戦時中、日本が軍部主導で秘密裏に進めた原爆製造計画。その拠点となった福島県石川町では、原爆の原料となるウラン鉱石の採掘に、学徒や町民がかり出された。まだ若かった学徒は今、学生らに当時のことを伝えようとしている。戦争に敗れた8月15日。あれから67年が経った――。
■1枚の写真契機 「何があったか」
杉の木が生い茂り、かつての面影はなくなっていた。JR水郡線の線路沿い、福島県石川町塩ノ平。ここで1945年4月から敗戦を迎える8月15日まで、旧制私立石川中(現・学法石川高)の生徒たちがウラン鉱石の採掘を強いられた。
「ウランを掘っていたのは、日本ではここだけなんです」。地図や写真を手に有賀究さん(81)が説明すると、質問が飛んだ。学生の服装は? 道具は?
今月8日、有賀さん、同級生の前田邦輝さん(82)、鈴木千之助さん(81)が、「後輩」にあたる学法石川高校考古学部の部員5人をウラン採掘の現場に案内した。
1枚の写真がきっかけだった。5人は昨年7月、学徒や婦人、軍人約90人が採石場で写った写真を見つけた。彼らは一体どんな人たちで、なぜ写真に納まっているのか――。ウラン採掘について調べ、有賀さんらにたどり着いた。折しも原発事故があり、放射能の健康被害についても調べていた。原発も原爆もウランが材料だ。5人の中に「当時は何があったのか」という疑問が膨らんでいった。
前田さんらはあの頃を振り返り、語りかける。
毎朝8時ごろ集まり、夕方4時ごろまで働いた。中学3年の3クラス、計150人の学徒動員。半分は近くの飛行場建設にかり出され、残りは採石場でスコップやつるはしを使って表土を掘った。探していたのは「黒く光る石」。だが、見つかった記憶はない。ウランという言葉自体知らなかったし、そもそも何を目当てに掘っているか、知らされていなかった。「こういう仕事をしてる時、すでに頭の上を敵の飛行機が飛んでいた。見込みのないことをやってたんじゃないか」
一方、同級生の有賀さんは陸軍将校からこう言われたのを覚えている。君たちの掘ってる石で爆弾を作ると、マッチ箱一つでニューヨークを破壊することができる――。「国のために頑張らなきゃいけないって思った」
前田さんらの話に耳を傾け、部長の榎理恵さん(18)は「多くの人に知ってもらい、記憶に残しておかなければと思う」。調査した内容を論文にまとめ、9月、奈良大学主催の全国高校生歴史フォーラムに応募する予定だ。(笠井哲也)
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■旧陸軍も研究 開発は失敗に
戦前から石川町は、放射性元素など希少元素を含む鉱物が採れる場所として知られていた。
1928年、東京の理化学研究所の飯盛里安博士は、石川町で採れる「ペグマタイト」に含まれているモナズ石の中のウラン含有量を計測、33年からはウラン塩を精製した。40年代に入ると、旧海軍と旧陸軍はそれぞれ原爆開発計画を進めていく。旧陸軍の協力の下、理化学研究所は飯盛博士を石川町に疎開させた。
町史編纂(へんさん)専門委員の橋本悦雄さん(63)は、ここでは産出量が少なく原爆製造ができるほど採れなかったとみる。技術的にも原爆製造のために必要なウラン235の分離・濃縮ができず、開発は失敗に終わった。「日本でもマンハッタン計画のまねごとをしていた事実がある。昭和史の一つの事実として後世に残したい」と調査を続けている。