズ等により、相手に勝ったという感情・喜びに浸るわけだが、そこで打ち負かした客体に対して勝利した主体の「我」。この認識が確定されることがまずいということ。

 例えば「観念について」で取り上げた2004年春巨人の阿部選手。もし彼が自分が何本ホームランを打っているかを認識せず、周囲の選手・家族・友人・マスコミも一切それを認識させなかったとしたら、阿部選手はその年ホームラン記録を達成していたかも知れない。しかしそれはマスコミから注目されるエンターテイメントである以上、現実には不可能。

 「阿部選手、凄いですねぇ~」と言われて、「俺って凄い!」と思うと、「大分仕事したからちょっとサボってもいいかな」という気持ちも出てくる。「いや~、そんなことないですよ、まぐれです。」と思えば、本当にまぐれになる。「まだまだ道途中です。」と考えれば、まだ記録は伸びる可能性が出てくる。しかし周りがそう思わせてくれないほど騒ぎ立てる。

 「やっていることを認識して我を確定させないこと」という視点から言えば、判定に文句を言うのも論外となる。柔道・海老沼選手の旗判定が逆転した際、「このような誤審があると選手が動揺する」という意見があった。制限時間内に優劣を決する以上、判定が微妙なケースが出てくるのは避けられない。それでも一個一個の勝負に拘れば、判定に一喜一憂することになる。勝ってガッツポーズをする人は、判定が覆る覆らないで一喜一憂することになる。

 相撲なら微妙な判定は取り直しになる。一つの局面で「勝った!」と思えても、そう認識しなければ、取り直しも前向きに取り組めるはず。体操団体にしても柔道・海老沼選手にしても、判定に因縁を付けたのが本人でないのが救いだが。

 このように「我を確定しない」「ガッツポーズをしない」という主体客体の「道」の追求を書くと次のような質問が来るかも知れない。

 「じゃあ『道』の追求を復活させれば、日本も柔道復活等で金メダル量産ってことかね?」

 残念ながらその答えは「ノー」。

(つづく)

4年に1度の「国別大運動会」 大会が示唆する国民の本性
産経新聞 8月5日(日)13時55分配信

 4年という、オリンピック開催間隔の残酷さを思う。

 日本選手団の金メダル1号候補に絶対視された柔道女子48キロ級の福見友子は、まさかの5位に沈み「これが五輪かなと思います」と話した。

 27歳の彼女はこれが初めての五輪だった。絶対的エースだった谷亮子を国内で2度破りながら、経験不足との判断で国際舞台の場数を踏めず、前回北京の代表も逃した。

 福見が北京を経験していれば、結果は異なったかもしれない。後悔を次に生かすため3年なら頑張れる、5年ならあきらめもつく。4年後どうするか、これから悩みに悩むのだろう。

 「4年に1度」の強い思いは、こんなシーンも生む。

 ロンドンのフェンシング女子エペ個人の準決勝では、韓国の女子選手が判定を不服として抗議のためピスト(舞台)に座り込み、決勝戦が約1時間遅れた。

 延長戦の決勝点が試合終了の時間を過ぎていたとの抗議で、韓国選手は「五輪で勝つために4年間頑張ってきたのに、わずか1秒でそれが消えてしまった。判定を受け入れられない」と訴えた。

 ソウル五輪のボクシングを思い出す。あの時も判定に不服を訴えた韓国選手が、照明を落とされた真っ暗なリング上に1時間以上座り込んだのだった。

 これはおそらく、日本人にはないメンタリティーだ。

 例えばロンドンの男子73キロ級の決勝で、度重なる不可解な判定の末に金メダルを逃した中矢力は「まだまだ甘い。反省を次に生かしたい」と話した。監督の篠原信一は「自分のことならいいけど、決勝であの判定はどうなのか」と顔を真っ赤にしていた。

 「自分のこと」とは、2000年シドニー五輪100キロ超級で、明らかな誤審で篠原が敗れた決勝戦を指す。柔道にビデオ判定が導入されるきっかけを作った試合だが、当時、篠原は「相手は強かった。判定に不満はありません」と語り、「潔し」として国民に受け入れられた。

 よしあしを問うているのではない。

 日韓の選手が逆の言動をすれば、「勝利への執念が足りない」「スポーツマンシップにもとる」と、いずれも強い批判の的となったろう。

 隣国同士でも、違う国の、違う国民性の持ち主であることを、五輪の舞台は実感させてくれる。

 サッカーの日本男子代表が1次リーグで戦ったモロッコでは、多くの選手がラマダン(断食月)の真っ最中だった。イスラムの戒律から選手らは日中の飲食が禁じられているのだが、樺太北部とほぼ同緯度のロンドン周辺の夏は白夜に近く、日の出は早く、夜はいつまでも明るい。

 日本を苦しめた1トップのエース、アムラバトは後半27分にピッチを退いた。試合後の会見でオランダ人の監督ピムは「彼は午前2時半から食事をしていない。交代せざるを得なかった」と語った。キックオフは午後5時。“異教徒”の監督が「難しい」と頭を悩ますのも当然だ。

 五輪で戦う選手たちは、それぞれの国や国民、国情の代表である。

 拡大化路線が極限まで進み、過渡期にある五輪だが、国別大運動会という根本は変わらないだろう。

 1948年のロンドン五輪で、戦勝国英国は日本の参加を拒否した。日本水泳連盟は五輪の競泳競技と同じ日程で日本選手権を開き、1500メートル自由形で古橋広之進は18分37秒0で優勝した。2位の橋爪四郎は18分37秒8でともに世界記録。五輪で金メダルを獲得したのはジェームズ・マックレーン(米国)でタイムは19分18秒5だった。

 翌年、古橋は全米選手権に出場して連戦連勝を飾り、「フライングフィッシュ・オブ・フジヤマ」と称賛された。帰国する古橋を迎えたマッカーサー元帥は談話を発表した。「国際スポーツではよく国民の本性が現れる。日本は今後、重要な国際責任を果たすべきときに直面しても立派にやってのけるだろう」

 そうであるなら、2012年のロンドンで金メダルが遠い日本選手団の不振は、何を示唆しているのだろう。(ロンドン 別府育郎)

コメント


ガッツポーズはするな!?一流選手のメンタル管理術http://www.mytennis.tv/contents_detail.php?CID=186

こんな意見もありますね。
参考程度にしかなりませんが。

上のリンクをクリックして以下のように書かれていました。

>ポイントが取れたかどうかの結果ではなく、
>自分がベストなプレイができているかどうかの過程にあるのです


結果ではなく過程が大切だということがだんだん分かってきました。


篠原信一は自分が金を逃した判定について。
内心今でもずっと不服に思ってるよ。
たぶんこれからもだと思う。
内心がどうかということは日本人は意識しないから。
今まで千年以上も表面上波風立てず的な民族だから。

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