硫黄島10
2月21日、摺鉢山の攻撃はすでに最終段階に入ろうとしていた。朝8時になると40機の戦闘機がやってきてロケット砲弾、機関銃弾、ナパーム弾を撃ち込んでいった。8時半になると地上部隊の攻撃にバトンが渡された。それとともに摺鉢山からの攻撃も激しくなった。 ヘンリー・ハンセンとドン・ルールは摺鉢山の麓の塹壕で隠れていた。そこにわずか2メートルしか離れていない場所に手榴弾が落ちてきた。ルールは「気をつけろ、手投げ弾だぞ」と叫び、それに覆いかぶさった。ルールは死んだ。片腕が吹き飛ばされ、胸に血だらけの腔ができていた。 この物語でもたびたび引用させていただいている「地獄の戦場」の著者であるリチャード・ホイーラーもこの日の戦闘で負傷した。砲弾の穴のなかに臼砲弾が飛び込んできたのだ。ホイーラーは顎を砕かれておびただしい出血をしていた。手当てを受けていると、さらに砲弾が落ちてきた。ホイーラーのふくらはぎの筋肉は二つに割かれ、肉が切断されて切れ切れにぶら下がっていた。 戦闘を指揮するウェルズ中尉とほかの4人がかくまっている穴の中にも臼砲弾が落ちてきて、ウェルズ中尉は両足に被弾した。彼は衛生兵からモルヒネ剤を投与してもらってそのまま指揮を続けたが、消耗が激しくなり、傷口には否応なく砂が入り込んできたため、二回目のモルヒネを打ってもらい指揮を続けていたがじきに交代した。 米軍は発見できる掩蔽壕にたいして火炎放射器を使用した。 日本兵が死ぬや、小隊のものは、肉の焼ける臭いが鼻に来るのを感じた。そして兵士の一部は後日、状況上これは今までかいだ臭いの中もっとも芳しい香りというふうに思われたと語っている。 (「地獄の戦場」リチャード・ホイーラー) また遅れていた戦車隊も到着し、掩蔽壕にたいして砲撃が加えられていった。このため日本軍の攻撃もだんだん沈黙していった。この日、摺鉢山の麓まで米軍は占拠していた。午前2時過ぎに日本軍の夜襲がはじまった。しかし米軍の砲弾と一斉射撃の前に多くの日本兵が死んでいった。 2月22日の戦闘はすでに終盤になっており、米軍は摺鉢山の壕をひとつひとつしらみつぶしにライフル銃や手投げ弾、火炎放射器で攻撃するだけになっていた。日本軍の組織的な抵抗はなくなっていた。しかしこの日の戦闘までに摺鉢山攻撃を担当していた第五海兵師団は2057人の死傷者を出していた。 翌23日、摺鉢山は陥落した。この日は朝から斥候が派遣された。摺鉢山の頂上にのぼり、星条旗をたてる役目である。ときどき日本兵の洞穴があったが、抵抗もなく頂上に達した。しばらく抵抗はなかった。米軍の一人は火口のなかにむけて小便をするものもいた。 その後、一人の日本兵が穴から這い上がろうとするのが見えた。登り始めてからはじめてみる日本人だった(死者を除いて)。米軍は三発ライフル銃を撃つと、その日本人は穴に落ちていった。それから手榴弾がバラバラと投げられてきた。海兵たちも銃撃や手榴弾で戦闘をしたがすぐに終わってしまった。 その際にも別の海兵隊員たちが長いパイプを見つけ出し、任務どおりに星条旗をしばりつけて山頂に立てられた。「地獄の戦場」のリチャード・ホイーラーは10時20分と書き、「硫黄島 勝者なき戦闘」のビル・D・ロスは10時31分と書いている。R・F・ニューカムの「硫黄島」では時間はかかれていない。このときの星条旗掲揚の写真が海兵隊誌の写真師ルー・ロウェリーによって撮られているが、あまり劇的な写真ではなかった。有名な写真、および映像はこの2時間後に撮られたものである。 ロウェリーが写真を撮った瞬間、二人の日本兵が出てきた。愛国心に燃え、星条旗を引きづりおろそうとしたのだろう。一人は海兵隊員に向かって発砲したが、それた。この日本兵は撃たれて火口に転がり落ちていった。もう一人は刀をふりかざして旗を揚げているグループに突撃してきたがやはり撃たれて転落していった。その後、手榴弾が海兵隊員たちに降り注いできた。海兵隊員たちは火炎放射器で穴のすき間を攻撃し、爆発物で穴をふさいだ。 このとき写真師ロウェリーに向かって手榴弾が投げられたため、ロウェリーは斜面をすべり落ちた。このためカメラは壊れたが、フィルムは無事だった。 この日の午後、最後に攻撃された洞穴を調べた海兵隊員たちは90メートル近くも山中に掘られていることを確認した。そして150人以上もの日本兵たちの死体が見つかった。ほとんどは手投げ弾を腹のあたりにもち、ピンを外して死んでいたという。書類から前夜(22日)、約300人の日本兵が脱出したことがわかった。しかし米海兵隊員たちの脇をすりぬけて本部へ合流した者たちは20名くらいしかいなかった。大半は元山飛行場の争奪戦のなかで死んだようである。 この脱出組みのことがR・F・ニューカムの「硫黄島」には次のように書かれている。映画「硫黄島からの手紙」でも形をかえて取り入れられているし、映画を観た人はどの場面か想像もつくであろう。日時は2月24日の出来事である。 東集落近くにあった井上海軍大佐の司令部に、日本軍の海軍大尉と、数名の兵隊がたどりついた。血でよごれた服を着た大尉は、摺鉢山から脱出してきた旨を報告した。 井上大佐はどなりつけた。 「この裏切者め。なぜここにきた。何という恥さらしだ。お前は、卑怯者で脱走兵だ」 軍規のもとでは脱走兵はただちに断罪される。 「いま、その首をたたき落としてやるからそう思え」と井上は叫んだ。 日本刀をひき抜き正眼に構えた。大尉は無言で地面にひざまづき首をたれていた。しかし副官がそれを押しとどめ、井上の手から刀をもぎとった。大佐は涙をかくそうと振りむいて、「摺鉢山は陥落した」とつぶやいた。その従兵であった小安利一兵曹は大尉を治療室につれていって、傷の手当を受けさせた。 (R・F・ニューカム「硫黄島」) 小さい旗ながらも艦船からは双眼鏡などで確認された。汽笛が鳴らされた。足に怪我をして後方移動させられたウェルズ中尉は、最初の旗の重みを知っており、海兵隊で共有するために代わりの大きめの旗を差し向けた。 AP通信のジョー・ローゼンソールは2月19日から上陸して、日々撮影したフィルムをエルドラド号でグアム行きの輸送用飛行艇に積み込み手続きをしていた。23日もエルドラド号から上陸し、山頂に登るべく決意していた。すでに最初の星条旗は掲揚されていたが、何かを撮りたくて出かけた。ほかに、海兵隊所属のカメラマンが一緒に登った。頂上では新しい星条旗が運び込まれ、長めのパイプに結び付けられていた。6人の海兵隊員たちがこの新しい星条旗を岩場にたてるとき、写真家たちはそれぞれカメラや映像を回しはじめた。ローゼンソールはスピグラ(アメリカ製で政府機関や新聞社などに広く使われたベストセラー機である)のシャッタースピードを1/400にして露出はF8とF11の中間で撮った。これが有名な星条旗掲揚の写真となり、1945年度のピューリッツァー賞に輝くことになる。また海兵隊所属のカメラマン・ゲノーストは撮影機をまわして、これも有名な映像となっている。 写真の中の6名を割り出すのに数日費やした。特にアメリカ本国では熱狂的に誰なのかを知りたがった。最初に旗を掲揚したのではないにもかかわらず、ローゼンソールの劇的な写真のせいで英雄視された6名の名前はアイラ・ヘイズ、フランクリン・R・スースリー、マイケル・ストランク、ジョン・ブラドレー、リーン・ギャグノン、ハーロン・ブロックである。このうち、スースリー、ストランク、ブロックの3名は後の硫黄島戦闘で死ぬことになる。また、映画や本「父親たちの星条旗」でも描かれているように、ヘイズとギャグノンは二人ともアル中になって死んでしまった。映像を記録したゲノーストも自分の撮影したフィルムを見ることもなく戦死することになる。ところで最初に摺鉢山に登ったものは40名であったが、硫黄島の戦いが終わるまでに無傷だったのはたったの4名である。残りは戦死するか負傷して戦場から離脱した。 摺鉢山が23日に陥落してからも、まだ星条旗をめぐる日本軍の抵抗があったようである。これは他の本では書かれていないが、「十七歳の硫黄島」(秋草鶴次)に書かれている。 二月二十四日朝、米軍は八時出勤だから、それまでには現状保持の状態にまで繕っておかなくてはならない。八時少し前には、整地して足跡などを消し現状に復す仕事をして、中に入ろうとした。すっかり明るくなった摺鉢山を望んだ。するとそこには星条旗ではない、まさしく日章旗が翻っていた。よくやった。日本軍は頑張っているのだ。この島のどこよりも攻撃の的になっている場所なのに。ご苦労さん、と自然に涙が出た。懸命に摺鉢山を死守している勇士がいる。故郷の人に見せてやりたい。今頃俺の田舎では、雲雀がわが巣に戻って、安眠の最中であろうに。その鳥にも劣る我は今、食するのも、ねぐらも、親兄弟と離れ離れの生活を強いられている。 敵は前方のみではない、周囲四方が敵である。否、味方になるものは何ひとつない。まず自分に勝たなければならない。弱音を吐いたら、それまでである。第二には飢えに堪えることだ。何がなくても水があれば生きられるという。しかしその水をいま天が恵んでくれない。しかし死ぬわけにはいかないと、自分に暗示をかけていた。同じ境遇の人が、摺鉢山では夜を日についで眼前の敵と悲惨な激戦を展開し、ついに日の丸を掲げた。涙なくして見られぬ光景であった。 (秋草鶴次「十七歳の硫黄島」) その日の丸も米軍に気づかれ、米兵が穴の中に手榴弾を投げ入れ、火炎放射器を使った。そして星条旗を立てた。日本軍がまだ潜んでいる壕からは薄紫色の煙が穴から出ていた。そのまま二十四日は星条旗が掲げられていた。 夜になった。照明弾が夜空に輝き始めた。地下にいる日本軍からは、軍用犬の鳴き声も聞こえていた。硫黄島では軍用犬も使われた。そして映像「硫黄島決戦」(日本クラウン株式会社)では軍用犬の死体も映っている。この戦争の犠牲者は人間だけではなかった。 翌25日、この日も摺鉢山の旗に異変があった。これも文献としては「十七歳の硫黄島」(秋草鶴次)にのみ書かれている。 二月二十五日早朝。いつの間に取り替えたか、摺鉢山にはまたもや日の丸の旗が朝日を浴びて、泳いでいた。まぶしいほど綺麗な懐かしい旗だ。これは、いまだ頑張っている守備隊員がいるあかしである。あれほどの攻撃を受けたのに、よく頑張っているな。しばらく見入っていた。 あの旗はどこにあったのだろう。不思議な思いだ。それに、あの旗は昨日とは違う。昨日の日章旗より、少し小さい四角だ。もしかすると、急拠作製した血染めの日章旗かもしれない。日の丸が茶色く見える。影を見ると泣いていた。 拝む想いで眺めていた。 (秋草鶴次「十七歳の硫黄島」) その後の戦闘で、摺鉢山の旗が日章旗にかわることはなかった。 |