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放射化学の父
飯盛里安(いいもり さとやす)
明治18年(1885)〜昭和57年(1982)
金沢市鶴間谷生まれ
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飯盛里安は放射科学が日本に導入される初期から関わり、本格的な学問としての創設に大きな功績を残しました。
理化学研究所の創設期から主要研究員として放射性鉱物の探査、放射能測定機の考案、希有元素の精錬、後進の教育などにあたり、放射化学の主要な分野で活躍しました。アイソトープを「同位元素」と邦訳提唱したのも飯盛です。第四高等学校では八田與一と同学年でした。 |
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| 1885 |
(明治18) |
0歳 |
10月9日、加藤里衡、豊子の次男として鶴間谷に生まれる。父が高岡の射水神社宮司となったため高岡に転居 |
| 1898 |
(明治31) |
13歳 |
高岡中学校に入学 |
| 1903 |
(明治36) |
18歳 |
早稲田中学校(5学年)に転学 |
| 1904 |
(明治37) |
19歳 |
第四高等学校(大学予科二部工科)に入学 |
| 1907 |
(明治40) |
22歳 |
東京帝国大学理科大学化学科に入学 |
| 1910 |
(明治43) |
25歳 |
飯盛挺造の二女ユクと結婚 東京帝国大学理科大学大学院に入学 |
| 1911 |
(明治44) |
26歳 |
東京帝国大学理科大学助手となる |
| 1913 |
(大正2) |
28歳 |
高峰譲吉が欧米諸国の科学研究所を紹介、深く感銘 |
| 1915 |
(大正4) |
30歳 |
第一高等学校教授となる |
| 1919 |
(大正8) |
34歳 |
「アイソトープ」を「同位元素」と邦訳 イギリス留学 |
| 1921 |
(大正10) |
36歳 |
桜井褒章受章 |
| 1922 |
(大正11) |
37歳 |
理化学研究所主任研究員となる |
| 1930 |
(昭和5) |
45歳 |
「ラドン定量器」特許出願 |
| 1931 |
(昭和6) |
46歳 |
「放射能測定器」実用新案出願 |
| 1944 |
(昭和19) |
59歳 |
朝日文化賞受賞 |
| 1945 |
(昭和20) |
60歳 |
帝国学士院賞受賞 |
| 1952 |
(昭和27) |
67歳 |
飯盛研究所設立、人造宝石の研究 日本分析化学会名誉会員 |
| 1964 |
(昭和39) |
79歳 |
勲四等旭日小綬章 |
| 1980 |
(昭和55) |
95歳 |
桜井錠二博士顕彰碑の題字揮毫 |
| 1982 |
(昭和57) |
97歳 |
10月13日、死去 |
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