つなぐ 希望の木
災難を乗り越えてきた木々を、都内に訪ねた。
【社会】また受忍論ですか 東京大空襲も原発事故も
終戦の日の八月十五日も、「戦争の後始末は終わっていない」と訴える人たちが、東京都の台東区民会館に集まっていた。国に空襲被害者への援護を義務づける法の制定を求めている全国空襲被害者連絡協議会の二周年の集会。受け付けをしていた河合節子さん(73)=千葉市中央区=は、東京大空襲で母親と弟二人を亡くした。昨年その体験を紙芝居にして、小学校などを回っている。 一九四五年三月十日の東京大空襲の夜、河合さんは疎開先の茨城県にいた。東京の空は、「あかあかと美しく輝いて」見えた。当時五歳。後日、大人たちが泣いているのを見たが、幼い河合さんは理由が分からなかった。 七月ごろ、包帯をグルグル巻きにした「ミイラのような姿」の父親が迎えにきた。母や二歳と三歳の弟はもういないと悟った。 紙芝居では、赤くただれた顔の父親と自分が街を歩く場面が出てくる。 <手をつないで街を歩けば、顔中ケロイドの父とすれ違う人はみんな振り返ります。耳たぶは溶けてなくなり、まぶたや唇はひきつれて外側に反り返っています。(略)私は振り向いて、にらみ返しながら歩いていました。> 七十七歳で亡くなるまで、父は戦争の話をほとんどしなかった。 紙芝居はこう続く。 <父の傷は外見だけではありませんでした。妻や子を守ってやれなかったことを生涯くやみ続けました。毎晩のように、何百回も火の海の夢にうなされていました。> 「あのね、お父さん…」と話しかけようとしただけで、お互い涙がどっと出たときのことを河合さんは忘れられずにいる。 三十年ほど医療系の仕事をした後、退職。介護のボランティアで、元軍人の家庭に派遣された。軍人やその遺族には恩給制度がある。自分には国からの何の補償もない。生活のゆとりの差がそのせいなのかと思えてくる。二〇〇七年に東京大空襲訴訟の原告になった。 政府や裁判所は「戦争被害は国民が等しく受忍しなければならない」という論理で、補償を認めていない。国策で被害を生みながら、誰も責任をとらない東京電力福島第一原発事故にも同じ構造を感じ、昨年は脱原発集会にも参加した。 「なぜ戦争を止められなかったのか。昔大人たちに言っていたことを今問われている気がします」 (橋本誠)
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