tsuzu's tea ceremony


南蛮屏風
大阪・南蛮文化館蔵
    “南蛮屏風” の一部
南蛮寺
左の“南蛮屏風”のうち、左上の南蛮寺部分を拡大したもの



                16世紀の南蛮屏風からの連想

  大阪南蛮文化館所蔵の南蛮屏風には、ポルトガル船から上陸し、船荷を担いでがやがやと行列する南蛮人一行や出迎えの宣教師、彼らを家の内外から見守り噂し合う日本人の姿などが色鮮やかに描かれている。ボンバーシャという袴のふくらんだようなズボンをはき、一様にとがった鼻をもつ南蛮人一行の中には、主人に日傘をさしかける黒人従者や孔雀、アラビア馬も見え、当時の人々が初めて目撃した南蛮の人や物への興味であふれている。

  生糸や反物などの輸入品に混じって薬が入っていたとされる大壺が目につくが、これが茶壷のようにも見えるのだ。この頃ルソン(現在のフィリピン)の壷が茶壷として注目されるようになり、多くの商人が壷を求めて“蟻のごとく”(宣教師バプティスタの書簡)マニラに殺到したというから、これら舶来の品々の中には信長や秀吉など時の権力者に献上されたり、大枚と引き換えに茶人の手に渡ったものがあったかもしれない。その意味では茶の湯の隆盛は南蛮人・日本人双方にとって巨大なマーケットであったことは確かで、利休をはじめ当代茶人に経済都市堺の豪商が多いというのもうなずける。

南蛮寺カラー  行列の上方に目を移すと、そこは南蛮寺の一室である。青畳に正座した宣教師と日本人修道士が書物を読み合わせている最中、別の日本人が朱の天目台に金色の茶碗をのせて今まさに茶を運んできた場面が描かれているのだが、事実南蛮寺の中では茶の湯がたしなまれ、このような光景が見受けられたらしい。

  イエズス会日本巡察使として来日したヴァリニャーノは、当時の日本における茶の湯の重要性を知り、すべての修道院に茶室を設け、茶の心得がある者を置いて接待専門にあたるように指示した。日本に溶け込み円滑に布教を勧める為の知恵なのだろうが、1581年に神学校(セミナリヨ)を併設した安土の修道院の1階には、設備の整った清潔な座敷が造られ、はなはだ高価で見事な造りの茶の湯の場であったという。日本全国で人口二千万人にも満たない当時、イエズス会の宣教師は75人、15万人の信者と二百余の天主堂を有していたと報ぜられている。実際、天主堂の全てに茶室が完備されたとは考えにくく、また宣教師と差し向かいで茶を供せられた人間も限られていたであろう。しかし、例えば有馬の神学校ではオルガンの伴奏に合わせて少年たちがラテン語や日本語の聖歌を歌い、クラボやビオラを弾奏していたというから、異国の調べがかすかに聞こえてくる中で、南蛮人と日本人が茶を服し、語り合っている情景に思いを馳せてみるのもまた楽しい。

                                   (この小文は、わが細君の執筆したものです。)




   アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ
       『日本巡察記』(佐久間正訳,平凡社・東洋文庫229,1973年3月)より

ヴァリニャーノ  日本では一般に茶と称する草の粉末と湯とで作る一種の飲物が用いられている。彼等の間では、はなはだ重視され、領主達はことごとく、その屋敷の中にこの飲物を作る特別の場所を持っている。日本では熱い水は湯、この草は茶と呼ばれるので、この為指定された場所を茶の湯と称する。日本ではもっとも尊重されるから、身分の高い領主達は、この不味い飲物の作り方を特に習っており、客に対し愛情と歓待を示すために、しばしば自らこの飲物を作る。(第2章より)

 我等の教会にも、これと同様の者が大勢いる。すなわち、神学校に住んでいる少年も、剃髪し、長衣を着て、我等の修院に居る者も日本では同宿という名称で呼ばれているからである。彼等は長衣を着用しているが、われらイエズス会員とは異なった服装であり、尊敬され、信心深い者と考えられているが、イエズス会の修道士でないことは周知のことである。しかし彼等の中の多数の者は、修道士になる為に育てられたのであるし、日本人の間では評判が良いので、修道士の数が不足している為に、今では宣教師のもっとも重要な仕事すら手伝い、司祭達は彼等を頼とし、彼等を徳操に導くように努力している。……言語や風習は我等にとって、はなはだ困難、かつ新奇であるから、これらの同宿がいなければ、我等は日本で何事もなし得なかったであろう。今まで説教を行ない、教理を説き、実行された司牧の大部分は彼等の手になるものであり、教会の世話をし、司祭達の為の交渉の文書を取り扱い、−先に述べた−茶の湯の世話をするのも彼等である。茶の湯は日本ではきわめて一般に行なわれ、不可欠のものであって、我等の修院においても欠かすことができないものである。(第15章より)


  カトリックのミサと茶道との類似性については、古くは西村貞『キリシタンと茶道』(全國書房,1948年)から、下記推薦書中のピーター・ミルワード(森内薫・別宮貞徳訳)『お茶とミサ 東と西の「一期一会」』や増淵宗一『茶道と十字架』でも考察されています。
  また、1枚の南蛮屏風中の日本人老人を千利休ではないかと考え、彼をキリシタンとしてとらえていく山田無庵『キリシタン千利休 賜死事件の謎を解く』(“せんのりきゅう”が“セント・ルカ”から名づけられたとまで言うのですから、もう感動物です!)まで、確かに興味あるテーマであることは間違いありません。




tsuzu's tea ceremonyを理解するための推薦書〕

  西村貞『キリシタンと茶道』(全國書房,1948年)

  ジョアン・ロドリーゲス(浜口乃二雄訳)『日本教会史・上』(岩波書店・大航海時代叢書第T期9,1967年10月)

  アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ(松田毅一ほか訳)『日本巡察記』(平凡社・東洋文庫229,1973年3月)

  監修:松田毅一、文:東光博英『日本の南蛮文化』(淡交社,1993年5月)

  山田無庵『キリシタン千利休 賜死事件の謎を解く』(河出書房新社,1995年1月)

  ピーター・ミルワード(森内薫・別宮貞徳訳)『お茶とミサ 東と西の「一期一会」』(PHP研究所,1995年4月)

  増淵宗一『茶道と十字架』(角川選書270,1996年2月)

  ピーター・ミルワード(金子一雄訳)『お茶の巡礼−ローマ・アッシジ・リスボン』(河出書房新社,1997年1月)


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