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羽田空港に刻まれた戦争の歴史

8月15日 11時30分

喜多祐介記者

終戦から67年。
日本の空の玄関「羽田空港」も戦争と無縁ではありません。
太平洋戦争の末期、周辺は空襲を受け、多くの人が犠牲になりました。
さらに戦後はアメリカ軍基地になりました。
羽田空港に刻まれた戦争の歴史と人々の歩みを社会部の喜多祐介記者が解説します。

忘れられた米軍基地の過去

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お盆の時期、羽田空港は多くの帰省客で混み合っています。
家族連れに、この空港がかつてアメリカ軍の基地だったことを伝えると、「知らなかった」とか「びっくりです」といった反応が返ってきました。
羽田空港は、終戦の1か月後、GHQによって接収されました。
当時の映像を見ると、空港の看板には「HANEDA AIR BASE」=羽田航空基地と書かれています。
また、駐機場にはアメリカ軍の輸送機などが多く見られ、当時は航空管制もアメリカ軍が行っていました。

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基地に翻弄された住民

基地の歴史に翻弄された男性がいます。
橋爪克實さん(81)です。

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戦前の空港は、今のおよそ30分の1の大きさで、周りには多くの人が生活していたといいます。
ところが太平洋戦争末期、周辺は何度も空襲を受け、焼け野原になりました。
多くの人が犠牲になり、橋爪さんの自宅も焼けました。
その時のことについて、橋爪さんは、「昭和20年4月15日に、空襲警報が鳴ったので自宅に帰ろうとしたら焼い弾のため途中で帰ることができなくなった。そして朝になって戻ったら自宅が焼けていた」と話しています。
焼け出された橋爪さんたちに、さらに追い打ちをかけたのが、アメリカ軍による羽田の基地化に伴う空港の拡張でした。
橋爪さんなど、当時住んでいた人たちが復元した地図によると、かつての空港の周辺にはおよそ1300世帯が暮らしていました。
その住民に対し、アメリカ軍は、突然、48時間以内に土地を明け渡すよう求めました。
空港の近くには、当時、立ち退きを監視するため銃を手にしたアメリカ兵が立っていた橋が、今も残っています。
その時の様子について、橋爪さんは、「いつでも銃を使えるような格好で立っていました。住民は何も言えなかった」と話しています。
橋爪さんの自宅があった場所は、空港のフェンスの中にあり、今もふるさとに戻ることはできません。
橋爪さんは、「何も悪いことをしていないのに戦争で焼かれ、終戦になり、やっと楽しい生活を送ることができると思ったら追い出された。非常に腹が立った」と話しています。

戦後の出発点とした人も

一方で、アメリカ軍が駐留していた頃の空港を、戦後の出発点とした人もいます。
澤地桃子さん(75)です。

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澤地さんは、空港を訪れる日本人向けに観光ガイドをしていました。
アメリカ軍の駐留は、終戦後、13年間続き、全面返還されたのは昭和33年でした。
この間、国際線の乗り入れも始まり、日本人にとっては観光地の1つともなりました。
当時の空港の様子について、澤地さんは、「アメリカ軍の教会や映画館があって、観光バスで見学に来た人を引率して、案内していました」と話しています。
今の羽田空港には、基地だった頃の面影を残す施設があります。
おととしまで、大手航空会社が、整備用の施設として使っていた格納庫は、占領期のアメリカ軍が建てたものです。
その中には、戦後初めて日本が開発した、復興の象徴ともいえる「YS11旅客機」が保管されています。

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澤地さんは、国際化し、日本の空の玄関となった今の羽田空港を訪れるたび、戦後の厳しい時代の中でも、たくましく生きようとした当時のことを思い出すといいます。
澤地さんは、「改めて空港に来てみると感慨深いです。これからもずっと平和な時代であってほしいと思います」と話していました。
羽田空港は、終戦、占領、そして復興と、戦後日本の人々の歩みを今に伝えています。

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