追悼:小川巧記さん
昼過ぎに大学の横浜文化ラボ事務局でネットニュースを見ていたら、突然以下の様な記事が目に飛び込んできた。
小川巧記さん車にはねられ死亡 横浜開国博プロデュース
15日午後11時10分ごろ、横浜市緑区長津田1丁目の国道246号で、近くの広告会社役員小川巧記(たくのり)さん(58)が乗用車にはねられ、死亡した。神奈川県警緑署によると、現場は片側2車線の直線道路で、小川さんは横断歩道のない場所を渡っていたという。
小川さんはイベントプロデューサーとして知られ、2009年に横浜開港150周年を記念して開かれた「開国博Y150」では総合プロデューサーを務めた。05年に愛知県で開かれた「愛・地球博」でも市民参加プロジェクトを担当した。
思わず自分の目を疑った。
小川さんは昨日の深夜、自宅付近で自動車にはねられそのまま亡くなってしまったらしい。はねた人が「発見が遅れた…」と言っている記事もあったから、強く頭を打ったにしても、もし治療が少し早かったら命は助かったかもしれないと思うと残念でならない。
小川さんとは9日前に、一緒に手伝っている「ASHIGARAアートフェスティバル」の打ち合わせと懇親会で、関内で飲んだばかりだったのだ。4月、5月、7月と、4,5回は一緒に飲んでいる。何か、気が合うというか一緒にいるとリラックスできるような気がして(それが小川さんの才能でもあったのだが)、その度に長い時間一緒に飲んだ。年齢も一歳しか違わないし、とても親しくしていただいたのでこんな急な訃報に接して悲しくて仕方ない。
自分より若い同僚の死や教え子の自殺などつらいことは山ほどあったが、元気だった仕事仲間が突然交通事故で死んでしまうという経験は初めてだ。ぽっかりと心に裂け目ができたようで今夜は何も手がつかない。気持ちの整理をするためにも少しでも関わりがあった人間として、小川さんとの思い出を少し書いてみようと思う。
小川さんと初めて会ったのは、2008年の5月。水戸芸術館で最後にバッタの地上置きをやった時だったと思う。翌年の「Y150横浜開国博」の総合プロデューサーとして、ADKや実行委員会のメンバーと一緒に見に来て、ベイエリアにナントのラ・マシーンの象を連れてきたいので、もう一つの会場であるヒルサイドエリアにバッタを持ってきたいというような話だった。宴会で少し話しただけだったが、この時の印象はあまりよくなく、要するにバッタのバルーンを人寄せの道具の一つに利用したいだけだろうと思っていた。
2009年の4月に、ラ・マシーンのパフォーマンスが横浜であった。実際には小川さんが望んだ「象」ではなく、少し不気味な2匹の「蜘蛛」になってしまったが、赤レンガ倉庫前の広場に何日か置かれた後、日曜日に日本大通から新港までのパレードが行われた。この時のことはblogにも書いた。 ものすごい数の見物人たちと一緒に歩いていると、高揚してパレードの後ろを歩いている小川さんに会った。小川さんに「先生、これからが本当に凄いんですよ。最後まで見て行って下さい」と言われたので、暗くなってから新港埠頭で行われた二匹の蜘蛛の火と水と大規模照明を駆使した大スペクタクルを見ることができたが、それがなかったらパレードだけで帰ってしまっていたかもしれない。この時の小川さんは子供のようにはしゃいでいて、無邪気に飛び回っていた。その笑顔が本当に無邪気でうれしそうだったので、少し好きになってしまった。
6月の開国博のオーブンまでにも色々なことがあった。小川さんは「愛・地球博」でも、「開国博」でも一貫して「市民参加」という理念を貫き通していた。愛知の博覧会ではメイン会場ではなく、瀬戸会場での市民参加を中心とした会場づくり、開国博でもメインのベイエリアではなく、ズーラシアに隣接した場所が不便なヒルサイド会場の担当だった。だから、小川さんが「開国博の失敗」の責任者というのは大きな間違いである。ベイエリアを担当した博報堂の企画が転々と変わり、責任者がいなくなった穴埋めとして途中から総合プロデューサーを押しつけられたというのが本当のところである。ヒルサイドはADKが担当しており、本来はそれほど集客を期待されていない別会場で市民創成の実験を好きなようにやりたかっただけなのに、ベイエリアの方の責任まで押し付けられてしまった。その結果、まともなコンテンツがほとんどない有料会場の不振の責任まで押し付けられることになってしまったのだ。その上、会期途中で最終責任者である中田市長が突然辞職し、逃亡してしまうということもあって、本人は裏では「逃げ遅れた」といつもこぼしていた。それでも、そんなことを表に出すことは一切なく、毎日両方の会場を行き来しながら、何とか盛り上げようと不眠不休で頑張っていた。会場でよく顔を合わせて挨拶をする以外にも、一度ADKのKさんと三人(途中からTさんも参加して四人?)で中山駅付近の飲み屋でじっくり腰を据えて飲んだことがある。この晩のことも忘れられない。最初の印象と違って、徹底的に誠意をもって人と接する方で、終わった後の大変な時期にもバッタチームとの野毛での打ち上げにつきあってくれたり、浅草まで唐ゼミ☆を見に来てくれたりしてくれた。
小川さんは大学を卒業してからテレビの制作会社で働いて、そのあと独立して広告・イベント会社を経営。80年代後半からは博覧会や地域振興などのプロジェクトを続けてきた。野毛の「萬里」で飲んだ時に小川さんから聞いた話が忘れられない。小川さんは高校時代にベ平連(「ベトナムに平和を」市民連合)に共鳴し、脱走米国兵のサポートなどの活動をしてきたことがある。その頃から市民が自分たちの暮らしや社会に主体的に関わるのが本当の民主主義社会だという思いをもち続けてきた。だから、小川さんがずっと取り組んできたのは、上からのコンテンツを押し付ける博覧会や地域イベントの中に、住民や市民自身による文化創成を取り込んで行くことによって、最終的には自発的な市民が主導権を握って行くような社会の実現である。とても理想主義的ではあるのだが、愛知や横浜でうまくいくことも少しはあるが、ほとんどが失敗の市民創成イベントを粘り強く続けてきたのには、そんな理由があったということを初めて知った。今回、一緒に関わっている「ASHIGARAアートフェスティバル」でも、そうした小川さんの理念が貫かれている。行政主導の「アートフェスティバル」という一種の「ブーム」に乗っているが、目指しているものはそれとは全く違う住民主導の市民イベントなのである。2月に突然小川さんから電話がかかってきてから、4月に会場の下見、7月にキックオフ・イベント、そして5月と先週の全体会議と懇親会と、小川さんと何度も一緒になり、酒を酌み交わした。とても楽しい経験だった。ただ、先週の会の時には、仕事で疲れているのか、宴席でずっと居眠りをしているのが気になったが、地下鉄の駅で別れる時には元気に手を振って見送ってくれた。それがまさか最後の別れになるとは全く思ってもみなかった。
足柄では既に唐ゼミ☆の公演が決まっているが、11月のフェスティバル中には、これとは別に小川さんと一緒にシンポジウムをやりましょうという話が出ていた。これがもうできなくなってしまったことがとても悲しい。4月の下見の日の帰りに、横浜橋商店街の韓国料理屋で飲んだ後、大通り公園そばのクラシックなバーで飲みながら足柄のコンセプトについて話し合ったり、南足柄の大雄山駅ビルの居酒屋でみんなで飲んだりした日のことも昨日のように思い出される。ご家族のことや、会社の他の仕事のことなどほとんど話を聞いたことはなかったが、博覧会やさまざまなイベントを通して、小川さんに感化されたり、影響を受けたりした人たちは沢山いるはずだ。こんなに若く、こんなに仕事盛りの時期に突然交通事故で死んでしまうなんて、とても残念なことだ。
この動画には小川さんの元気な姿が映っている。 ベイエリアの「はじまりの森」で、バッタと蜘蛛が対面した時の映像だ。この日、朝6:00という早朝にもかかわらず、実現に尽力してくれた小川さんは実にうれしそうな顔をして参加してくれた。そして、ぼくの逆サイドに居るのが、当時横浜市のY150・創造都市事業本部長だった故・川口良一さんである。川口さんもまた、市長が逃亡してしまった後の開国博の行政における最高責任者として、裁判をはじめとするゴタゴタに巻き込まれて病気になり、数ヶ月後に亡くなってしまった。川口さんにもとてもお世話になった。二人とも志をけっして曲げない頑固で素敵な人たちだった。そんな人たちがこの世界からこんなにも早く消えて行くのはとても不条理なことのように思えるが、しかしそれが現実なのだ。
思いつくままに書いて、少し気持ちの整理ができたように思う。小川さん、突然目の前から消えてしまうなんてさみしいよ。
心から、ご冥福をお祈りいたします。小川さんと会うことができてとても感謝をしています。ありがとうございました。
8月 16, 2012 at 10:59 午後 日記・コラム・つぶやき | Permalink
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