Hatena::ブログ(Diary)

バニラ隕石ホテル

2012-08-16

セックスについて

 その夜、僕は彼女と初めてセックスをした。
 行為の最中、僕は何故か、蜂のことを考えた。鋭い針で僕を突き刺す。僕は毛穴とかから血を噴き出すのだ。
 行為を終えて、僕はうっとりとした時間に溶け込む。何故、蜂のことを考えたんだろう、と思う。蜂というぼんやりとした空想が、やがてはっきりしていく。ふと、イメージが固まる。それは蜂蜜だった。
 そのとき、彼女が顔をこちらに向け、
「ねえ。蜂蜜、飲んだことある……。舐めるだけじゃなくて、飲むの」
 彼女の頭を撫でながら、うん、と頷く。
コーヒーについて、地獄のように黒く、地獄のように熱い――そう言ったの、どこかの政治家だったかな……そう、蜂蜜は、それと同じくらい熱くて、官能的なの」
 セックスも――そう続けようとしたかのように、彼女の唇は空をさまよった。
 それから僕は、まどろみの中で、セックスとそれに付随するもののプロトコルについて考えた。
 プロトコル――外交儀礼
 男と女の、セックスに収束する事柄は、まさしく外交だろう。しかし、国と国の在り方なんて上等なものではなく、複雑な儀式がつきまとっているわりに、することといえば、動物的な子作りにすぎない。
 下心を隠して会話をし、食事に誘い、家に招き、まどろっこしくセックスに誘う。
 しかし、二人の時間はとても濃密で、愉しいものでもある。やはりまるで、蜂蜜を飲むときのような。
 これから何度、この子とセックスをすることになるのだろう、と僕は思った。
 蜂蜜の瓶から着々と蜜がなくなっていくところを想像した。蜜の色は濃い黄色で、それは蜂の鋭利な針を想起させた。

2012-06-14

「アホかわエロス」の進化――姫野蜜柑の軌跡

 今回の記事では、COMIC LOにて成年漫画を執筆している姫野蜜柑について語ろうと思う。

 姫野蜜柑はこれまでに単行本を二冊出しており、その両方の帯で同じテーマについて触れられている。曰く、
時代は… アホかわエロスだ!!
ことわざに曰く「アホの娘ほどかわいい」。つまり、かわいくてアホな娘が最強。
ディスイズ ちょっとアホ&エロかわロリマンガ ベリーマッチ!!
 前者二つの引用が一冊目の単行本『ろりるれろ』、後者が二冊目、最新単行本である『ろりはれっちゅ』に拠る。
また、一つ目の見出しには「アホかわ」の部分に「※『アホかわいい』の略」という注釈が付けられている。
 姫野蜜柑を語る際、この「アホかわ」というワードは避けて通れないだろう。

 初期の作品――『ろりはれっちゅ』はおよそ発表と逆順に収録されているので単行本では「そーせーじ!」以降――こそ
成年漫画の基本を描いているが、それでも「小さな八百屋さん」では独自の「姫野蜜柑ワールド」を出している。
姫野ワールド、つまりアホかわエロスの世界では、ただ少女が「アホ」なだけでなく、世界さえも「アホ」である。
 だから、それが顕著であり、開始から2ページで「アホ」になる作品「ろりるれろ」が第一単行本のトップバッターに選ばれたのだろう。
ただ「抜けていて可愛い少女」ならいくらでも――それこそ掲載誌が全て「LO」というロリコン向け雑誌なので――いるが、氏の場合、男までもが「アホ」となる。
 表題作「ろりるれろ」はまさに姫野蜜柑の真髄とも言え、
女の子が「アホ」になる(本作では飲酒し、脱ぎ始める)→男も「アホ」になり、偶然を装った行為がエスカレートし、セックスする→女の子が「アホ」のふりをし、男との関係を持ち続ける
という展開を見せる。

 先述の「小さな八百屋さん」ではエロ漫画というよりも、むしろ、ギャグ漫画に近い体裁をとっている。
氏の作品は実用性には乏しいかもしれないが、女児向けアニメである「プリキュア」に「萌え」るように、別の角度から楽しむことが出来る。
ろりるれろ』収録の「パパの宝物」や「そーせーじ!」では、「大切なものを壊したから」、「好奇心旺盛な双子だから」といった、成年漫画的な理由が主軸となっているが(勿論、両作品にも姫野節は健在だが)、
以降は「アホかわ」を軸にし、氏にしか描けない世界観で作品を執筆している。
 私は抜けなくとも、笑えたり、考えさせられる成年漫画はいい読み物だ、と考える。後者だと、例えば町田ひらくなどがいる。

 姫野蜜柑はこれまで「アホかわ」を貫いてきたが、しかしそこにも微細な変化があった。
ろりはれっちゅ』収録の「お世話になります」と「あねのこ!」で、作中の男キャラは危ない綱を渡ることになる。
 前者では女の子が「嫌がり」はじめる。既存の姫野作品では、「ろりるれろ」の説明に書いたとおり、女の子は「アホ」であり、セックスを受け入れてきた。
しかしここにきて――氏は東日本大震災以前は月に一作、コンスタントに作品を発表し続けており、本作は15作目に当たる――
女の子が無条件に快楽を、そして男を受け入れるのに対し、女の子がそのことに拒否を示す。
だが前者では、いわゆる「ツンデレ」的な拒否であった。読者から見ても明確に、拒否ではないと分かるものだった。
 しかし後者、「あねのこ!」では、最終ページに至るまで女の子の真意は伏せられており、あまつさえ「れいぷ」という単語をも女の子は男に対して投げかけるのだ。
一応、前述の姫野蜜柑の「アホかわ」テンプレは使用されており、喜劇性を残してはいるものの、本作で「アホ」なのは男だけで、女の子は拒否の態度を貫く。
 ギャグ漫画を描いていた姫野蜜柑がシリアスに転身したとも言えるが、しかし、以降の作品でも「アホかわ」の精神は忘れられておらず、やはり笑える、「アホかわエロス」は健在である。

 単行本収録済みの作品はそれらを参照してもらうとして、以下は単行本未収録の作品と、掲載号の一覧である。

さんたこさんた COMIC LO 2012年2月号掲載
キャラメロリー  COMIC LO 2012年3月号掲載
ずっと一緒2   COMIC LO 2012年4月号掲載
面接へ行こう!  COMIC LO 2012年6月号掲載

ちなみに、現時点での最新号であり通算100号目である2012年7月号には、氏の作品は掲載されていない。

 さて、ここで氏に、第二の変革が訪れる。
それは3月号に掲載された「キャラメロリー」においてであった。
これまではなんだかんだと言いつつ、女の子は基本的に、男に惚れ、「らぶらぶ」な展開になっていた。
しかし本作では、あろうことか男キャラは、女の子を「レイプ」する。
あねのこ!」のときとは違い、今回は本当にレイプしてしまうのだ。
 だが、レイプものだから陰鬱かと言われればそうではなく、強姦でさえ氏はギャグに昇華してしまう。
前述の「お世話になります」から通ずる――くしくもあの作品も女の子は男を拒否していた――オチがそこには待っている。
初めて扱った本物の「レイプ」をどう落とすのか、はらはらしながら読んでいたが――
特に目覚まし時計でレイプ犯を殴るシーンでは、氏の緊張も伝わってきた――まさか、というオチだった。
 続き物である「ずっと一緒2」は除くとして、最新作の「面接へ行こう!」ではいつもの姫野節が戻っており、少なからず安心感を得た。

「アホかわエロス」を主軸としながらも、これからも姫野蜜柑は進化していくだろう。
その片鱗として、例えば「面接へ行こう!」では、正統派で可愛い女の子が描かれている。
氏は決して、特別に絵は上手いとは言えないが、この作品での「アホ」――つまりギャグ調の消え去った少女の絵には魅力がある。
 たかみちだの町田ひらくだのクジラックスだのを目当てにLOを買った際には、是非姫野蜜柑を一読していただきたい。
きっと氏の魅力に、あなたも打ちひしがれるだろう。



Amazonではマーケットプレイスにしか在庫はないが、一応、「ろりはれっちゅ」の方は茜新社のネットショップで購入出来るし、
DMMでは両単行本が新品で購入出来、単行本収録済み作品ならDL販売もされている。
また、お近くのメロンブックスとらのあなでも購入出来るはずである。

2012-03-09

厳選嘲笑

 大抵の人間は、つまらない文章なんて書きたくないと思っている。しかし、受け手にとって、つまらない文章が存在しないという状況は有り得ない。価値観は人それぞれだが、それでも最低限、不快でない文章を書くことは誰にでも出来る。
 発信者に求められているのは、面白い文章を書くことではなく、不快でない文章を書くことなのだ。しかし、ブログというツールを手にした書き手は、時に受け手の気分で文章を綴り、不快な文章を垂れ流してしまう。
 不快でない文章を書くにはどうすればいいか。そのためには推敲しなければならない。受け手の気分でブログを書く者は、得てして推敲を行わない。何故なら文章を読むとき、人は推敲しないからだ。「読む」癖が付いているせいで、「書く」ときも「読む」要領で書いてしまう。
 推敲といっても、そう難しいものを求めているわけではない。自分の書いた文章を読み返せばいいだけなのだ。頭の中で声を出して、それまでの文章を読み上げる。そこで、例えば助詞の間違いに気付いたり、不自然な接続詞を見付ける。その作業ばかりは慣れるしかないが、何度かそれを続けていれば、自ずと誤りが分かるようになる。

 しかし、この文章はブログではなく日記なので、推敲などしない。一応、他人に見られるために書いてはいるが、鬱陶しい文章を書いて苛立たせることが目的なので、最低限「読める」文章にはしているが、それ以上のことはしたくない。
 はてなダイアリーにおいて私の目指すものは、いかにも「はてなダイアリーはてなダイアリー」した文章なのだけれど、今のままではそれに近付くのは容易ではない。何故なら、私が書いているのは「日記」だからだ。私が「はてなダイアリー」的だと思っている文章の多くは「ブログ」であり、だからこそ独特の気持ち悪さが存在している。
 それに必要なのが「推敲」なのだろう。私の指針としているものを形にし、その上で自分の書いた文章を読み返し、練り直す。私の書く文章にはブログ性が足りていないのだ。私が書くのは日記ではなくブログだ、と言ったが、それは完全なものではなく、まだ圧倒的にブログらしさが欠けている。

 だが、完全に日記性を失うことは避けたい。そうなった場合、私が馬鹿にしている文章との差異がなくなってしまうからだ。飽くまで、自分が馬鹿にして、かつ他人に馬鹿にされたい文章を書きたい、というものが目標であって、ただ嘲笑されるような記事は書きたくない。笑われるのではなく、笑わせたいのだ。
 今後、私が考えねばならないのは、そういったものの折り合いなのかもしれない。

2012-03-06

損なわれたもの

 損なわれた美学、というものがある。所謂、「美人は三日で飽きるが」、というやつだ。完成形には、矛盾しているが、美が足りていない。例えば、プラモデルは組み立てる過程が面白いし、旅行は用意しているときが楽しい。完全な美しさには、美学がないのだ。
 ならば、美しい女性とは何か。脱線になるが、創作物では得てして「損なわ」せる部分は決まってテクニック面である。学園ものなら、幼馴染みが学年トップの成績で学校一可愛かったら、料理が下手だったりする。分かりやすい、しかしある程度仲良くならないと露見しない欠点が宛がわれる。あるいは音痴だったり、実生活に支障をきたさない損なわせ方をさせられる。
 では、現実ではどうか。陰のある女性、ミステリアスな女性は、神秘性に惹かれるものだ。損なった部分を隠している、という点では、前述の創作物のキャラとは変わらないが、現実の女性はそれと異なる点もある。それは、実生活に支障をきたす、ということだ。

 彼女たちには愛が欠けている。創作物のキャラでいう主人公からの好意ではなく、もっと抽象的な、内面的な愛が損なわれている。一概には言えないが、親からの愛が足りていないという場合が多い。それを埋めることは我々(=創作物の主人公)には出来ない。
 我々は彼女ら「損なわれた美学」の前では、ただただ無力でしかない。何故なら主人公に愛された時点で彼女らは完成してしまい、美が欠けてしまうからだ。だから彼女たちは愛が欠けているし、愛されることがない。仮に主人公に愛されたとしても、それを愛と認識することはない。だから我々は彼女を愛す必要はない。
 しかし、我々が愛さなければ、彼女たちは「欠損」として「完成」してしまう。だから、その「損なわれた美学」を維持するために、我々は彼女たちを愛さねばならない。我々は彼女を愛すが彼女はそれを愛として受け入れない――その矛盾こそが損ないなのだ。そしてその損ないこそが美学の完成に至る。

 勿論、これはブログであって考察ではないので、私がこういった事柄を思考しているというわけではない。
 私の行動からメタ的に、前述された内容として憶測されているだけに過ぎないのだ。
 だからこの一連の文章は、これから紹介する本のレビューではなく、「それを読んだ」という私の行動によって推測された文字列でしかない。
 TAGROマフィアルアー』は、多聞にエッセイテイストの盛り込まれた短編集だ。損なわれた女性が全編に至って描かれており、そこには未成熟とも失敗作とも欠陥品とも取れる「美学」がいる。
 日記は思ったことを思ったまま書くものだし、これは誰かのために、読まれるために書かれたものではないのでここで終わり。

2012-03-04

我々の恥部

 日記は超主観的な自己の記録である。通常、日記というものは他人には見せず、自分だけで管理する。その日あった出来事を書き記し、そして読む。その行為自体には記憶の保存程度の意味しかないが、本質は内面に存在する。
 人は、普通、日記を他人に読まれることを拒む。それは主観的な記録だからだ。マイナスでさえ記録しておきたい人物にとっては、失敗したことも嫌だったことも、ポジティブな感情と共にそこに記録すべき事柄なのだ。失敗体験を客観的に観測されることに耐えられる者は多い。しかし、その体験について、主観を通じて覗かれることに耐え得る者はそう多くはないだろう。羞恥心は外部から受け取るだけでなく、内面的にも起こり得る。むしろ内面的な羞恥心の方が、外面的なそれよりも耐え難い恥辱であることも少なくない。

 我々は、インターネットの発展により、ブログというツールを得た。これには、大抵の人物は、ポジティブな記録しか残さない。何故ならばブログは、日記という形態を取ってはいるものの、実際のところは対外的な、客観的なものでしかないからだ。端的に言うならば、承認欲求を満たすためのものだ。
 この世にある大半の事象は承認欲求を伴って生まれてくるし、発信者が自分となればその傾向はより顕著となる。ツール化された自己の記録である「日記」が何になるかと言えば、「エッセイ」だ。文学者の土俵に、素人が上がってしまえることになる。これまで受け手だった自分が、書き手となれる。実のところは彼ら文学者になれるわけがないのだが、幾人かは気取って、まるで文豪の如く「エッセイ」をブログに書く。
 読み物として面白いブログは確かに存在するが、ただ承認欲求を埋めたいだけならば、動物の写真か食べ物の写真を載せればいいだけだ。きっと「エッセイ」を書く彼らは、「日記」でないものに対して、信頼というか、酔狂を得ているのだろう。

 ブログは日記とは違い、他人に読まれるために書かれるものだ。
 だが、そこで主観性を失ってはならない。「エッセイ」に酔わない我々は、いつだって「日記」を書くべきだし、日記に客観的な視点は必要とされていない。つまらないと思われたものを面白いと、美味いと言われたものを不味いと言える――それが日記なのだ。

 だから私は日記を書く。今日はアニメ版『変ゼミ』#9「主観的自己観察の結果と自己開示に関する考察」を視聴した。見れば分かるが、この記事の書き出しとほぼ同じことが作中で付言されている。
 しかし日記を書こうとしても、インターネット上で発信するならば、これらが「ブログ」になってしまうことからは逃れられない。だからこの記事は日記ではなくブログだ。その日の出来事を主観的に記録したものではなく、思考をメタ的に書き留めたものでしかない。