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ショッツルの由来       塩魚汁

  昭和13年(1938)3月9日 秋田魁新報夕刊の記事
  ショッツルの由来
 仙葉善治

塩魚汁は、佐竹侯が常陸の水戸より秋田藩に封ぜられてより新屋町の大門助右衛門家へ命じ醸造されたのが、抑(そもそ)もの濫觴(らんしょう)である。自分等の子供時代

「新屋の大門塩辛の手、其の手でお釈迦に団子上げた、お釈迦臭せとて鼻まげた」

と無意味に口ずさんで居ったものだ。当町は元来□清水に富み醸造に適する土地として、且つ城下に近い所から、藩公の命に依り当時の有力家7人の出金に依り纏(まと)い酒屋を組織し、毎年約千石の清酒を醸造して、秋田市の大町一丁目へ出店を出して居ったが、其の銘酒を「春霞(はるがすみ)」と称した。

 殿様並に重臣用の酒は、別に大門助右衛門方で、御試し所(おためししょ)(今の醸造試験所)で醸造し、「嵐山」という酒名で上納したものである。かかる関係上 塩魚汁の醸造も大門家へ命ぜられたので、前記の言い来りがあるのである。

 当今と違い昔は新屋浜方面にも、鰯や鰰がいつも大漁で、且つ浜辺に塩田を作り、沢山の塩を産出したものである。その漁れ立ての生きた魚類を、然も出来立ての塩を以て桶へ漬け、2 3年も放置して居れば、醗酵して骨も頭も全部どろどろになる これを搾ると丁度色のない醤油のようになるので、それを調味料として一般的に広く愛用されたのである。

 昔の政治は中々行き届いたもので、藩内一般の年中使用させる食物として、最も安価で且つ栄養価のある此の塩魚汁を、藩主自ら之を用い、一般に指導奨励されたのである。

 聞く所によれば、将軍家では毎年の正月2日、千代田城で大名や旗本の年賀を受ける際、御馳走として鶴の吸物を賜わったそうである。秋田の佐竹侯もそれになろうて、正月2日には鶴の吸物なりと称して、ショッツルの吸物を賜わった。ショッツルのツルはそれから出たのである。

 近来学者の発表によれば、魚1尾の持つ栄養分は、頭(かしら)と骨並に臓腑に3分の2を有し、高価な肉には3分の1より有しないとのことである。

 塩魚汁は、頭も骨も臓腑も肉も全部解けて、其の汁を其のまま食用とするので、栄養価正に百パーセントであると云える。

 自分等幼年の時代、近所の農村の百姓家に行くと、終日汗水流して働いて、さて晩のめしは真黒な米飯に、塩魚汁貝焼に干葉や大根おろしに、沢庵位でうまそうにしているのを見て、真に百姓の生活が気の毒なように考えていたものだが、今の栄養価より考えて見ると、半搗米(はんつきまい)にカロリーの多い塩魚汁を配したことは栄養価満点といい得るのである。

 都会生活をする上流の家庭では、日本人の身体に慣れない半可通の洋食などを食い、美食なりと称し、多食の結果下痢などを起して、青い顔などをしているのを見ると、誠に笑止に絶えない次第である。

 近来一般的に高価なものは栄養があるように思い、日本古来の而も日本人に適した栄養のある物を顧みない傾向があるのは誠に慨嘆に堪えないことである かかる成金の食通などと称する人々あらば、百円札の煮付に、舶来の香水でもぶっかけて食わしたら、天下の美食であると舌鼓を打つことであろう。呵々(かか)

 高貴の御方々が、秋田に見えても、一番御気に召すのが今の塩魚汁であるように思う。されれば当地の営業者もいろいろ研究に研究を重ね、旧来唯一の欠点であった悪臭を取り、今では立派に何処へでも向く様な、上等な品を造るように進歩したのである。従ってこれが販路も暫次広く、殆んど全国的で、至る所至大な好評を博するような次第である。

(筆者は河辺郡新屋町の人で前新屋町長。現同町国防婦人会長。味噌、醤油、並に新味ショッツル醸造業を営む。写真は仙葉氏

    昭和13年(1938)3月9日 秋田魁新報夕刊の記事


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