原告「線香一本分でも償って」

提訴後、ガンバロー三唱で気勢を上げる神谷洋子さん(前列左から2人目)ら原告=15日、那覇市楚辺

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2012年8月16日 09時45分
(15時間5分前に更新)

 戦争に巻き込まれ、心や体に傷を負い、家族を失ったのに、満足な補償も得られないまま暮らしてきた人たちが起こした国賠訴訟。敗戦から67年たったこの日、せめてもの償いを国に求めて那覇地裁に訴え出た。

 「日本は何も守ってくれなかった。線香一本分でもいい、謝罪の気持ちを表してほしい」。神谷洋子さん(74)が、那覇市で10・10空襲に遭ったのは6歳の時。35歳の母、1歳の弟と南部へ避難した。旧日本軍の軍人に「お前たちが食べたら日本のためにならないからよこせ」と食糧を奪われ、壕も追い出された。たどり着いた南風原の壕で艦砲が落ち、母と弟が亡くなり、神谷さんはひとりぼっちになった。

 「いまさら無理だと思う」。2年前、補償を求めて役所を訪ねたときの職員の言葉だ。送ると言われた援護法の書類は今も送られてこないまま。「弱い者が我慢し続け、このまま犬死にするのはあまりにもつらい」と原告団に名を連ねた。

 「私のような戦争孤児をもう出さないでほしい」。大城政子さん(72)は、父を靖国神社へ合祀(ごうし)したことを知らせる通知と、戦前に撮った白黒の母の写真を抱えて那覇地裁を訪れた。小禄から一緒に逃げた母は、政子さんを背負いながら壕から出たところを撃たれ、亡くなったという。

 当時4歳。左足には銃弾が貫いた痕、右膝の上には爆弾を受けた傷が残る。だが、父のことも母のことも、ほとんど記憶に残っていない。小学校を出て、親戚の靴店で働くなどして暮らした。「小学校しか出られなかったけど、本当は学校の先生になりたかった」

 孤児としての苦しかった日々に対する償いを国にしてもらいたいと思い原告に加わった。「孫が13人。将来、私のような体験をせずにすむよう、平和であってほしい」と願う。

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